欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

擬似的な無理のしすぎ 欠乏との緩衝地帯

直近の日々では、体調にでこぼこがある。やはり抑圧をしてしまうけれど、その後は平穏を取り戻したりもする。でも、またすぐに抑圧をしてしまう。体調に対してセンシティブになっている。未だ何も変わっていないのだと、そう痛感する。

体調の変動は、また新たな体調の変動を生む。ストレスが原因の時もあれば、フラストレーションが原因の時もある。それが身体に与える影響は大きい。看過できないものだ。良い時の感触によって悪くなったりもするし、悪い時の感触で更に悪くなったりする。不確定なサイクルがある。中期的に落ち着いたりもするし、なかなか落ち着かないこともある。今はどうだろう。深刻にパニックに陥ることはなくなっている。

現況では、過剰な無理のしすぎはなくなっている。それは感情による病的な無理のしすぎだ。不調と周囲の感情が相まった無理のしすぎ。それは減っている。過去の痛手が蘇り、そこを掻い潜ろうとする事は少なくなった。緩衝地帯が確かになりつつあるのだろう。他者を介した無理のしすぎはなくなりつつある。

今の厄介なネックは、欠乏による無理のしすぎだ。「体調が悪ければ良くないことが起こるのだ」という思考は薄れ、「自立をし、存分に自分らしく居たい」というフラストレーションが募っている。それは神経を高ぶらせ、そのストレスが無理のしすぎを招く。

その煩悶は、自尊感情を傷付けるのだろう。"体調が良ければ"という思考は、ここにも重なってくる。自分なりの頑張り方は、無理をするということ。苦境を脱するための手段は、食事を頑張るしかない。「体調さえ良ければ何とでもなる」そういった呪縛が変わらずある。それが染み付いているのだろう。

ただ、感情による無理のしすぎよりも、深刻度は低い。極端に病的になってはいない。身体の不調に加え、更に何かのストレスが重なってしまえば、それは相当な負担になってしまうだろう。それは二次的な神経の高ぶりだ。重度のノイローゼに陥り、衰弱してしまう。入院した時などがそうだった。

今は、その状態よりも少し余裕がある。それは、感情による無理のしすぎが和らいでいるからだろう。家族と穏和に過ごすことにより、安全を感じられているはず。それが良い効果をもたらしている。

欠乏による無理のしすぎは、初歩の低次欲求が満たされてこそ発生するものだ。余裕が生まれているからこそ、フラストレーションが意識に上る。

そう考えれば、少しは進歩があるはずだ。新たな局面へと進んでいるはず。

 

身体の機能としては、何かの病態があるわけではない。単なる栄養失調のみだ。ストレスと抑圧による、胃腸の機能低下ぐらいだ。今のところは、ただの虚弱で済んでいる。身体としては、ストレスと無理のしすぎを取り除くことで、正常な水準へと元通りになるはずだ。身体はよく耐えている。後は、表層の意識が問題を克服すること。それ次第だ。

欠乏が満たされたのなら、右肩上がりで推移するのだろう。今の現況でも、その局面に入ることもある。ただ、それは長く続かない。良くなることで悪くなったりする。「気楽な思考で居られたら」と思うけれど、それは叶わないことだ。病をきちんと癒してこそ、それは得られる。根本的に変えていくこと。

満足を得ることしかない。そこからは逃れられないのだろう。

ただ、進展はあるということだ。それは認識していたい。自責感情を減らすことは大切だ。以前は何もかもの原因が解らなかった。それにより、延々と無理をしすぎていた。闇雲に食べ過ぎてしまっていた。それは感情による病的な無理のしすぎで、そうなってしまえば、時の運程度で抜け出せはしなかった。

今は十分な成果があるのだ。それを認めよう。低次欲求の充足も得ている。成長しているはずだ。ひとまずはそれを噛み締めよう。

今日はそこまでのフラストレーションを感じなかった。そう思う。散歩をし、マズローを読み、過去記事を推敲した。そしてブログも記している。捉え直しによって、新たな認識も得られている。着実な進歩はある。日々の努力は積み重なっている。そう感じている。

ただ、マズローの原典にこう記されていた。薄々そんな気もしていたけれど、今までの幻想は崩れ落ちた。

所属感や安全感などはけっして、樹木だの山だの、さらに犬などのペットなどによって満たされるものではない。他の人間からのみ十分に満足できる尊敬、保護、愛情を得ることができるのであり、またそれらを十分に与えることができる対象も他の人間なのである。(中略)

人間性の心理学 モチベーションとパーソナリティー A.H.マズロー著 小口忠彦 380ページ

単純に考えれば、その事は予想される事だった。当たり前の事でもあるし、その通りだと思う。ただ、それは自分の幻想を打ち壊すのに最適な言葉だった。撃沈です。近所の猫がすり寄ってくれるのだけれど、それだけでは満足にはならないのだろう。

現実的な理想では、賑やかな都会に住み、狭い範囲の生活圏に生き、そこに猫でも居てくれたら良いだろうと考えていた。薄々想定していたことだけれど、確かにそれだけでは健康になれないだろうな。助けてくれるのは、人間しかあり得ない。本当の健康や、本当の自由を得るのには、やはり人間なのだろう。それを改めて思い知らされる。

ただ、そもそも都会に引っ越す予定もなければ、猫を飼う予定もない。それに、そこで自立自活など到底出来ない状態だ。猫に関しては、触ることすらままならない。その程度の想定だった。

以前から記しているように、背いてはいけない道筋があるのだろう。少し前にデイケアについて格闘していたのは、やはり理に叶う面があったのだろう。

 

自分は、この田舎町で生きていく事になる。欠乏を満たすことについても、生活を営むことについても、この町で全てを構築する必要がある。バーチャルな世界で代替すべき事はあるかもしれないけれど、根本には現実的課題がある。どのように日常を送っていくか、病める身体でどう生きていくか、それは難題だ。全く現実的な道筋が見えない。

「フラストレーションは無かった」と記したけれど、それは果たして真実なのだろうか。賑やかなところに出向きたかったし、親密なやり取りをしたかった。それはある。絶えずある。その欠乏が、今の状態を生んでいるのだ。看過できないもので、由々しき状態を招いている。

デイケアへ出向くか、バーチャル空間で誰かと繋がるか、それしかなさそう。

ただ、どれも手が届かないのです。こればかりは仕方がないのです。

何の因果でこうなってしまうのか、もうよく解らない。快適にいられる環境の幅が、あまりにも狭すぎる。バーチャル空間で満足も出来ず、現実でもネックが大きすぎる。絶えずみすぼらしい身体で、時だけが過ぎていく。

習慣に縛られている可能性も大きい。言い換えれば、今の日々は、欠乏を満たすために苦慮しすぎている。誤った努力の仕方をしている。本当の救いは、家の中にあるのではない。内的に費やそうとしていても、それは擬似的に自己実現的価値に費やしているだけだ。疑似成長を試みているに過ぎない。相応しい土台を整えていないため、どこかに歪みが現れる。

日々を結果のために費やしても、やがて参ってしまう。本質的な部分では、欠乏欲求を満たすために躍起になっているだけだ。インスタントな刺激を得ているだけ。それでは本当の満足にならない。その努力に意味はあるのだろうか?

内的に費やそうと努力するよりも、抜本的に改善させること。心の養生をし、解放されることだ。それはつまり、欠乏を満たすこと。そこに行き着く。

 

今出来ることは何だろう。あまり充実したとしても、今度は書くことがなくなりそうだ。ただ、欠乏が満たせないうちは、当分鬱屈と過ごすしかなさそう。

今の日々であっても解放されたい。本を読むことや、ブログに束縛されたくはない。本来は、自然と意欲が湧いて、やりたくなってやり始めたものだ。自然な意欲によって始めたものが、欠乏を満たすためのものになっている。それを介して結果を出そうとしている。性に合うことであっても、それを人生の課題に置き換えて取り組むのは辛い。それでは自由な欲求ではなくなる。

やりたいことは、本当に好きな瞬間にやりたい。日常のどの瞬間でも良いはずだ。自然にやりたいことをやりたい。ルーティーンが壊れたとしても、さほど影響なんてないはずなのだ。

賑やかな所で刺激を感じたり、豊かな自然を感じること。それと、他者からのエネルギーを得ること。肯定のやり取りをすること。それが欠かせない。これらの欠乏がある限り、日々のやること成すことすべては、欠乏動機による擬似的な代償行為となる。精神的で擬似的な無理のしすぎだ。身体を頼りにし、無理をさせ、誤った方法で存続を確かにさせるように、擬似的な無理のしすぎも起こっている。これによって習慣が凝り固まり、自縄自縛に陥っている。ブログを書くことも、寝食のルーティーンも、これによって縛られている。

まだまだ捉え直しをすべき日々なのだろうか。日々を浪費しているかは解らないけれど、身体は辛いままだ。欠乏を満たすことができれば、エネルギーを建設的に用いる事ができる。そうなれば、内的に費やすことも、ブログに費やすことも、すべて自由に出来るだろう。一般的な社会生活さえ送っているかもしれない。満足さえ得られたのなら、それ以上の事はない。それはいつかの集大成にも繋がるはずだ。自立が叶うか、継続した何かが実を結ぶか、それらに繋がるのだろう。そう思う。

人とあまりにも過剰に違うのであれば、何か良い面もあれば良い。特徴であり、才覚であり、自己実現に繋がるものがあれば良い。

そのために、今のこの瞬間からでも満足をしたい。成すべき事をしたいし、存続を確かにしたい。日々の生活を確かにしたい。

でも、それはなかなか遠い。どうにも悔しい。

遠回りが近道なのかもしれないけれど、それは辿り着いた暁で振り返らないとそう思えない。豊かな日々へ辿り着かなければならないのだ。

何も満足がないなかで朽ち果てたくない。それを思う。せめて些細な満足があれば良い。それがあれば、それなりに過ごせるはず。それは何度も考え、繰り返し記してきた。

 

今日も同じ思考です。欠乏第一ということでした。改めて捉え直しをしたまでです。

これからどうなることやら。

 

また明日。

 

参考文献:

人間性の心理学―モチベーションとパーソナリティ