現実を生きられず、習慣に生きる日々。体調を良くする努力に励めない。欠乏を満たすことが出来ないままだ。建設的に過ごすことが出来ない。ずっと負の領域を生きている。各種の無理のしすぎをし、一喜一憂に陥るのみ。食事が行き詰まったりし、擬似的に欠乏を満たそうとしたりしている。それはプラスの日々に繋がらない。心身の養生をすることも、社会的な成長欲求に費やすことも出来ない。
でも、かつては正の領域で生きていた。それは小学生時代だ。その頃は、心身に資源が満ち、大丈夫で活動的だった。普通でいられたのだった。その時が一番良かった。欠乏は満たされ、好ましく主機能を発揮することが出来ていた。
そういった生活が続いたら良かった。やがて学校は重荷となってしまい、そこへ復帰することはなかった。
行く場所がない今は、一体どうすれば良い?学生時代だったとしても、学び舎に戻る必要はなかったはずだ。そう思っている。それは今も同じで、その選択肢は好ましくないはず。
だけれども、今となってはどこで適応をすれば良いのだろう。在宅で人生は完結しない。それがある。それがすべての元凶だ。
行く場所を失った後、ようやく困難に取り組む事になった。そこでようやく気づいたのだった。外の世界へ出なければならなかった。温かな関係を取り戻さなければならないのだ。それに気づくのが遅かった。
それが早かったのなら、全てが変わっていたのかもしれない。そうやって振り返っている。
この田舎町には、公的な場所などないのだ。初歩の水準から始められる場所がない。少なくとも身近にはない。それがネックだ。行く場所は遠くにあっても、それが現実的な選択肢にはならない。かといって、身近に自力で通える場所などない。
どこかへ適応するのではなく、内的な適応を可能にすることだ。外的にではなく、内在しているものを展開させ、立体的で具体的に発展させること。そのために相応しい外的な適応をし、心身の糧を得て、内的な適応を可能にすること。
そうは言いつつも、今の自分は習慣に縛られている。忌まわしくも、それは外的な適応を果たそうとしていかのようだ。寝食も、遊びも、内的な作業も、常に切迫があるかのように費やしている。それは誤った努力の仕方で、擬似的な無理のしすぎに陥っている。欠乏を擬似的に満たそうと、習慣に縛られている。追い詰めて生きている。
無理をすることで何かを得ようとし、その何かによって存続を確かにしようとしている。その本質にあるのは、欠乏を満たそうということだ。満たすべき心身の養分を得ようとしている。
とにかく欠乏を満たすことが先決だ。鬱屈と同じルーティーンを生きるのではなく、外の世界で刺激を得ることだ。それを生活の中心に据えること。フラストレーションを晴らさない限り、ストレスが生まれてしまう。それは身体を由々しき状態をもたらす。
朝はゆっくり寝ていたいし、好きに食事を頂きたい。好きに散歩に出掛け、好きに文を記したい。
今は呪縛のように突き動かされ、とにかく頑張ってしまう。内的に費やしたとしても、それでは面白くない、辛くなっている。身体を奮い立たせて外へ出たりもする。それも辛いことだ。ぐずついた天気でも歩き、土砂降りに巻き込まれたりもした。
恐らくは、歩いたとてそこまで変わらないのだ。それでも、定時には動き出してしまう。フラストレーションを晴らそうとしてしまう。まさに擬似的な無理のしすぎだ。
体調コンプレックスと周囲の感情がリンクすることはなくなった。両親を安心させようとする必要は、もう既にない。それによって、ある程度は身体が落ち着いている。それがそれなりの生活を生んでいる。時の運次第になったのは、病的に無理をしすぎることがなくなったからだ。その進展はある。
ただ、根本から変わってはいない。身体は病的な水準のままで、余裕はない。活動水準も低いままだ。
自分は、未だに体調コンプレックスの遺物が残っている。それと感情が合わさった無理のしすぎは減っても、体調を上向かせて解決しようとする癖は消えない。敏感性と刺激追求性が混在し、依然として欠乏が残っている。
生まれついた性質が違えば、スクリーンから得られる刺激で満足していたかもしれない。でも、自分はそういう訳にはいかない。心理機能的にも、感受すべき刺激がある。
マズローの心理学と、ユングの心理学、それとアーロン博士の研究は、それぞれが同じ本質を見極めている。重なる部分を感じる。病理の現象と本質が洞察され、真実が理解されている。劣等機能を活かすことは、欠乏を満たすことと重なる。折り合いを付け、在るべき自分に成るのは、自己実現や個性化だ。その過程は、それぞれが求める目標へ繋がる。何をすべきか解明されている。それをしてくれている。このような知の巨人が居てくれたからこそ、自分は生き長らえている。
欠乏をすべて満たすことが出来たのなら、自分は一体何をしているのだろう。豊かな心身が得られたのなら、ブログを書くという擬似的な責務もなくなっているはずだ。
「人が人生において何を欲するかを問う時、それは人生の本質を扱うことになる」
人を愛し、愛され、共に成長したい。その自己実現的価値に従い、豊かな生活を築きたい。
親密な関係を築くことや、自尊心を得ること。刺激を得ることだ。たまに街へと出て、人と過ごし、他者から承認されること。それが今の欠乏だ。
欠乏を満たすために費やさず、まず実際に欠乏を満たすことだ。そこから日々を創ること。その前提が整えば、建設的に積み上げることが出来る。正の領域を生きることが出来る。
ただ、やはり問題なのは、それをどう満たすかだ。行く場所もなく、繋がりの当てもない。
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孤独を扱った番組では、ゆるやかな繋がりを持ち続けることが重要だ、と考えられていた。孤独を変えるのは、社会制度かテクノロジーしかないだろう、と。
今の世の中は、ウイルス下でもある。過去の繋がりを取り戻したいのであれば、テクノロジーを頼るしかないだろう。
今の世界であれば、全般的にそうだろう。技術があるから窮屈になるけれど、技術によって助けられる。そういった流れがあると思う。
高度な文明の技術があるからこそ、それを守る必要がある。人を助けられるからこそ、その人を助ける必要がある。その事を守ることは、誰しも求められる。少数はウイルスに曝され、技術によって直接助けられる。大多数は技術が解明した知識を得て、真っさらな身体を維持しようとする。
ウイルスの脅威に直面されなくとも、健康を維持することに不自由が生まれやすい。ウイルスに曝されないようにする事が、かえって健康を阻害したりもする。
技術によって窮屈になるのであれば、技術によって助けられるしかないのだろう。それが現代の対抗策なのだと思う。
それを自分に置き換えれば、テクノロジーによって繋がりを得るしかなさそうだ。
ただ、過去の繋がりを取り戻すのは難しい。誰も連絡先を知らない。
いや、敏感さが災いしてしまう。二の足を踏んでしまう。
結局、何も行動することが出来ない日々。やり場のないエネルギーは、擬似的な習慣によっていびつに発散される。それでは駄目なのだ。
本名のページでも作るか、ツイッターかnoteでも始めるか、それくらいしか浮かばない。
これからも、変わらずこの田舎町に定住するのだ。一体どうすれば良いのだろう。
バーチャル空間か、現実での関係か、そのどちらかなのか?親密になってくれる人など、居たとしても病める同類くらいだろうな。
そんな人はどこにいるのだろう。
悩む今日であります。
また明日。
参考文献: