欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

稚拙な前進 回帰していく轍

夕べに体重を量ったところ、少し減ってしまっていた。最近の最高値と比べれば、500gくらい減っていた。それだけでも静かな衝撃が走る。個人的な体重の比重で考えれば、結構な変動だ。それに加え、最近の不調の感覚が重なる。それが問題だ。

何だか気持ち良く食べられないのだ。気持ち良く胃が膨らまない。不意にそういった時はやってくるけれど、それが高い頻度でやってきている。それがあり、胃袋も縮小しつつある気がする。その感覚は、ついに数字に表れだした。

 

明けた今日は、朝から更に低調だった。心地の悪い夢もみた。久しぶりの事だった。寝起きも悪く、明らかな負の違和感を感じていた。

それに加え、朝食後の消化は良かったものの、昼食では無理をしてしまった。何とか踏ん張ろうとしてしまったのだ。それなりに食べられたものの、不足分を取り返そうと頑張ってしまった。気分が悪くなってしまい、久しぶりに胃薬を飲んだ。

これ程の事は、長い間起こっていなかった。撃沈だ。

完全に手こずっている。時の運で良くなっていくはずが、どんどんと負債を抱えてしまう始末。完全にどつぼにはまっている。悔しい。

病院が近付いているという要素がある。それが悪く働いているのだろう。体調は段々と低調に傾いている。それを示す内的感覚に対し、より敏感になってしまっている。

 

ただ、これは時の運で良くなるものなのだろう。それは解っている。きっとそうだ。そうだろう。その通りなのだ。そうやって身体は癒されるものなのだ。

でも、悪循環にはまっている。負債が影響すれば、しばらくは落ち込みが続きそうだ。

 

最近は好調だっただけに辛い。振り返れば、このような事はたくさん繰り返してきたと思う。でも、どうにも足を取られてしまっている。

一番の特効薬は、快適に食べられることだ。その時を迎えること。それしかない。そのタイミングがやってくるのを待つしかない。

そもそも、無理をする必要などないのだ。本来はそうやって元通りになるものだ。センシティブでない人は、そうやって自然と回復していく。

体重なんて求めなくても良い。それなりに頂けたのなら良い。その時その時が辛くなければ良い。その気楽さが、その状態を持続させるのだ。

でも、自分にはそれがない。

 

体力はある。既にある。その事を十分に感じられた。それがあれば良いのだ。そう思った。辛くなってそう感じられた。それで良いのだ。散歩もそれなりの距離を歩き、知的な作業も積み重ねている。それだけでも十分エネルギーを発散させている。体力はあるのだ。そう認めてあげても良い。

ただ、その意識だけではネックが消え去らない。何度も記しているように、低次の満足だけではやっていけないのだ。

嗚呼、なんて煩わしいのだろう。この事は変わらないのか?いつまでも同じことを繰り返してしまう。どうにも難儀な身体です。

そこからまた日が明け、再度記している。食欲は大方戻りつつある。前日の夜はそれなりに食べられた。負債がありつつも、食べた後は落ち着いた。良かった。助かった。寝るまでに糖分も補給できた。一昨日の夜は辛かったけれど、夕べは落ち着いた気持ちで床に就いた。

今日の朝は、すっかり調子が良くなっていた。助かった。すっきり朝食を食べ、その後の消化も良い。大方本調子に戻りつつある。昼食も普段通りに済ませ、平気でいられた。今は夕方だ。

 

やはり時の運なのだ。体調の変動は、時の運。所詮はそうだ。当たり前の事だけれど、自分は改めて認識した。時の運で悪くなり、また良くもなる。欠乏がある内は、きっとそうやって変動していくのだろう。絶えずストレスは有り続け、それによって身体の推移に変動が生まれる。

その事をセンシティブに感じ取ってしまったりして、悪循環の入り口に立つ時もある。そのなかで、良くなっていく場合も時の運だ。捉え直しで解っていたことだけれど、改めてこういった循環があることを認識した。

いつまでも繰り返す。そうやって繰り返してきたし、また繰り返してしまった。かつての体調不良の時も、同じような気分を味わっていたのだろうな。そう思っていた。時が経ち、そういったことは忘れていたのだった。すっかり記憶から抜け落ちていた。

 

これが疑似成長の歪みなのだろう。生活の土台は確かになっていないため、基本的な事でつまずいてしまう。何も成長していないのだ。それは欠乏が満たされていないからだ。成長欲求に基づいて生きてはいない。まだまだ負の領域で生きている。マイナスをゼロにしなければならない。その過程を踏む必要がある。

自分は、真っ直ぐ進んでいないのだ。ずっと歪んだ足取りで歩いている。その歩みは湾曲し、やがて円を描くようにしていく。真っ直ぐ進んだつもりが、結局は始まりの地点へ立ち戻ってしまうのだ。

そこからまた進み出すのだけれど、また同じように過去の轍を歩いてしまう。新しい道を歩いてはいないのだ。

 

鬱屈と考えても仕方がない。そう感じた。改めてそう思う。その状態でいれば、胃袋は豊かに膨らまない。身体は肥えない。一番は、楽観的にいることだろうな。何の不安も焦燥感も持たず、平凡で呑気にいられること。それか大切なのだろう。やはりそう思う。安心の満足は、病を防ぐ。

それが普通なのだ。自分が羨む人たちは、そのような心持ちで過ごしているのだろう。

 

低次の欲求で甘んじることはできないのだろうか。もっと元気になれば、またフラストレーションが募ってしまうのだろうか。刺激追求性が頭をもたげ、それにいがみ合って格闘してしまうのか?

そうなってしまえば、結局同じように失敗を繰り返してしまうのだろう。轍を越えられはしない。忘れてしまっているだけで、結局は同じ末路を辿るのみだ。低次の欲求の満足は、瞬く間に消え去っていく。それを噛み締めることは出来ないのだ。

擬似的な成長のためだろうけれど、やるべき事に務めているつもりだ。内的な作業をしているし、日々勉強もしている。散歩をし、本を読み、ブログを書く。それを綺麗に仕上げている。インプットも、内省も、勉強も、すべては繋がっている。存分に何かに昇華させているつもりだ。十分励んでいるだろう。そう許しても良い。そう思ったりした。

ただ、本質的な心のケアをすべきだというところだ。内的な時間が圧迫されない程度で、少々の刺激を得ること。それを中心に据え、日々を構築すること。

欠乏を満たすための日々より、欠乏をまず満たすこと。それが大前提だ。ブログや内的な時間に費やすのも大切だけれど、それは日々の基軸にはならないのだ。報酬は得られていないし、第一欠乏欲求が満たされていない。土台が整っておらず、初歩的なことに繰り返しつまずいてしまう。

そうなってしまえば、疑似成長に陥るだけだ。これからは、そうならないようにしなければならない。

 

猶予を持って欠乏を満たしながら日々を送るか、働いて生活を確かにしてしまうか、そのどちらかだろう。学生の本分を持ちながら欠乏を満たしたりするか、何かに費やし、実際に報酬を得ていくか。浮かぶ理想はその二つだ。あるいは、その両方を同時に進めるか。

自分は前者を選ぶ方が良いと思う。そのなかで、学舎には通わずとも欠乏を満たすことだ。ノイローゼの人間が目指すべきは、自己実現なのだ。欠乏をすべて満たし、持ち得るエネルギーを最大限に発揮することだ。成り得る自己がある。それは絶対的にあるのだろう。それに近付く必要がある。それが出来る環境に身を置くこと。

その中には、"欠乏が満たされること"という要素もあるだろう。劣等機能を活かし、欠乏を満たすこが出来る環境が必要だ。そこに居ること。それが行うべき仕事だろう。

 

このまま右肩上がりで進みたいと思っていたけれど、それはどうにも難しいのだろう。それを痛感した。時の運に揺さぶられ、稚拙に一喜一憂を繰り返すだけだ。自分の至らなさを知った。自分は、未だ負の日々を過ごしているのだ。

そして、結局行き着く考えは、いつも同じということ。延々と同じことを考え、同じことを繰り返し浮かべている。その事に気付く。

 

これから進展はあるのでしょうか。ブログが充実するということは、日々が浅薄だということだ。日記帳が充実する事と同じ。日々が豊かであれば、記すようなことは少なくなるはず。日常の生活こそが、最上の生活記録そのものなのだ。

どんどん時は経っていく。

 

また明日。

 

参考文献: