欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

欠乏のごまかし 無欲でいられる時

昨日にブログを書き、今日はやることがない。エネルギーも時間も持て余している。言ってしまえば暇だ。欠乏を満たすことにも費やせず、成長のためにも費やせない。詰まるところは、やはり欠乏を満たしたいということ。それをするしかない。それでしかない。緩んだ心にエネルギーが欲しい。それによって成長欲求が現れてくるだろう。今日は充電をしたい。そういった日であるべきだ。欠乏に振り回されず、マイナスを満たすための意欲を打ち消し、エネルギーを建設的に用いたい。

そんな今日、購入したマズローの著作の原典が届いた。これがあればやる事にはなる。でも、それを読んでも心身は満ちないだろう。日々勉強し、成長のために内的に費やしたいけれど、そればかりでは嫌になってしまう。バランスが失われてしまう。内的な主機能ばかりを過度に用いれば、それを支えるエネルギーの資源が失われる。

アーロン博士の著作に記されていたけれど、遊ぶことが重要だそう。乳幼児や敏感すぎる身体は、遊んで楽しむ必要があるのだそう。それにより、エンドルフィンが分泌されるなど、様々な良い変化を起こしてストレスが解消される。自身の身体が、「落ち込み」「感情の高ぶり」「不眠」といった精神的なアンバランスを示すサインを発したのなら、もっと遊ぶように仕向けるのが良いそう。遊びや楽しみは、自分のペースで本を読んだり、家でゆっくり食事を食べることだったりするそう。

遊ぶことだ。それを日々に据えたい。それは誰だって欠かせないものだろう。悠長に過ごしている自分であっても、それはさせてほしい。半日ほどでも良いから遊びたい。遊ばせてください。そうする必要があるのだろう。そうしなければならない。誰しも意識をしているか、無意識的に心身のバランスを取っている。仕事場と家庭では、それぞれエネルギーの用い方があるはず。自然と切り替えをしていると思う。

何もやることのない人間であっても、それはしても良いだろう。そう許そう。いや、病める人間ならば、身体を癒すのが務めだろう。それをいの一番にすべきだ。最優先の事だ。そのためには、まず何気無い遊びから。

ほんのわずかな時間だけで良い。わずかな時間で欠乏を満たしたい。個人的なライフサイクルは決まりつつある。自分は、内的に過ごす必要があるはずだ。それをしつつ、エネルギーを得るためにわずかな時間を設ける。週に数回程度で良いと思う。週に数回で、数時間くらい誰かとやり取りが出来たら良い。それくらいで良いはず。個人的な日常のルーティーンは決まっている。やれる事と、やるべき事。そのなかでやらなくて良いこともある。内的にエネルギーを費やし、それを表現する。それを日々の基軸としたい。

一般的な人生を羨むことは少なくなっている。自分は自分で良い。自分で居るしかない。そのなかで幸福になるしかない。それだけで良いだろう。それだけで十分だと思う。存分に自分らしく居るために励むこと。それが出来たら良い。

直近の体調だと、安定しつつもあるし、やはり落ち込んだりもする。まだ病的な水準に居る。それを痛感したりもする。依然として余裕はなく、抜本的に生活を変える必要がある。それはずっと変わっていない。今のところだと、全ては時の運。それによって変動してしまう。まだまだ病人の一喜一憂が続いている。

何かの大きなストレスがないことが重要。ストレスは全ての病根だ。フラストレーションも含めるとそうなる。それをすべて取り除くことが欠かせない。体調と抑圧を左右させるのは、厄介なストレスだ。

ストレスがなくなれば、自然と身体の状態は良くなっていくはず。フラストレーションがなくなれば、自然と無理のしすぎはなくなるだろう。そうやって身体の下地が整えば、明らかな変化が感じられるはず。

このような前提を整えない限り、病的な状態で踏ん張っても仕方がない。今はそれをしてしまっている。何も変わっていかず、それどころか逆効果にもなる。悪循環を生み、破滅的なサイクルに陥る。自然と変動する身体によってストレスが生まれ、それはまた身体の変動によって抜け出していく。今のサイクルはそうだ。体調の変動は、すべて時の運。

気楽に考えることが出来れば、それはストレスがなくなっていく。いや、それはどうしても出来ないのだ。だからこそ厄介になる。気楽に考えてストレスを減らすのではなく、ストレスを減らして気楽に居るしかない。順序は逆だ。理知的な表層の意識によって変えていくしかない。やるべき事をやること。その結論は出ている。受動的に構えていても始まらない。

心の養生をすること。ストレスにも、フラストレーションにも共通するのは、欠乏欲求があるということ。それを満たせないことだ。それが大きな影響を与える。それは遊びにも繋がるし、個々人同士でのやり取りにも繋がるだろう。

多少の時間を設け、そこで欠乏欲求を満たすこと。それだけで良い。それしかない。

マズロー曰く、自己実現の欲求は、動機付けられたものではなく、内部から進行するものであるそう。逆説的ではあるけれど、最も高次の動機は、動機付けられたものではなく、努力して得るものでもない。自己実現は、欠乏に動機付けられたものではなく、成長に動機付けられたものであるそう。別の純真さがあり、賢い無邪気であり、くつろいだ状態であるそう。

自己実現の方向に向かうためには、いくらかの欠くことの出来ない動機付けの問題を解決する必要がある。それは欠乏を満たすことだろう。何かに向かって努力することは、結果として努力しないことに繋がるのだそう。

 

このブログはどのように記せば良いのだろうか。今の自分は、自己実現の欲求が現れているのではなく、未だ欠乏欲求に覆われている。成り得るものに成ろうとしているけれど、根底には欠乏動機がある。文筆の動機には、欠乏欲求を満たしたいという気持ちがある。

努力して欠乏を満たそうとしても、それらの大方は満たせずに終わる。それは空虚で無為だ。何も変わらず、心身に必要なエネルギーは、枯渇したままだろう。

性に合うことをするしかない。やりたくなる事や、やらざるを得ない事をするしかないのだろう。そうでなければ続かない。欠乏を満たすための動機では、満たされなかった時に苦痛を感じてしまう。途中で嫌になる場合もあるだろうし、長期的にし続けられることではない可能性がある。生涯に渡ってやり続けられることでなければ、それは自己と同一視できないだろう。

詩人であれば、詩を書くことだ。それが自己のアイデンティティーと一致するはずだ。そのためには、成すべき事が性に合うものである必要がある。それをしなければならないだろう。違う言い方だと、やりたいことよりも、やらずにはいられない事をすべきだ。

趣味的な作業で自己実現をするのであれば、無欲で取り組めないと難しいだろう。その無欲は、性に合うものである事が必須だろうけれど、それは欠乏を満たすことでも整うはず。それが土台となり、その上で現れるのが自己実現の欲求なのだ。その欲求があってこそ、逆説的に無欲で無私に取り組むことが出来る。それが叶うのは、欠乏が全て満たされているからだ。

 

真面目に働くことや、自分に運命付けられた天職をやり遂げることが救済に繋がるそう。救済とは、自己実現をもたらす仕事や義務の副産物だそう。

やはり欠乏を満たさなければならないのか、あるいは欠乏が満たされていなくても、擬似的に成長であっても救済にありつくのか、一体どうなのだろう。

ブログは努力をしている部分がある。マズローの言葉と照らし合わせた場合、好ましい行いなのかが頭に浮かぶ。やはり欠乏を満たすことが欠かせないのか、今の状況であってもこういった努力に意義があるのか、それがよく解らない。

ナチュラルに言いたいことだけを記したいけれど、欠乏がある内はそれが難しい。成果や結果が気になる。純で無欲な動機で記すことが出来ない。出来映えが気になるし、理想の形がある。それを今までで形にすることが出来たのだ、という意識が得られてしまっている。記すことに対する壁が大きくなってしまっている。自縄自縛だ。誰に煽られているわけでも、批評されているわけでもない。全ては自分の認識だ。それなのに、どうしても足かせ手かせが生まれてしまう。

夜中に歯ぎしりをしているのか、それともしていないのか、よく解らない。歯が削れている気もするけれど、そうではない気もする。歯が抜け落ちるような夢は見なくなっているけれど、どうかなのだろう。

日々の進捗を見いだしたい。その意識があるために、ブログでの成果や、身体の水準が気になってしまう。日々を改善するための要素には、それくらいしかないからだ。自分は、過去にそうやって学んだ。元気があれば何とも出来るのだ、と、考えがちだ。

それに、社会的な肩書きがほしい。存続を確かにしてくれる作業を得たい。でも、それは容易には得られない。おのずと体重とブログに置き換えられてしまう。そのいずれも根底にあるのは、欠乏をごまかそうということ。まともな結果は出ず、それは体調の停滞と抑圧に生まれ変わってしまう。

 

結局変わらずに過ごす日々。誰にも連絡は出来ず、バーチャルに刺激や繋がりを求めることも出来ない。手も足も出ない。無為に過ぎてしまっている。

ほんの少しの時間で良いから、誰かと繋がりたい。その事で変わっていきそうだ。愛と、繋がりと、承認と、尊重。

 

今日も変わらない着地点に行き着く。変わらない繰り返しの検証。

このまま朽ちて果てるのだろうか。そんなことが頭をよぎる。

試行錯誤は続く。

 

また明日。

 

参考文献:

人間性の心理学―モチベーションとパーソナリティ