欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

習慣の外側 本当の自由と解放

曇りだった午前中から一転、初夏の暖かさに包まれている午後。緩やかな時間が流れている。落ち着いた体調と、豊かな季節感が合いまっている。遠くの木々のさやぎ、鳥の鳴き声、町の喧騒と車の通る音、薄い身ごろもと少しの風。身体が楽な時は、心も楽になる。

ぼんやりといつかの日々を思い出す。かつて通っていた病院での事だ。行き帰りの道中と、そこにある季節の風情。診察で巻き起こった感情はたくさんあり、屈辱もあれば安堵もあった。

趣向を変え、寄り道をした帰り道。それらの色々な心情と風景。今は心地よい気持ちで居るから、楽しかったことの方が浮かぶ。診察が終わり、緊張が解けた安堵と、心地よい風が吹き込む車窓。刺激的な本屋での高揚。

今となっては全てが思い出深い。それは今が充実している証なのか、それともまだ充実していないのか、よく解らない。でも、かりそめの瞬間がここにあるのだろう。たまにこういう時を迎える。

 

昼間の心の波長がある。昼間の街と、昼間を過ごす心。心の波長と街の波長。どれもが趣深い。豊かで胸が一杯になる。これに加えて、活動的でいられたら至高なのだろう。

いつかのように、またそうやって過ごしてみたい。今の画一的な日々を抜け出し、悠々と束縛なく生きてみたい。好きに寝食を回したい。自縄自縛に陥らず、過去の人にも縛られず、開放的に生きたい。自分は、健康になりたい。

ただ何気ない日常を過ごしたい。今の水準で思うのは、それだけのこと。それだけで良い。

いや、そう思ってしまうのは好ましくない。欠乏を満たして幸せになることが、本質的な救いになるだろう。それを考え、実行すべきだ。身体の水準ばかりを追い求めるのは違う。

欠乏を満たしてくれる人、場所、行い、それらが欲しい。それらと接続し、触れあい、費やし、有意義な日々を送りたい。それだけが欲しいものだ。

 

春夏秋冬の、朝昼晩の何気ない営みをしたい。季節があり、人が居て、風情があり、その中心に豊かな主観があれば良い。そんな理想がある。

あの豊かな小説を読みたい。あのやかましい夏に戻りたい。もうじき新聞にフェアが載る。既に暑い朝と、夏の小説の広告。いつかの頃を思い出す。薄着した暑い頃には、本屋に行く機会があれば良い。

体調の変動は、定期的にやってくる。些細なことに揺れ動いてしまう。病院があることや、フラストレーションを募らせてしまうことなど、病的な身体には全てが応える。確かな生活の基盤がない中で、微細な刺激は、内的にも外的にも生まれる。それは余裕のない身体を揺るがす。

病院が終わった後は、大体調子が戻ってくるものだった。でも、今月は別のストレスが生まれてしまった。それも些細なことで、またそれに足を取られていた。まだまだ自分が病的なことを思い知らされる。相当痩せていて、十分な食事を頂いてはいない。繰り返し検証するなかで、改めてそう認識した。しっかりと現実を認知しようとすると、その事は明白だった。

ただ、そこで立て直そうと踏ん張っても、かえって悪循環の入り口に立つ。多少のつまずきは体調の変動をもたらすけれど、そこと格闘すれば、更に足を取られる。ぬかるみの中では、もがけばもがくほど抜け出せなくなってしまう。そのぬかるみはストレスが生む。体調の変動は、時の変動。そこと格闘しても、結局は自然な変動で変わっていく。

欠乏欲求を満たしてくれるものは、やはり人だろう。そうなのだろうな。ただ、そこまで人と会いたいという訳ではない気がする。

全く人と関わりたくない訳ではなく、日々のルーティーンとサイクルが壊れない程度で、人と交わりたい。そう思っている。そのなかでの満足は、小一時間程度で良いはず。日頃のエネルギーの欠乏を、そこに注ぎたい。

愛と承認と刺激。社会的存在感と正の感情。これらが欠乏だと思う。肯定をやり取りすること、誰かから尊重されること、日々に飽きないこと。それが欠かせない。身近に誰かが居てくれ、ソーシャルの場で認められ、新しい場面や場所に遭遇すること。

 

この認識に落ち着いているものの、変わらない日々が続いている。待ちの態勢のままで、何も変化がない。変わるのは日々の体調のみ。どうにも壁は大きい。このまま変わらずに朽ち果てそうだ。そんな思考になったりする。健康になれず、自立も出来ず、豊かに生きられないまま、不可逆なものが増えてしまう未来。次第に潤いもなくなり、乾き、過ぎ去りし日々を振り返るだけになってしまいそうだ。

満たすべき刺激を満たさない限り、健康にはなれない。豊かな生活にも近づけない。先に健康を得てしまおうとしても無意味だ。順序は逆で、工夫して変えるのではなく、抜本から変えるべきなのだ。

その道筋は解っている。悪しき芽を摘み取るしかない。体調ばかりを気にするのではなく、心の本質的な養生を必要する必要がある。本質的な救いは、誰かの手によってもたらされる。本当の満足を得ることだ。

内的に費やすことが重要だと思っていても、それによって縛られている面もある。習慣に束縛され、本当の満足からは遠ざかっている気がしている。

マズローの原典にこう記されていた。

いわゆる高次の活動や思考、発明、創造に従事している人は、このような活動は第一条件として、自動的に日常生活の些細な問題を解決してくれる巧妙なたくさんの習慣を必要としていることに気づいているので、創造的な人は自分のもっているエネルギーを、いわゆるより高次な課題に対して費やすことができるのである。しかし、ここには矛盾、時には逆説さえもが含まれている。実際には、この世界は固定したものでも、見慣れたものでもなく、また、反復していて変わらないものではない。そうではなくて、常に流動しており、永遠に新しく、いつも何か別のものに発展しており、移り変わり、変化しているものである。

(中略)

習慣が世界の固定的な部分ではいかに役立つものであろうとも、有機体が今まで出会ったことのないような独特で新奇な課題を抱えているこの世界の変化している流動的な側面に対処しなければならなくなった時には、習慣はかえって確かに妨害物や障害になることも認められなければならない。

ここに逆説がある。習慣は必要なものであると同時に危険なものであり、有用なものであると同時に有害なものである。習慣は疑いなく時間や労苦、思考を節約してくれるが、そのことに対する代償は大きい。習慣は適応のための最上の武器であるが、逆に適応を妨げるものにもなる。

(中略)

結局、習慣は真実で生きいきとした注意や知覚、学習、思考などを怠惰な方法に置き換える傾向があるのである。

何の束縛なく生きるためには、新しいことをするしかない。新しい出来事により、全ての欠乏を満たすことだ。

でも、それが人間の生涯において、一番難しいことかもしれない。

「個人が存在することは、欲求を満足させ、緊張を緩和させ、心の平衡を保っていくための絶え間ない苦闘だ」

そうも記されていた。それは物質的な低次欲求についてのもので、好ましくない認識だと引き合いに出されていたけれど、確かにそういう面はある。現在のところ、自分は低次の満足しかない。この状況においては、その言葉は真実でもある。そのなかで満足という前提を整えれば、低次欲求を超越し、高次の認識を持つ事が出来るのだろう。

今の生活の全ては、欠乏を満たすことに終始している。ぐつぐつとフラストレーションを抱え、擬似的な代償行為に費やしている。結局は何も変わらないままだ。

今の自分は、救いを求めて本を読んだり、自己実現的な成長をもたらす価値に従おうとしている。でも、欠乏欲求を擬似的に満たそうとするよりも、実際に満たさなければならない。それに尽きる。それによって心身は満たされ、内的な主機能を活かす資源が得られる。その主機能を活かすことは、成長欲求に従うことと同じだろう。それは、何かの作業に無欲で取り組めることを表す。

純に内的に費やそうとする動機に従いたい。そのためには、欠乏欲求を全て満たすことだ。それが成長欲求に繋がる。そうなれば、欠乏を満たそうとする不安もなくなる。

ブログのコンスタントな更新や、その満足する出来映えなど、それらを意識する必要はなくなる。今の自分にはその意識がある。それは、欠乏を満たそうとしているために浮かぶのだ。本当のところでは、擬似的な成長を試みているに過ぎない。欠乏が満たされたのなら、それを意識する必要はないはず。純に勉強し、内省し、表現したくなっているだろう。それが性に合うような、自己実現をもたらす仕事にも繋がるはずだ。

 

とりもなおさず欠乏です。出掛けて、人と会い、話す。そうやって心理的な自由を手に入れること。それを日々の中心に据えることだ。それを経て内的に費やせば良い。ブログを書くことも楽になるはずだ。満足によってエネルギーは満ちているだろうから、後は内在するエネルギーを解放すれば良い。何にも縛られずに取り組めるはずだ。

本当の健康を得られたら、心身の拘束衣からは解き放たれるのだろう。

意識してマイナスに費やし、ゼロに底上げする。その過程を完遂すれば、自由自在に居られる。

 

自由になりたい。

 

また明日。

 

参考文献:

人間性の心理学―モチベーションとパーソナリティ