欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

現在を生きる過去 今にある未来の価値

通院日から数日が経った。体調は微妙な推移だ。通院日というストレスはなくなったけれど、また新たなストレスが生まれている。以前の見立て通り、体重回復への意識が頭をもたげている。病院にまつわる意識はなくなっても、体調を元通りにしたいという意識が上がっている。

病院のストレスにより、低調の深みにはまってしまった。更に捉えれば、次の月の病院が意識されている。それを含めた体調の意識が生まれている。

乱れた身体のリズムを取り戻したい。それが今の意識の大半だ。

 

全体的には低調でも、食べられる時には食べられる。良い時は良い。胃袋はそこまで縮んでいない。でも、一度好調の感触を得ると、すぐさまそれを加速させようとしてしまう。その勢いのままに、身体の上限を底上げしようとしてしまう。それが無理のしすぎだ。そのように陥ってしまう。

病院の後は体調が良くなることが多かった。今月もそれがあれば良いと思っている。でも、その考えが好ましくないのだろう。それに、今までとは局面が違うのだ。スムーズにスパートは切れない。新たに体力という問題が生まれている。安心安全は得られていない。

それを得るのには、実際に身体が上向くことだろう。あるいは、心持ちが変わるかだ。体重が増えたことにより、更に上向いていくか、何とかして気を逸らし、工夫して気楽に居るか、そのどちらかだろう。

前者の事を考えると、体重が伴った時点で抑圧をし、成果を手繰り寄せようとしてしまう。そうなると、スムーズに上向かない。それどころか、身体に負荷がかかってしまう。エネルギー収支は負の領域に入る。

気楽に居ることも出来ない。一喜一憂をしてしまうように、全ての変動は気持ち次第だ。

心からリラックスをすることが出来れば、それはストレスが解消されているのだろう。抑圧をすることもなくなる。でも、そうなることはない。プレッシャーが頭をちらつき、不安に支配される。それがあれば、自然に過ごすことは難しくなる。

まだ本調子とはいかない。もう一段好調にならないと、安心は得られないだろう。体力も戻ってこない。内的に費やしたり、運動をしたりすることも難しい。体力の余裕がないなかで、一段エネルギーを失ってしまった。

 

何気なく過ごすことは、遠いものとなっている。今はより病事だ。その色合いが強くなった。

安心さえ得られたら良い。改めてそう思う。ひとまずはそれを得たい。そうやって、退屈で鬱屈な日々に戻りたい。

ただ、それを満たしても全快とはいかないだろう。それは解っていることだ。それがあったために低迷してしまっている。同じ失敗を繰り返すのみ。低次の満足を満たしてたとしても、今度は高次の欲求が湧いてくる。所属と愛の欲求だ。今は安全を得たくてたまらないように、所属と愛も満たさなければならない。先月まではそうやって煩悶していた。それを満たしてこそ、ようやく平穏でいられる。

そのためにも、ひとまずは一番の基本欲求を満たすことだ。まずは低次の満足から。安心安全を得られなければ、所属と愛など思い巡らせられない。その土台を得る必要がある。今がその状態だ。

この不調はいつまで続くのだろう。延々とぐずぐず続いてしまいそうだ。いや、身体に疾患はないのだから、次第に食事は頂けるようにはなるはず。そうなるものだ。おのずとそうなっていくものだ。

問題は意識の話だ。自然な回復はどうすれば持続されるのだろう。徐々に身体の上限を上げていきたい。

ただ、それは無理をして行ってはいけない。それが抑圧であり、右肩上がりに推移しない理由だ。その低迷があれば、更にまたストレスが生まれてしまう。そうなれば、延々と低調が持続されてしまう。

体力の低下を痛感している今は、体力を得ることが一番の安心になる。ただ、そう思っていると良くないのだ。でも、そう思ってしまう。気楽には居られない。過去の痛手が蘇り、存続が危ぶまれると錯覚してしまう。痛手を繰り返したくないのだ。かつて体調が悪かったことにより、辛い出来事があった。

しっかり欠乏を満たしていくことが肝要でも、それはなかなか難しい。それもまた現実だ。それが本質的な養生であっても、それには届かない。

欠乏がある内は神経が高ぶり、負の領域を生きてしまう。無理のしすぎをし、綱渡りをする日々に変わっていく。

 

欠乏症に悩まされているのであれば、自尊心を満たすことが特効薬になると思う。そのためには、より低次の満足を得て、対人的な関係を築くことだ。それらを引っくるめて、鍵となるものは自尊心だと思う。それを得られているかが道を決める。

愛を与えられたり、自分から与えること。誰かに尊重されたり、自分を尊重すること。それは初歩の満足があってこそのものだ。その時には所属感も満たされているだろう。おのずと成り得る自分に成っているはず。そうやって人は平穏に過ごす必要がある。

それがなければ、人は早晩病を抱える。欠乏症に悩まされたり、社会や個人へ反応的に悪行をしたりする。病人であっても、犯罪者であってもそうかもしれない。何者かに成りたい人もそうかもしれない。

 

満足からは遠い今は、好ましくない道筋を辿っていきそうだ。そんな気がしてくる。不安がある。

いつか良くなるのだろうか?いや、良くするしかない。良くなるものなのだ。良くなるしかない。それ以外にはない。全ての終わりなどを考えても仕方がない。成るようにさせるしかない。本来であればそうなのだ。

取りあえず満腹になる必要がある。そうなりたい。快くそうなれば、おのずと力が満ちる。そのためには、外的にでも良いから意識を逸らすことだろう。とにかく落ち着くこと。少し休み、段々と調子を得ていくしかない。

 

体力の感覚は、絶えず付きまとう。

来月の自分は、今をどのように振り返るのだろう。屁のように思っているのか、未だ足を取られているのか、どうだろう。呆れて笑い飛ばしていてほしい。そんな願いがある。

辺りはすっかり初夏の日和だ。日差しや光からは夏の威力を感じられる。辺りの緑も少し濃くなった気がする。日常の様々な感触で、季節の変化を感じる。夏の兆しがそこにある。気温、光、音、服装、時間、この瞬間は、グラデーションの中に居る。初夏であり、薄暑であり、梅雨でもある。

体調は未だに変わらないまま。去年のこの時期は、一体どうだったのだろうか。何だか覚えていない。良かったようにも思えるけれど、悪かったようにも思える。どうなのだろうか。

やはり病根は絶えず抱えていて、不安定な領域を生きているのだと思う。その時その時の運により、身体は変動してしまう。対処的に工夫をしようとし、それによってつまずいたりもする。根治からは遠い世界に居る。

全体を俯瞰すれば、未だ病苦の根本は消えていない。それがあり、同じことを繰り返してしまう。一般的な感覚からはかけ離れた日々だろう。食事、活動、容貌、日常、世界と太刀打ちする前提は、未だに整っていないままだ。

いつになったら変わるのだろう。こればかりは、天を恨んでも仕方がない。運命に従うことだろう。それを学び、そのなかで創造的に生きることだ。自分の力によって、自分を救うこと。それしかない。

その道のりは用意されているのだろう。きっとそうだ。それだけが天の救いなのだ。天が与えてくれるのはそれしかない。そうなれば、その道を歩むしかない。そうやって日々を過ごすしかない。

ただ元気さえあれば、世界は美しく見える。自然の美を慈しみ、傍らの誰かと視線を交わしていたい。それだけで良い。それでしかない。

今の日々が続くのであれば、どうしようもないのでしょう?

 

真、善、美、健康、知能に憎しみや恨みを抱いたり、羨望を持ったりすることは、大部分が尊心を失うことの恐れから生ずるそう。優越者はみな、否応なしに自分の欠陥と対決せざるを得ないように強いる。

これより更に深い問題は、運命の公明正大さという究極的な実存の問題だそう。病気を持つ人は、健康な人と同じ価値を持つにも関わらず、健康な人を羨望する。

『取り入れられた罪と根源的な罪』という題の部分にある、マズローの言葉だ。これはどう受け止めたら良いかよく解らない。

本来的な罪は、自己実現の途から外れ、精神的本性や自己に背いた結果であり、正当な自己否認をしているともいえるそう。

不健康で居ても良いのか、やはり価値を受け止め、成熟するしかないのか、そのどちらなのだろう。いや、やはり後者だろうな。それが全体の主題となっているのだ。きっとそうだ。

良く捉えれば、「諦めるな」ということだろう。「あなたにも才能はあるのだ」ということだと思う。いや、それでは意味合いがずれる。「成るべき姿がある」「それが確かに存在する」ということだろう。

病的な過去が今を生き、可能性の未来も生きている。それらを生かすのは、自分次第。そういうことなのだろう。

 

あなたにはどんな過去があり、どんな未来がありますか?それらは今をどう生きていますか?

あなたが十分満ち足りているのなら、あなたは未来を必要としない。それは既にあなたにあるのだから。その逆もまたあるのでしょう。負の世界は終わりを告げ、その約束手形として、究極の報いが得られているはず。時間は消え、至高の経験が支払われていることでしょう。

これは易々とは得られないものですね。完全なる人間は目指せても、それを選ぶ人は限られる。自分は、そのような人を見たことがない。

社会が自己実現を発展させるものであるのなら良い。そうだったら良かった。そう思う。ただ、それを形作るのは、個々人の成熟でしょう。社会の成熟もまた難しい。せめてセンシティブパーソンの地位が上がれば良いですがね。どうなるのでしょう。

犯罪や病気が消える世界。少なくとも、理知的な認識がその言葉を選んでほしくはない。

認め合いましょう。

蛇足がすぎました。

 

また明日。

 

参考文献:

(下書きを溜め込みすぎたので、1ヶ月ほど前の記事を更新します。)