欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

変わらない認識 抜本的な順序

朝から雨が降っている。二日続けておこもりだ。夏の日和とまとまった雨。やることがない。いや、やりたいことがない。やるべきことが手元にないのだ。ブログなどの内的な作業や、マズローの著作はある。やることとしてはある。でも、今日は休息の日でありたい。内的に費やしても空回りが続く。必要なエネルギーの資源を得たい日だ。豊かな養分を吸収したい。それを経て、本を読み、文を記したい。そうやって成長のために費やしたい。

今のところ、ブログに成果はないし、マズローの本はいつでも読める。とにかく欠乏を満たすことが先決なのだ。それを基本として整えること。まずは土台を確かにする必要がある。

低次欲求の満足があれば、好きに過ごすことが出来ると思う。そうなれば、ブログも本も、寝食も楽になるはずだ。何かのために踏ん張って務めるのではなく、本当の心の声に基づいて生きていけるのだろう。そうやって解放の時を迎えたい。

人を喜ばせようとするのではなく、体調を持続させようとするのでもなく、自立的な満足を追い求めるのでもない日々を送りたい。欠乏を満たそうとするという、負の領域を抜け出したい。正の領域で生きていたい。

今の日々は、高次の欠乏を満たすために費やせる。一般的な人生であれば、低次欲求を満たすための日々を構築しなければならないだろう。自分は、今のところは親がそれに務めてくれている。それがあり、低次の基本欲求は満たされている。それはとても有り難く、有利に働くものだ。

それがあれば、より高次の基本欲求を満たすことに務められる。その事は、病人としてすべき務めにも重なる。病を癒すことは、欠乏を満たすことだ。束縛も切迫もないなかで、欠乏欲求を満たすことに取り組める。

それをすれば良い。そのために親も支援してくれている。既に最良の環境は整っているのだ。

学校へ行くほどの事はしなくても良いはずだ。そのもっと手前にあるような、すべての前段階となるステップを踏みたい。

それは個々人同士で親密なやり取りをすることだ。どうにかしてその時間を得たい。やはりそれしかない。それでしかない。それさえあれば良い。

学校や人の居る場所へ通うのは難しい。少なくとも、今はそうなのだ。

そういった事をするための前提として、誰かと親しくなりたい。その段階を踏むことだろう。


でも、全く切っ掛けがない。それを掴めない。バーチャル空間にも刺激を求めたいけれど、どうにも二の足を踏んでしまう。

現実はどうかと訊かれたら、それは更に難しい。行く場所がない。関わりを取り戻そうとしても、その当てはない。

この家に居続けても、理想は叶わないのだろう。段々とそれは気付きつつある。


ただ、ひたすら消極的になっている訳ではない。確かな限度はある。少し踏ん張って務めても、それは頑張りすぎになるかもしれないのだ。

限度はある。その限度があるなかで、少しづつ事態を好転させていくことだ。それが初歩的なステップになる。

ただ、始めの一歩を踏むのには、丁度良い場所がないのだ。

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欠乏が満たされない内は、内的に費やしてばかりだ。主機能ばかりを使いすぎ、心身を整えるエネルギーが枯渇している。その歪みは身体が受け止める。それは抑圧などの形をとり、身体を蝕む。歯も削れてしまったし、身体の病的さは看過できない。

内的に時間を割いているけれど、それは欠乏を満たそうとする擬似的なものだ。ブログを書くことは束縛になっているし、本を読むのだって解放的ではない。

それは、本質的には欠乏を満たそうとしているのだ。そう苦心している。習慣による擬似的な無理のしすぎだ。体調を維持しようとしたり、バーチャルに成果を求めようとしたりしている。

それは欠乏動機によるもので、どうしても窮屈になってしまう。本質的なケアには一向に繋がらない。心の養生はなされていないままだ。

欠乏を満たすことや、日々に飽きないこと、それに自立的に生きること、それらを達成したい。そうしたいし、そうしなければならないのだろう。当たり前の基本的な生活をしたい。一日家に居ず、きちんと外へ出て、人と会うこと。刺激を得ることだ。それをまず先にすべきなのだ。

次の通院日が近付きつつある。そのなかで、最近は食欲にむらが出てきている。具合の良い時はあり、その時は食べられるのだけれど、それが持続しない。するすると右肩上がりには進まない。ぎりぎり体重が減らない程度だ。豊かには食べられない。その感触が続いている。

家族の食事を見れば、自然と食べていることが伝わる。自然に胃が膨らみ、自然に消化されているのだろう。そこから更にまた食べることが出来る。体力が満ち、活動に支障は出ない。

それだけで気持ち良く過ごせると思う。今の自分にとっては、それが一番手に入れたいものだ。

この停滞は、病院前のいつものジレンマであってほしい。また時の運で良くなってほしい。中期的に振り返れば、かれこれそういったサイクルを繰り返している。総合的に勘案すれば、すべてが時の運ということなのだ。そう思う。今もそうであってほしい。良い時も悪い時も、それは必然的に起こっているのだけれど、たまたま発生したものでもある。

 

どうにもセンシティブになりがちだ。そんな時はある。そんな時もある。それらを受容するしかない。

ただ、本当の受容があれば、それで良くなっていくのだろう。そのように思えることは、気楽にいられることと繋がる。

それは欠乏を満たしてこそ生まれる感情なのだろう。うわべだけの対処をしても、何も変わらない。

 

先月の受診の時の事がちらついている。

「体重が減らなければ良いですからね」

実際に減ってしまえば、また心身にダメージが加わりそうだ。あるいはそのように考えてしまう。些細な言動が胸に残り、意識を左右してしまう。好ましく生きられない間は、体調だけを頼みにしてしまう。悪いことが起こらないように、自立的に満足できるように、"身体さえ良ければ"と無理をしてしまう。そうやって親を安心させたいし、自分も安心したいのだ。

体調さえ良ければ、誰にも責められずに生きていく事が出来る。

「かつての痛手は、それがあれば掻い潜ることが出来たはずだ」

今はそう思っていないけれど、その思考は染み付いているのだろう。それが抑圧を生んでいる。

 

ブログの過去記事を見直していると、大体の思考の流れが解ってくる。同じようなことを繰り返しているし、同じことを考えている。そう感じられる。それに安堵したりもするし、何も変わっていないことに落胆したりもする。日常が変わっていない以上、それは仕方のないことなのだろう。

 

個人で行える努力は済んでいるはずだ。そうなれば、後は他者との関わりが欠かせない。

でも、行く場所がない。公的な場所とは反りが合わない。それが大きなネックだ。

そういった場所は、あるにはある。でも、そこへと通うのには負荷が掛かってしまいそうだ。それも確かだ。

 

誰とも連絡を取れず、孤独です。人と繋がる力は大切だ。

今から何を始められるのだろう。

 

かつての図書館学級で過ごしていた頃は、心身のバランスが整っていた。適正な体重にも到達しつつあったと思う。捉え直しをしてみれば、そうなる理由は確かに感じられる。欠乏が満たされていたのだった。行く場所があり、会う人が居て、やることがあった。それに、同年代もこの町に居た。

今の生活であっても、それなりの体力と体重がほしい。それが救いになる。

いや、それだけがあっても意味はないのだろう。でも、それがほしい。それさえあれば何にでもなるのだ。それが実際のところだろう。そう思ってしまう。公的な肩書きを得られるかもしれないし、抑圧もなくなるかもしれない。そうしたいのだ。自分は、早く豊かに生きたい。

 

ただ、やはり意味はないのだろう。確かな満足が必要なのだ。それがない内は、闇雲にあがいてしまう。

正の感情を得て、自尊心を得ること。必要な刺激を得て、日々を退屈しないこと。それを獲得すれば、歯車は回っていくはず。それが得られないのであれば、いくら体力や体重があっても無意味だ。

 

そうだ、それは容易に得られないのだ。そうなのだ。それに、いつだって順序が逆だ。今の体調であっても、何か初歩的なことに取り組むべきなのだ。

それを思い、内的に費やしているのだけれど、それも無意味だ。その事も解ってはいるのだけれど、エネルギーはそこへと向かってしまう。

ぐるぐるぐるぐると、同じ轍を回り続けている。

試行錯誤の日々。

 

愛想を尽かさず僕を見ていてよ。

 

また明日。

 

参考文献: