欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

かりそめの安息 満足の立て直し

前回の通院日からおよそ一週間が経った。段々と回復軌道に持ち込みつつある。体重はそこまで伴っていないけれど、食事量はそこそこな塩梅だ。これから体力と体重が伴えば、安心と安全は確保できると思う。もう少し安静にし、余力を確保できたら良い。その意識を持ちつつある。

以前の食事量には、大方が戻りつつある。調子が良い時は、気持ち良く頂いている。全体的に見れば、以前に近いようなペースだと思う。

ただ、僅かに不調の感触が残っている。栄養不良の感は否めない。散歩にも出てみたりしたけれど、まだ本調子ではない。身体の脂肪は失われたままだ。それはまだ取り戻していない。

以前の水準を振り返ると、今と遜色のないようにも思える。でも、やはり数字は現実だ。それをはっきり示している。食事量の現実は、数字によって反映される。それは現状を明確に映す鏡なのだ。体重は、一段下がった水準を示している。

それを考えると、以前はもっと調子が良かったのだろう。食事を豊かに頂いていて、それが運動量にも反映されていたはず。きっとそうだ。そう考えれば、今はまだ不安定な状態にいる。

ただ、着実に回復しつつあると思う。胃の早期膨満感はあれど、状態は悪くない。消化は良く、それなりの量は食べられている。

 

抑圧をすることは減っている。抑圧をしてしまえば、それが身体の負荷となり、調子が落ち込んでしまう。無理をしすぎた場合、更に身体の停滞を招く。それがまた抑圧を生み、とたんに悪循環の入口に立つ。こうなってしまうのは簡単だ。ストレスがあれば、絶えず神経は高ぶる。それを晴らそうとしてしまうのが抑圧だ。

自分なりの救済は、体調の底上げしかない。身体が良い調子になること。そう思ってしまう。そうやって過去に学んだのだ。自尊心を得るための拠り所。それを保つということが、豊かに生きるための方策だった。確かな要素を得られない今は、踏ん張って努力をしてしまう。でも、それは誤ったものなのだ。

ただ、それは直近で少なくなっている。病院前の痛手が染み付いたのか、同じ轍は踏まずにいる。意識をして食べすぎないようにしている。

それによって、スローペースではあるけれど、段々と右肩上がりに推移するようになった。安心安全を得るには遠いけれど、少しづつ調子を保っている。着実にやっていこうと意識している。それが段々と効果を発揮している。少しずつ安堵が大きくなっているのと思う。

自然と身体の調子が上向けば良い。普通の人々であれば、そうやって本調子に戻していくのだろう。自分もそうしたい。実際に身体が上向き、安心安全を得ること。気持ちを高ぶらせず、成果が伴えば良い。

これがあれば、一時的な神経の高ぶりは鎮まる。すなわちストレスの解消だ。それがリラックスを生み、身体は自然とエネルギーを取り戻すだろう。

気楽に考えること。そのためには、体力の低下という意識を和らげること。そのように和らげるには、豊かに食事を頂くこと。その考えに行き着く。

ただ、そう考えてしまえば、無理をしてそれを得ようとしてしまう。気楽に考えられず、ストレスととなってしまう。その苦しみが生まれると、前述の無理のしすぎに陥る。

これが自分の不調の原因だ。絶えずストレスが発生し、神経が高ぶり、無理をしすぎてしまう。確かな拠り所を得られず、誤った努力の仕方をしてしまう。それを何回も繰り返してしまう。

そうならないように心掛けている。

 

病院を終えて、着実に安心を得つつある。今のところは、あまり抑圧をしていない。でも、それがいつまで持続するか解らない。ある程度好調になれば、今度はそれを加速させようともしてしまう。好調時における無理のしすぎだ。基礎的な満足を得られたのなら、今度はまた別の満足を得なければならない。

いずれ新たな欲求は現れる。それを満たせなければ、やがてフラストレーションとなり、新たなストレスが生まれる。内的な長引く刺激となってしまうのだ。

 

今の自分には、心身の養分が足りない。充足が欠乏し、神経を高ぶらせている。心に資源が必要だ。生きていく上で欠かせないものがある。それを満たせなければ、日々を動かすことは出来ない。

欠乏欲求には、それぞれ段階があると思う。生物的存続のための欲求と、社会的存続のための欲求だ。そして、それらの土台の上には、最大限の超越的存在への欲求がある。これらの段階があると思う。

今の自分は、すべての土台となる満足を得るべきだ。生物的存続のための満足を得ること。その段階にいる。生理的満足と、安全の欲求だ。それらを得ることが、文化的な生活を送るための土台となる。それを満たさなければならない。それがあってこそ、所属や愛、自尊心を得るための段階へと進める。

今の状態では、安心安全を渇望している。その満足がなければ、日々をまったく動かすことが出来ない。体力がなければ、世界を美しく眺めることも出来ない。暇を感じることも出来ないし、到底高次の欲求も湧かない。

 

これから調子が元通りになれば良い。その感触を得られたら、安心安全を得ることに繋がる。心身は落ち着き、かりそめの気楽さを得られるだろう。それは好調の種になる。

かりそめであっても、それがある事で一般的な回復へと繋がるのだろう。それが持続しないのが問題だけれど、ひとまずは安心を得ることなのだ。それがなければ話にならない。

落ち着いてペースを取り戻すこと。それは今の過ごし方で良い。そうやって、段々と回復すれば良い。それで良い。

ストレスから解放されること。とにもかくにもそうだ。それがすべての鍵になる。その段階を終えられたのなら、その後の歯車の回し方は学んでいる。欠乏を満たすことだ。刺激を得ること。

劣等機能を用い、心身の養分を得て、用いるべき主機能を活かすこと。その過程を歩むこと。自己実現であり、個性化でもある。病理を分析し、解き、行うべき行程を知る。そして、実際にその道のりを歩むこと。

 

ただ、それを実行に移せないというのがネックだ。それがずっと横たわっている。こうやって不調に陥ったのも、それが原因だ。安心安全を磐石に得ていても、高次欲求の不満が生まれてしまう。それは看過できない。安心安全の不満による影響と同じものがある。

生活の局面によって限度はある。それは、表面の工夫をしても変わっていかない。それどころか悪循環に陥る始末だ。

胃袋の上限は、リラックスをしなければ上げられない。ストレスを減らし、少しづつ満腹になること。それを持続させ、段々と上限を底上げすること。そうやって、身体の調子の赴くままに過ごせたら良い。自然に気持ち良く胃を膨らませること。それが大切。

 

段々と良くなっている。この意識だ。

もうじき良くなるはず。じっとやり過ごそう。

僕はまあまあ元気です。あなたの健康を祈ります。

 

また明日。

 

参考文献: