欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

誤った努力 成り得る自分の自尊心

やはり食欲にはむらがある。豊かに食事が頂けない日々が続く。それは今に始まった事ではないけれど、改めて捉え直しをしている。

常に胃の状態には凹凸がある。そのなかで、最近は快く胃が膨らまない事が多い。それが慢性的に続いている。何故なのかはよく解らない。以前からではあるけれど、低体重で栄養失調がより続いてしまう。余裕はなくなった。

体重が減るのは、明確に食事量が減っている時だ。それが確かにあるのだろう。どこか自然に頂けない事が解っていて、それはきちんと数字に反映される。すると、何回も体重計に乗り直す。顎を下げ、腰回りの肉を見たり触ったりする。やはり、以前と差はあるのだ。

 

とにかく食事です。自分は、とにかくそれに振り回されてしまう。体調も気分も、何もかもがそれと重なる。未だに自分は、存在を保つものが体調しかないのです。その呪縛から逃れられていない。自分には、皆さんにある前提がないのです。

自分は、敏感すぎる人間なのだそう。そういった星の元に生まれてきた。それがどうにも恨めしい。刺激がネックになってしまうのに、刺激を求めようとする気がある。内にも外にも、安住の地がない。

どんなに平凡な日々であっても、体調さえ整っていれば良いのです。そう思う。そう思ってしまう。それを渇望し続けている。まるで呪われているかのように、そう思い続けている。

その呪縛により、同じ顛末を新鮮に繰り返してしまう。何年何月繰り返してしまうのだろう。

 

世の中が有事であるのなら、今の自分は病事だ。不安定で脆弱な日々を生きている。いつ刺激に揺さぶられるかわからない。それがいつ打撃となるかもわからない。

なかなか身体が上向いていかない。ただ、良くなる時はあって、それで全快した気分にはなる。でも、それが持続しない。直近の日々ではそうなっている。

本調子の食事量よりも、わずかに下回っている。それが数字に如実に表れてしまう。元々の食事量が少ないだけに、それはより鮮明になっている。十分な満腹からは遠ざかっているのだ。

消化は良い感触があるだけに、どうにも気を揉んでしまう。腹の収まりは良い方だけれど、一食が振るわない。食間が長くなっている。それがあることで、エネルギー収支が負に傾いているのだろう。

食べられる時は食べられる。でも、胃を伸縮させるほどは食べていない。

微妙な体調の変動や、ドクターの言葉、そして近付く通院の日。身体は停滞している。好調を維持することが難しい。

 

緩衝地帯を設け、安心安全を確保すること。劣等機能を活かし、欠乏欲求を満たすこと。これが永遠の課題だ。やるべき事のカリキュラムは整っている。後はそれを実行に移し、得るべきものを得ることだ。欠かせないものを得て、それを確かにすること。それが大切だ。

『「過去の人たち」がやったようなやり方で、自分にプレッシャーをかけるのだ』

いくら捉え直しで原因を理解しても、同じ誤りを繰り返してしまう。呪縛のように、ひたすら盲目的で病的に励んでしまう。体調という立脚点は、本質的に重要なものではないのだ。

それを得るのには、本質的なケアをするしかない。健康とは、それをすることで生まれる随伴現象なのだ。それだけをひたすら求めても仕方がない。

仮にそれだけを得たところで、一体何になるのだろう。それだけでは外の世界で生きていけないのだ。心のケアをしてこそ、快適な刺激の幅で生きていける。適度に外へ出る事が出来るだろうし、適度に内でも過ごすことが出来るのだろう。

そういったことは解っているのだけれど、どうしても誤ったやり方で身体を扱ってしまう。大方の流れは解っているけれど、同じ末路を辿ってしまう。何回でも繰り返してしまう。

 

誰にも責められたくないのです。それが根本にあるのだろう。それは個人的にもそうだ。誰かからの意識もあるけれど、自分が自分を責めている部分もある。自責感情も大きい。

いや、それが一番の禍根かもしれない。成り得る自分を下回ってしまうのは、身体に良くないのだ。相応しい生き方を選択し、完全なる自分にならなければならない。

自分を過大評価しているつもりはなく、刺激を追求したり、欠乏を満たさなければならないのだ。それをしなければならない性分だ。半端な日々を送ることはできない。いや、半端にすら過ごせないのだ。そういった星の元に生まれてきた。病を癒すために専念し、成り得る自分へならなければならない。

在るべき状態を作る必要がある。言い換えれば、運命を学ばなければならない。自分を縛るものを知り、それに従って自分を解放させることだ。定められた道のりを歩むこと。そのように生きなければならない。

在りたい自分の姿がある。それを下回ってはいけない。さもなければ、身体に由々しき事態が起こる。

自立をして、豊かに生きたい。

 

意識の根底には、まだまだ好ましくないものがある。それによって、誤った身体の接し方をしてしまう。

体調さえ良ければ、かつての悪い出来事は起こらなかっただろう。それは事実でもある。だからこそ、誤った認識を生んでしまったのだ。

体調さえ良ければ、安心安全は得られ、誰からも責められずに済んだ。自尊心を保つことが出来たのだ。そうやって存続を確かにすることが出来たのだろう。それがあれば、世界と対等に対峙することが出来た。豊かにも生きる事が出来た。

きっと深層の意識は、かつての痛手をそう受け止め、学んだのだろう。思い出して精密に表せないだけで、そのように在りたいと思ったはずだ。安心安全を得て、フラストレーションを晴らし、豊かに生きたいと願ったのだろう。

ただ、それを経た後の認識が好ましくなかった。選択が相応しくないものになってしまっている。ただひたすら体調を頼りにしているのだ。

その認識を得たのは、体調が悪かったことで苦痛が生まれたから。それは確かだろう。ただ、それによって誤った努力に繋がってしまった。身体は、歴史は繰り返すと学ぶ。

 

本当にすべき行いは、違う方向の先にある。全く別の道程を歩むべきなのだ。病的な原理を理解し、それを解くこと。必要な認知を得て、得るべきものを得ること。

アーロン博士の著書、MBTI診断、ユング心理学マズロー心理学、それらによって学び、やるべき事を知ること。それを実際に行動に移し、更に繰り返し結果を検証し続け、人生の土台を構築することだ。

道のりは長い。

アーロン博士の著書を取り寄せ、およそ一年が経った。総合的に鑑みれば、かなり変化はあったと思う。日々の大まかな土台は作りつつある。それにより、病理の大半は理解しているはずだ。体調が悪くなる理由や、良くなる理由も解っている。立ち往生しつつも、スタート地点に立つまでの下準備は万端だ。

これからは、本質的な養生をすることだ。日々を建設的に生きること。そのための過程を経たい。いや、入るべきだ。何とかそこまで辿り着き、日々を変えていきたい。

もう、今の日々には飽き飽きしている。それどころか、身体にはかつてとは違う由々しさがある。失いたくないものが、不可逆に進行しつつある。いつか怪我の功名にでもなれば良いけれど、それは目指すべきところに辿り着いた先でしか思えないだろう。

 

これからどうなっていくのだろう。

日進月歩と言えるのか、少しづつ日々に変化はある。月が変われば、違うことが頭に浮かんでいる。それを結果的に振り返った時は、変化を感じたられたりする。

 

これからの日々はどうだろう。本質的なケアが出来ていなくても、何か楽になっていたりしないだろうか。

いや、本質的に変わらなければ、すべての変動は時の運だろう。それは良くも悪くもだ。一過性の落ち込みであれば、やがてすぐに良くなる。苦しい時にそう考えた時は、いくばくかは楽になったりもする。でも、悪くなるのが一過性であるのならば、良くなるのもまた一過性なのだ。それが一喜一憂を生む。また病的に同じことを繰り返すのみ。

 

こういうことです。すべてはそうです。過去の記事を読めば、それがより解る。その時その時の状態に違いはあれど、記していることは全く同じ。病理を精密に捉えられているか否かだ。表現の差だけです。

 

最早なぜこういったスパイラルへ陥ったかを忘れてしまった。それくらい停滞しているのだろう。そのなかで、体調コンプレックスは作動し続ける。目の前の現状というしこりは、未だ脳裏にこびりついている。

 

病院を乗りきろう。それで良くなるはずだ。

何とかやり過ごそう。生きよう。

 

また明日。

 

参考文献: