欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

現実が求める病理 精神という鏡

今日は通院日だった。かれこれ十日程前から不調が続いていたなかで、ようやくこの日を迎えた。そして帰宅し、こうやって記している。無事に帰ってきたのか、あるいは無事ではなかったのか、よく解らない。色々と思い知らされることがあった。今は色々と頭を整理させている。

 

今の自分には、安心安全が欠けている。それにより、病気になってしまったり、衰弱してしまったりする。最近はそうだ。最早どういった原因で不調に陥ったか忘れたけれど、とにかく安心を得たいと思っている。

そして、ストレスの元になっていた病院の日を終えた。

夕べは眠れた方だった。目覚めも良い方だった。それを経て、朝食はそれなりに食べた。胃が小さくなったと痛感したけれど、極端に食べられなかった訳ではなかった。

いや、それなりの量以下だった。それは意識に上がっていた。個人的な感覚の"それなり"には到達していなかった。それがずっと続いている。それによって負のエネルギー収支になっているのだ。

個人的なそれなりの量は欠かせない。それがあれば支障は生まれない。体力に余裕はなくとも、生活をする上でのエネルギーは得られる。内的に費やすことも出来るし、散歩をすることも出来る。これは体力がなければ行えないことだ。

 

以前は体力があった。そう思う。それなりの量さえ食べられたら良いのだ。そう感じた。それがあれば、安心安全は満たされる。初歩的な欲求満足があるということは、とても大切なことなのだ。満たされている時には解らない。今になってそう気付いた。

こういったことは繰り返していて、思考が変わっていく過程も捉えていたけれど、改めてより詳細に捉え直している。土台となる初歩の満足は、多くが満たされていた。それがあれば、それなりに費やせるのだ。内的にも費やせていた。

それを維持できたら良い。それだけで良い。今になってそう思った。

もう体重を追い求めたくはない。それは終わりにしたい。気楽に過ごし、低次の満足を享受していたい。ストレスを感じず、それなりに平気で過ごしたい。

 

でも、それは叶わぬ望みなのだろう。より高次の基本欲求が浮かんでくるからだ。ある程度欲求が満たされたのなら、それよりも高次の欲求が湧く。今度はその別の欲求に支配されてしまう。今は安全が欠かせなくても、それが満たされたとすれば、また別の欲求を満足させなければならない。

刺激がなく、欠乏が絶えずあるというのは、それはそれで神経が高ぶってしまう。適度な興奮がなければ、かえって病的に興奮してしまうのだ。そうやって体調を崩してしまう。そうなってしまう体質だ。

より高次の欲求を満たす必要がある。それが叶わないため、同じことを繰り返してしまうのだ。抜本的に治癒されることはなく、不自由が生まれてしまう。同じような末路を辿り、時の運に対して一喜一憂し続けるのみ。それは去年も今年も、数年前であっても同じだ。同じ病理が変わらずあり続けている。

 

暇で、鬱屈で、つまらない日々を過ごしたい。それを取り戻したい。そんなことを思ってしまった。それは恥ずかしいし、どこかみっともないけれど、そんなことを願っている。

ただ、それを取り戻したとしても、それだけに甘んじることは出来ないのだろう。より高次の欠乏が頭をもたげる。それが満たせなければ、新たな不自由が現れ、それに拘束されてしまう。

解放へはほど遠い。歩むべき道を歩めば良いのだけれど、それを選ぶのが難しい。それは解っているつもりでも、実行に移すことが出来ない。

 

病院の建物内には、デイケアも附属されている。ドクターとの診察でも似通った話になったのだった。今の日々には刺激が足りない。それが欠乏を生み、欲求の満足を阻害し続ける。初歩のステップを経て、人と過ごし、もっと活動的にならなければならない。欠乏を満たすことだ。

先生もそのようなことを考えてらっしゃった。個人的な洞察と重なる部分がある。刺激を得て、刺激に慣れること。とにかくそれに尽きる。

朝食は本調子のように頂けなかった。行き帰りの往復、診察、買い物、数時間出掛けただけなのに、体力がなくなったと感じた。先月と比べ、明らかな差があった。段々と消耗してしまっている。家に到着する前にガス切れを起こしていた。

以前は、空腹時であっても持久力があった。でも、今月はそれがない。少し食べられなかったり、食間が空けば打撃となる。余裕は失っている。

ただ、こういう時のための貯蓄だ。非常時のために余裕を持たせてきたのだ。それが発揮されたと思えば良い。気楽に思いたい。

 

これから身体は上昇していくのだろうか。先程の昼食は、神経の高ぶりによって、これも本調子とはいかなかった。内的な体調の感覚を感じ取ってしまい、一時的に神経が高ぶっていた。それがストレスとなり、身体が緊張してしまっていた。

 

ストレスがあるのが元凶だ。すべてのネックはここから生まれる。それがあると気楽にいられないのだ。安心安全が阻害されると病気となり、その人を衰弱させる。

生理的欲求が阻害された人は、その満足を絶えず求め続ける。安全が阻害された場合、それは人を病気にし、衰弱させる。所属と愛が満たされると、その満足が治療効果を持ち、欠乏疾患を治す。

 

何かのストレスが発生すれば、不調を改善しようとしたり、好調を加速させようとしてしまう。

最近では、そのストレスによって前者の流れが生まれていた。いつだって誰だってある体調の変動を、敏感に感じてしまっていた。通院の日という大きなストレスがあり、抑圧の期間が長引いた。

それがあり、今度は体重の減少という新たな問題が生まれてしまった。

確かな好調を取り戻さない限り、安心安全は得られないかもしれない。一進一退は続くかもしれない。それが気掛かりだ。これまでの病院前の不調とは違っている。病院が終わった後も、肩の力はあまり抜けないかもしれない。その直後の今でさえ、あまりリラックスはすることが出来ていない。これからなのだ。

 

本質にあるネックは、体調の起伏を鋭敏に捉えてしまうこと。気楽に考えられず、神経を高ぶらせてしまうこと。

でも、その起伏はいつだってある。誰だってある。それは自然なことで、以前にもあったのだ。それを重大に捉えすぎるのが問題。ストレスと神経の高ぶりが合わさってしまえば、その苦しみから逃れようと無理をしてしまう。

そのように重大に捉えず、気楽に考えることだ。

 

そのための根本的な改善策は、やはり欠乏を満たすことだろう。欲求の満足を得ることだ。特に今は、安心安全が必要だ。その初歩の満足を取り戻すこと。着々と欠乏を満たしていけば、それが病を癒すのだ。

まずは、病院というストレスから逃れること。それがなくなり、自然と食事を頂けたら良い。それが持続していけば、段々と元通りに戻るのだろう。

 

これからどうなっていくのだろう。リラックスすることが出来るのか、じりじりと消耗し続けるのか、そのどちらかだ。

病院が終わったということの効果は、これから数日にかけて解るのだろう。その効果があれば良い。奥底の思考では、それがあると信じている。

あるいは、それを上回るような体重意識が生まれてしまうかだ。そうなってしまえば、今が羨ましく思えるのだろう。今であっても、余裕はあったのだと振り返りそうだ。

まだ何も変わっていないのだ。そう痛感させられる。ただ、そのなかでも静的な進展はあるのだと思う。でも、本質的な養生を施さない限り、同じ低迷を繰り返してしまう。すべては時の運となっている。不確かな土台は脆く、崩れやすい。虚しくも自責的になり、顔を青白くするまでだ。

 

世界は回る。人は生きる。そうやって誰もが過ごしている。そのなかで、世界の誰かが苦しんでいる。元気な人は、ただただ元気に生きている。それを享受している。その明確な差はあるだろう。

いや、それは少し前の自分もそうだっただろう。誰かが生を渇望していても、何の気なしに生きている人が居る。自分もそうだっただろう。そんな人は大勢居る。

 

ある大学生の訃報があった。自分より少し年上の方で、以前にその方のエントリーを見かけていた。それ以降、その方をサイレントに追いかけていた。ブラウザでブックマークをし、時々確認をしていた。

以前にも記したけれど、死ぬということは"消えること"だと思う。少なくとも、生者の内の魂はそう感じるのだろう。この世界の絶対的な力によって押し出され、突き落とされる。自分の意識は確かでも、それを抱える器が失われ、消えていく。生を渇望し、周りを羨み、悔し泣き、恐れ泣き、そして力を奪われて押し出されていく。手を伸ばしても、自分だけが不可逆に取り残され、朽ちて果てていく。

圧倒的な世界の暴力だ。それが死ぬということだと思う。少なくとも、自己は消える。うたかたの記憶は思い出せなくなる。

 

何故自分だけがこうなってしまうのだろう。そんなことを思っていた。自責的にならないことが重要であっても、そう思ってしまった。見えない何かに押しつぶされそうになる。逃げ出したくなったとしても、逃げ出すことなど出来ない。限界がやって来れば、それに全て覆われ、無慈悲に押し潰されるしかないのだ。絶対的な約束事が有り続け、それを文字通り死ぬまで抱える。いや、それに最期を迎えさせられる。死を背負わされる。そしてそれに踏み潰されてしまう。

それは最悪なことなのだろう。そんな絶対は、いつ牙を剥くかわからない。その恐ろしさを思う。

自分であれば、厳密な相応しい道のりを歩まなければならない。それを怠れば、こうやって恐ろしい気持ちになってしまう。いや、いつ限界の日がやって来るか分からない。

でも、あまりにも不利な面が多すぎる。それは何重にあるのだろう。敏感さ、刺激追求性、過去の出来事、性格のタイプ、環境、人。マイナスの事柄を清算したとしても、ブラスに持ち込むのが大変だ。持ち込んだとしても、そこからが始まりなのだ。そこがゼロなのだ。命懸けで歩んでも、ようやくそこに至るのだけなのだ。

そこに至ったとしても恥ずかしい。まだ人生を始められていないのだ。自分は未だにマイナスの領域を生きている。

 

いつか幸せになれますか?この努力に意味はありますか?そう思う。そう問いたい。未来の自分に問うてみたい。豊かに生きていますか?すべての出来事に意味はありますか?努力をしてこそ辿り着く境地がありますか?その質問が可能なら、未来があるならそうしてみたい。

マズローの言葉が浮かんでくる。それを引いてみよう。

学習

人間はいかにして賢明になり、成熟し、親切になり、よき嗜好を持ち、工夫に富み、よい特性の持ち主となり、新しい環境に適応することができ、善なるものを見つけ、真実を探求し、美しいものや純粋なるものを知ることを学ぶのであろう、すなわち外発的な学習というよりも内発的な学習を学ぶのであろうか?

二つとない経験をし、悲劇的事件にあい、結婚し、子どもを設け、成功し、勝利をおさめ、恋に落ち、病気になったり死を経験することなどによって学習を行っている。

苦痛、病気、意気消沈、惨事、失敗、老年、死などによる学習もある。

連合学習とみなされるものの大部分は、実際には水路づけである。この学習は本来的なものであり、相対的なものであるとか任意のものであるとか偶然によるものではなく、むしろ現実によって要求されたものである。

人間性の心理学 モチベーションとパーソナリティー A.H.マズロー 著 小口忠彦 訳 433P~434P

どのように解釈すれば良いものか、よくは解らない。でも、自分なりの表現が浮かぶ。全ての結果には原因があるのだ。それは確かなのだろう。何かの状態に陥っているのは、それが現実によって求められているから。そういうことなのだろう。

自分に置き換えて考えれば、それは日頃の考察と重なる。本質的には欠乏があり続けているということだ。それによって好ましくない日々がもたらされる。明確な原因があるのだ。安心安全がないことや、所属や愛、尊重や自尊心がないこと。その二つの原因がある。今の病的な状態は、前提が整っていない現実によって要求されているのだ。

解りやすく言い換えれば、それはやはり、全ての出来事には意味があるということだろう。そんな陳腐な表現が相応しい。そうなのだろうし、そう考えるしかないのだ。すべて何かが定められているのだろう。過去も未来も、全ては既に繋がっている。

それはいつか、一本の道となって現れたりもするのだろう。

色々と考えても、結局は同じ結論です。今日もまた同じだ。少し前の考察が浮かぶ。すべては表現を変えただけで、全く同じ事を繰り返している。その通りだ。その通りです。

だとすれば、回復へのカリキュラムも正しいのかもしれない。恐らく必要なのは、身近で親密な関係を得ることだ。それは以前から考え付いている。

その救世主のヒロインも、現実に求められて登場してほしい。

そんなタイミングや切っ掛けが湧き、それを意思の力で掴むか、あるいは方向性を変え、自分から働きかけて何かを得るか、そのどちらかだろう。

これからどうなる?ひとまずは安心を得たい。それからだ。低次の満足を得て、新たに日々を生きようと試みたい。

 

あなたの運命は何ですか?あなたは何が定められていますか?それを知っていますか?

 

良くなることを信じよう。

あなたの幸福を祈ります。

 

また明日。

 

参考文献: