欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

人と繋がる力 劣等機能による自己実現

今日も変わらない日常が過ぎていく。行く場所などなく、無為に欠乏を満たそうと費やすのみ。内的に過ごそうとしても、それに成果はない。救済をもたらす仕事に費やしているつもりでも、それは欠乏を満たすための擬似的な努力になっている。習慣に縛られ、自らが課している作業に縛られている。

本当に大切な行いは、その習慣の外にある。擬似的な無理のしすぎに陥り、本当の心の声は取り残されたままだ。フラストレーションは募り続け、食事での無理のしすぎも収まっていない。身体は病的な水準のままだ。未だ解放からは遠い。

 

今日もやることがない。悠長にも、愚鈍にもそう思ってしまう。やることがあるとしても、それは意味のない習慣だけだ。スクリーンを見たり、本を読んだり、文字を綴ったり、その結晶をまとめたりすること。それをしたところで成果はない。欠乏は満たされず、空虚に費やしているのみ。他にもジャンクな刺激に甘んじるだけだ。

自己実現をもたらすような仕事を設定しているけれど、それは欠乏動機を中心に作り出したものだ。ブログを書くこともそうだ。それでは束縛が生まれてしまう。欠乏に飲み込まれ、自縄自縛に陥っている。

全ての欠乏を満たすことが先決なのだろう。それを経てこそ、自由に解放されるはずだ。欠乏を満たすことは、劣等な機能を活かす事と重なる。ユングマズローの哲学は交わっている。自己実現の欲求が湧き、無欲で何かに取り組めるはずだ。それはやがて、本当の救済をもたらすのだろう。

でも、それが一番難しい。大多数は、基本的欲求すら満足に満たせないはず。そもそも低次欲求を満たすことは難しいのだ。

誰しも働かなければ食べていけない。初歩の生理的欲求のために生きている。自分は未だに保護してもらっているけれど、同年代の皆は既に働いていたりするだろう。親は働いている。大多数の人は、初歩の欲求を満たすために費やさなければならない。その必要がある。

自分も、今は安全なだけで、それを絶えず求められている。その現実的な壁はあるだろう。いつか保護を失うときは来るのだ。

今日は雨が降っている。晴歩雨読のような日々を送っている。晴れた日は歩き、雨が降れば本を読む。内的に費やすにはちょうど良い日ではある。本を読み、アウトプットをし、文をまとめる。後はこのブログを仕上げるのみ。それが一日のやるべき事だと、そう定めて過ごしている。

ただ、やはり窮屈だ。成果や報酬はないし、それっぽく励んでも苦しくなる。それは欠乏を満たすためのものになっていて、習慣による拘束衣が生み出されている。ブログは、義務的に書く必要などないのに、そう書いてしまう。

フラストレーションも溜まっていないのに、義務的に書こうとしてしまう。本当は、何を書けば良いか分からないのだ。これも欠乏動機による弊害だ。欠乏欲求を擬似的に満たそうとしている。欠乏は、現実の日々で満たすべきなのだ。

 

ブログは何のために書き始めたのだろう。振り返れば、お金が欲しかったのだし、称賛が欲しかった。その欠乏を満たそうとしてしまっている。そのために苦心してしまう。

すると、表現の出来の最低水準が上がってしまう。良いものを作ろうとしてしまう。それが辛さを生んでいる。

 

人間は、性に合うことをすべきなのだろう。そうしなければならないはず。マズローいわく、最高に平穏でいるためには、自分に適していることをしなければならないそう。成り得るものに成らなければならない。

自分にとって、文筆とは何だろう。ブログを書くということは、一体どのようなものだろう。自分は、一体いつまで書き続けられるのだろう。そんなことを思う。

すべての欠乏を先に満たすことだ。それが一番の理想。病気は癒され、新たに病むこともなくなる。すると、無欲に成長へ費やせるはずだ。

今の日々であっても、初歩の低次欲求は満たされている。それは、本来であれば有利になる。

後は、徐々に外へ出ることだ。人と上手く関わることに専念すれば良い。それだけだ。それを先に確保すること。それによって心身の栄養が得られた場合、病は癒え、高次欲求が現れる。

今の状況は有り難いもので、後一歩のところまで来ていると思う。

 

でも、フリースクールデイケアに通ってはいない。そこへ通うのは負荷が掛かると思っている。距離が離れた場所に通うのは、簡単なことではない。それに加え、そこは多数の人が出入りする場所だ。刺激に慣れていない今は、負荷が掛かってしまう可能性がある。そう思う。

ただ、後者は病める人を癒すための場所だ。前者であってもその性質はあるだろう。どちらにせよ、そういった役割はある。いずれも弱者を助けるための場所なのだ。それが実際のところだろう。その事は認識している。

でも、どうにも二の足を踏んでしまう。行き着く理想は、身近で親密な関係を築くだ。ソーシャルの場へ出向くよりも、初歩のステップを踏む必要があると思う。スローステップ。身近な関係性を築くことが先だと思う。それが一番だと思う。

でも、それも現実的ではない。それが現実的ではないから、前述の場所が勧められているのだ。そうだ、近くに誰も居ないのだ。もう皆は遠く離れてしまったのだ。

自分はもう、病を通じて人と知り合うしかないのだ。

 

数日前に家族と出掛けたけれど、少し緊張してしまった。まだまだ刺激に慣れていない事を痛感させられる。緊張がばれないようにやり過ごしていた。何のストレスも想定されないのに、自分は生唾を飲んでいた。

まだまだ病的な水準にいるのだ。今は、マイナスをゼロにするステップが必要。病を癒すための段階だ。

その状況で、ゼロをイチにするための場所へ行くのはきつい。そう思う。社会復帰のための場所は、今の状態にそぐわないと思う。病人にとってはまだ早い。そこへ通うことに意味はあるのだろうか。そんなことを思う。

最近、たまに近所の猫と遭遇する。その猫と佇んだりする時間を得ている。一時間ほど過ごしたりもした。和やかな時間だった。動物から得られる養分はあると思う。

でも、マズローいわく、欠乏を満たしてくれるのは人間だけだそう。確かに、猫から得られるものがあったとしても、自分は対人関係で得たい刺激がある。そういったフラストレーションはずっとある。それが由々しき状態を生んでいる。それを満たすことが本質的な解決をもたらす。それはその通りだろう。安全や愛、所属意識、自己尊重、自己有用感、それらの対人的な欲求を、人間から得ること。

ただ、思うのは、欠乏があっても健康でいられる人は存在すると思う。それが頭に浮かぶ。半数くらいの人は、恋人や友人が居なくとも生きていけると思う。言ってしまえば、どれほど鬱屈と過ごしていようが、人は腹が空くものだと思う。

自分の願いは、腹さえ空いてくれたら良いということだ。自分にはそれがない。

それは、人一倍のセンシティブさと、刺激追求性が混在しているからだろう。これらの性質の混在は厄介だ。欠乏が少しでもあれば、それはすぐに看過できないものになってしまう。快適にいられる幅が極端に狭い。

ただ、これもふと思うのは、アーロン博士が存在しなければ、今頃どうにかなっていたかもしれないということだ。センシティブパーソンの認知が得られなければ、もっと大変なことになっていたかもしれない。それはある。朽ちて事切れていたかもしれない。いや、きっとそうだろう。

その自覚が得られたのは、とても有り難いことだった。時代の利点はかなりあっただろう。

 

ある程度の体力はある。活発に活動は出来ないけれど、最低限の体力はある。痩せぎすな身体には、ほんの少しの脂肪がある。脂肪の層はないけれど、骨格に薄い膜ぐらいは付いている。余裕はないけれど、低水準の日々を送ることは出来る。それなりの日常は営める。

今の食事量は、一般的な量の60%位だ。それよりも10%か20%以上は頂きたい。そうすれば、個人的に正常な範囲に収まる。そうなれば、存分に動くことが出来るはず。痩せ形であっても十分な数字となるはず。

今の食事量を鑑みれば、痩せているのは仕方ない。それは理解しつつある。

そのなかで、ストレスさえ低減出来たら良い。ストレスがあれば、身体の水準を底上げしようと頑張ってしまう。それが無理のしすぎに繋がる。

体力を求めないようにするには、満足を得ることだ。それは欠乏を満たし、ストレスを減らすこと。そうすれば、身体の状態が良くなり、抑圧もなくなるだろう。明らかな変化を感じられるはず。そのように励むのが好ましいのだ。

やはり人です。どうやって人と会うかです。バーチャルに誰かと関われたなら、それで満出来やしないだろうか。そんなことを思う。それは擬似的な刺激で終わってしまうのだろうか。

いや、バーチャルで承認されたり、そこで報酬が得られたりしても、自立の糧にはならないだろう。自分は、お金があっても生きていけないのだ。それは必要なものであっても、在宅時間だけで生活は完結しない。何をするのにも、外に出なければならない。人と交わること。ペットで満足しようが、擬似的に繋がっていようが、報酬を得ていようが、それだけでは生きていけない。それを思う。

ブログをやり続けることと、欠乏を満たすために努力すること。その二つをやり続けること。

 

何かの行動をしているかと訊かれたら、何も取り組んでいないと答えるしかない。誤った習慣に忠実になり、内的に費やしてばかり。じりじりとフラストレーションを溜め、認識を煮詰める日々です。

ブログサービス以外には何もしていないし、誰かに連絡する事もしていない。孤独な日々が続いている。

 

人と繋がる力が大切だ。今の自分には、それが足りない。デイケアフリースクールへ通うか、身近な誰かと関わるか、そのどちらかだろう。

誰かの力で、自分を広い世界へと連れていってほしい。そんなことを思ったりする。

でも、自分の力で変えるしかないのだろうな。初歩の第一歩でいえばそうだろう。きっとそうだ。そうなのだと思う。それが当たり前なのだろう。

いつかは住む世界も、見る世界も変えたい。何もかも生まれ変わりたい。

 

未来はどうなっているかな?

また明日。

 

参考文献: