欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

最低限の水準 上限の底上げ

最近の体調は、微妙な塩梅が続く。身体のケアは難しい。そのなかで、大きく体重が減ることはない。でも、現状維持で手一杯なところだ。ぎりぎり最低水準を下回らない程度。活動水準も同じ程度で、最低限の体力があるだけだ。

一般的に生きるためには、まだまだ摂取すべきエネルギーがある。外でタフに動き回れはしない。かといって、それなりの体力は得ている。家でじっとするのは辛いところだ。それが厄介なところ。

 

生理欲求と安全欲求の過剰満足になっている。それだけに甘んじることは出来ない。刺激追求性もあるし、より高次の欠乏欲求を満たさなければならない。

身体のケアは難しい。どうにも難しい。そう思う。いや、それはそうであっても、そのように考えるのは好ましくない。本当に必要なものは、心のケアなのだ。本質的な養生は、心にまつわることだ。

何回も繰り返しているように、好ましくない考えが染み付いている。それがあるうちは、誤った努力に終始してしまう。それは抑圧の形をとり、身体を蝕む。

フラストレーションが溜まれば、長引く刺激となってストレスになる。これによって、身体の状態は常に負の領域へ下がってしまう。そのなかで、細かな無理のしすぎをしてしまう。微細な踏ん張りが仇となり、また身体の調子が悪くなる。体調が上向いていかないのは、こういった理由がある。

日常の中で、常に身体の事を考えてしまっている。睡眠、食事、運動、感覚、時間、水準、常にそれらが付きまとう。そのなかで、様々な要素やフラストレーションが重なり、踏ん張ろうとしてしまう。周囲の感情も未だ尾を引いていたりするし、自立をして生きていたいという気持ちが強い。

好ましく生きられないうちは、過去の好ましくない教訓を用いて掻い潜ろうとしてしまう。それが無理のしすぎに繋がる。身体を上向かせようとしてしまうことだ。

体調が上向かない理由は、抑圧をしてしまうことだろう。気楽でいられ、無理をする必要がなくなった暁では、食事についての障壁にぶつからないはずだ。気楽に食事を頂けるはずで、身体に負荷が掛かることはない。胃袋は潤いを持って伸縮していくのだろう。そうなれば、おのずと右肩上がりに良くなっていくはず。

欠乏欲求を満たせない今は、身体の状態がいまいちだ。抑圧をしてつまずいたりする。豊かに食べられることがあっても、それがそのまま続いていくことはない。腹塩梅が乱れがちだ。まだまだ病的な食事量で、端から見れば心配されてしまう量だろう。

 

低調な身体の状態が続く。それを維持するのがぎりぎりの日々だ。体重が落ちないように試みている。

でも、これも無駄な努力だろう。それをしても、変わるものも変わらない。それどころか、無理のしすぎへと繋がってしまう。

難しいジレンマです。

少ない食事量であっても、そのなかでそれなりの量を食べたい。最低限の上限に達したい。そうすれば、今よりも余裕が生まれるはずだ。活動量もそれなりの段階へと進む。それが及第点になる。その最低限の水準へと到達したい。

ただ、もっと肥えた方が良いのは確かだ。そこから更にもう一段上がったとすれば、個人的に十分な体力を得られているはず。

それが今の目標だ。直視してもらえるような病的さでいたい。ただの痩身でいたい。

自分は、完全な健康を得るのは難しいのだろう。それでも、一般的な水準を少し下回っているくらいなら良い。そこまで到達できたのなら良い。それだけで良い。それは個人的に十分な水準だろう。

最低限の量をコンパクトに頂きたい。それなりの量だけ頂けたら良い。

今は、一般的な量の60%くらいを食べている。調子が良い時でそれくらいだ。あと10%から20%くらいは食べられたら良い。

 

気楽でいられるかが鍵だ。それで消化の効率も変わるのだろう。ストレスは減り、活動量も増えるはず。そうなれば、自ずと身体の状態が良くなるはず。抑圧もなくなるだろう。そう在りたい。

でも、工夫をして過ごすのは難しいし、それは無意味に近いのだろう。何度も繰り返し記しているように、根本的で抜本的に変えていかないといけない。身体全体を、本質的に底上げすべきなのだ。表面の悪しき部分だけを刈り取っても変わらない。身体を根治させるしかないのだ。それが心の養生だ。劣等機能を活かし、欠乏を満たすことだ。

それを踏まえて考えると、この水準であっても活動しなければならないのだろう。このまま静養し続け、良くなるのを待つのは更に無意味だ。今の状態であっても、出来ることをすべきだ。初歩的なことから徐々に始めるしかない。対人的なことを、低い水準から始めること。そのようにして、少しずつ限度を上げなければならない。

 

でも、現実的な選択肢は遠くにある。かつて通っていたフリースクールは、ほぼ小規模な学校だった。今になって振り返れば、そこに通うということは無謀に思える。今の現況であれば、それは尚更だろう。

そのフリースクールのWebページを覗いてみたところ、何となくの様式が見えてきた。少し下の世代が通っていて、わりと大勢の在籍者がいた。

やはり、普通の学校に近い場となっている。そこの性質は、一般的に生きるための適応の教室なのだろう。そう感じられた。

そうなっているのであれば、自分には向いていない。世代も違うし、自分はどうにも異質な存在となってしまうだろう。

自分がやるべきことは、病を癒すこと。それを整えるのに相応しい場所なのだろうか。

やはり二の足を踏む。そこへと通うのには、時機を失ってしまった。そう思う。

 

何度も「外的な適応はしなくても良い」と繰り返し記してきた。それは、自分自身の成長のために言い聞かせていたのだった。そう考えると、その選択肢が消えるのは自然だし、都合は悪くないはずだ。

でも、どうにも虚しい。自分は外へ出なければならないのだ。それは定められたものだ。可能性としては薄い場所でも、場所があるだけなら害にはならない。選択肢として存在するのは、好ましいことではある。

 

相応しい選択は、一体何なのだろうか。自分はもう、大人の段階なのだ。フリースクールのページを見てそう思った。既にそうなってしまっている。社会的な問題として扱われたらそうなるだろう。不登校生は既に超え、無職のこもり人となっている。もうそうなのだろう。

どこに自分の受け皿があるのだろう。どうすれば変わっていけるのだろう。どうにも時機を失ってしまったな。

やるべき事は解っていて、その事に視線は向いている。ただ、ふと目を逸らせば、現実的な問題が横たわっている。今はただ、首の皮一枚で繋がっているだけだ。それは解りにくいだけで、そうなっているのだ。生活を直接支えてくれる人が居るから、自分は生き長らえている。

その人を失ってしまえば、一体どうなるのだろうか。

 

欠乏を満たすこと。向けるべき視線はそこだ。その初歩的な過程を歩むこと。

でも、何から始めたら良いのだろう。

今日の朝は、なんとか務めて起きた。起きなければ、と思って起きた。温かな布団にまだ包まれていたかった。なんとか身体を起こし、てきぱきと朝のルーティーンをこなしていく。

何故見えない何かに動かされるのだろう。やはり体調を維持しようとしているのだろうか。そうやって未だに親を喜ばせたいのか、フラストレーションを擬似的に晴らしたいのか、どうなのだろうか。そのどちらかなのだろうか。

ひとつは、朝の静かな時間を過ごしたいという気持ちがある。静かな部屋で過ごし、気楽に居たいという気持ちだ。そうすれば、一日が長く感じられたりもする。

理想的な1日のサイクルがある。個人的に思う、最良の体調を維持するための循環。

 

何の束縛なく生きてみたい。自立をし、自律的で、好きに寝食を回していきたい。そうしていたい。

欠乏を満たし、心の声をすべて拾い上げること。内なる期待や声に答え、解放の時を迎えたい。そんな夢だ。それが豊かな生活を生む。

ただ、結局は擬似的に無理をするだけだ。行く場所も、行く当てもない。連絡を取れるような相手はいないし、SNSは怖い。現実も、バーチャル空間にも、快適に居られない。狭い世界でじりじりと過ごすのみだ。

 

誰かつまらない繰り返しを聴いてください。

今日も生きている。

 

また明日。

 

参考文献: