HSP/INFJセルフフィードバック

日々の気付きと過程の記録

至高の喜び 本質的な治癒の瞬間

前回の通院日を終えてから、十日ほどが経った。未だ病院後の意識を持っているような、持っていないような気がする。明確に言えることは、身体は全快していないということだ。かといって、重い体調不良に陥ってはいない。その狭間にいる。微妙な低空飛行が続いている。アクティブに過ごしてみると、体力の差を感じるといったところ。

それでも、そのアクティブというのは、内的に費やした時のこと。それだけのことだ。自分における体力の水準は、その程度のものだ。一般的な社会人と比べてしまえば、生きている世界が違うのだろう。領域の違いが明確だ。病人と社会人の差。センシティブパーソンとタフネスパーソン。そのような人に読まれたとすれば、明確な感覚のずれが生まれてしまうのだろう。

ただ、それでも内的な作業というのは、結構な重労働ではある。最新のブログを推敲し、仕上げ、過去の記事を書き直す。それだけでも根を詰める必要がある。体力の領域という違いはあれど、文章を書くということは手間が掛かる。個人的に思う良い出来に仕上げたいし、それを精密に組み立てられるとも思ってもいる。文章の不自然さで言えばそう。読みやすい文を書きたいと思っているし、そう仕上げられるとも思っている。

でも、そうやって完璧主義に取り組むと、なかなか辛いものがある。

継続して本も読みたい。以前は日々読んでいたこともあり、それを思う。でも、そのように務めるものの、マズローの言い回しに苦戦する日々。マズロー自身の言葉なのか、和訳の癖なのかは解らないけれど、頭から煙が出そうになる。やすやすと読まれてもたまらないだろうけれど、簡単に読める代物ではない。それも承知の上で読むべきでも、病人の身には余る。

救いを求める行いによって、どうにも窮屈になるという流れだ。これは捉え直しで解ったように、擬似的な無理のしすぎに当たる。欠乏による抑圧。「救い」すなわち、自尊心を得るために誤った努力をしている。暇な一日の、鞭を打った務め。苦境を脱却しようとする、自分なりの立脚点。

読書は洞察の糧になっても、抜本治療には繋がらない。いや、自分の力で繋げられていない。

 

かりそめの安息は得ている。最低限のそれなりの体調はある。それによって、ぎりぎり内的に費やせるくらいだ。

体調コンプレックスは影を潜めつつある。これが発現してしまえば、周囲の感情と痛手が重なり、病的な無理のしすぎに陥ってしまう。何かのストレスが生まれると、それは内的な神経の高ぶりを引き起こす。それが二次的なストレスとなってしまう。このように陥ってしまうと、極度にセンシティブとなり、ひどく衰弱してしまう。

それは満足の水準が一段下がり、安心安全を失った状態だろう。安心の満足が阻害された場合、人は病気となり、衰弱してしまう。

 

通院日の直後では、抑圧が減っていると記していた。でも、また同じように抑圧をしている。いつもと同じで、良い時の感触が切っ掛けになったり、悪い時の感触が切っ掛けになったりする。微妙に胃袋を膨らませられない。まだそこまでの段階に入らない。その段階に入った瞬間を感じるのだけれど、その感触が抑圧を生んだりする。

微妙な低空飛行状態だ。以前の体調では、胃袋の上限がもっと高かったのだろう。そう感じている。気持ち良くたくさん食べていた。それがあったからこそ、エネルギー収支は正に傾いていた。エネルギーをそれなりに得ていたのだろう。だからこそ、肥えることが出来たていた。以前はそうだったのだ。

病院を終え、安心安全は得ていると思うけれど、未だ微妙な塩梅だ。そこまでタフな状態ではない。もっと胃袋を膨らませなければならない。気持ち良く食べられる日もあるけれど、それは少ない。それを持続させ、自然と胃袋を膨らませる必要がある。

そうやって胃袋の上限をあげること。連続して気持ち良く満腹になることだ。

元通りの体重になれば良いけれど、他に工夫すべき事はあるのだろうか。あまり思い付かない。今の感覚では、それなりに食べられていると思っている。それがあれば、安心安全は得られるはずだ。それに体重が伴えば至高だけれど、それがない。それが気掛かりだ。

適当に思っている気持ちが半分、不可思議に思う気持ちが半分がある。いや、不可思議ではない。この状態は、当然の成り行きによるものだ。時の運はあれど、その時の運にも必然がある。

病理は解っているつもりでも、どうにも難しいことはある。

 

欠乏がある日々であっても、低次の満足による体力は得ていたい。そう思う。安全の満足を十分に得ることだ。つい最近まではそれを得ていたのだ。それを取り戻したい。それなりの体力は、それなりの活動を生む。それは中期的な時の運だったかもしれないけれど、今はそれさえあれば良いと願っている。高次のフラストレーションという問題はあれど、ひとまずはそれを取り戻したい。

それなりに過ごせるということは、十分貴重なことだ。それだけで十分なのだ。そう思いつつある。

マズロー関連の本に記されていたことが解った。かつては低次の満足だけでやり過ごせなかったけれど、それを失ってしまえば価値が解る。日々の生活で満たされている部分はたくさんあった。それを痛感した。

ただ、またその満足を得てたとしも、高次の不満が頭を支配するのだろう。それが厄介なところだ。抑圧を振りほどき、そうやって健康な日々を得るためには、本質的な治癒の瞬間がないといけない。

 

それは欠乏が満たされた至高の瞬間だろう。喜びという至高の満足を得てこそ、食事の無理のしすぎも、擬似的な無理のしすぎもなくなると思う。気楽にいられ、体調コンプレックスはなくなり、習慣に縛られることもない。それはまごうことなく"解放"の瞬間だろう。

アーロン博士もそのようなことを仰っていた。「個性化のプロセスとは、『喜びに従うこと』だ」と。

マズローもこう言っていた。

たとえば、きわめて特徴的であるが、至高経験においては、宇宙全体が、統合され統一された全体と知覚される。このことは、ただ言葉そのものだけから想像するほど、単純な出来事ではない。

(中略)

きわめて深刻な・魂を揺さぶる経験でありうるので、それ以後永久に、その人の性格と世界観を一変させることがあるくらいである。私自身の経験でも、二人の被験者がいたが、このような経験のため、一人は慢性不安神経症が、もう一人は強度の自殺強迫観念が、即座にしかも永久にすっかり治ったのである。

『創造的人間 宗教 価値 至高体験』 79P

至高の喜びを得るということは、とても大きな出来事だ。それは人を解放にも導くのだろう。それは劣等機能による自己実現と同じ性質だと思う。本質は同じことだ。その道程は解っているつもりでいる。

劣等機能を活かし、主機能を支える資源を得ること。それは欠乏疾患を癒す過程と似通っている。基本的欲求を満たすことは、成り得るものに成るための土台となる。弱点を好ましく活かし、用いるべき機能を用いることが最終目標だ。それは、ユングマズローが洞察した基本的な中心だろう。

 

ユング神経症の原因として、「その人が平均以上の何物かを有しているためとすらいえる」と言ったそう。

マズローは、「ショッキングにいえば、自己実現する人は、自己を受け容れ、洞察力をもつ神経症者」と記している。

使うべき機能を知り、成り得る自分を定めること。それは運命を知ることだ。それに従う必要がある。それが自分を解放させるのだろう。それは自分を縛るものではなく、歩むべき道のりを教えてくれるものだ。

全ての現象は、現実によって求められる。言い換えれば、全ての出来事には意味がある。病める理由にも、不運にも、不条理にも、全てに意味はあるのだろう。それを学び、携え、切り開くことが大切だ。そうなのだと思っているし、そう思うしかないのだろう。きっとそうだ。

身近な人との関係からだろうな。劣等機能で得るべきエネルギーは、正の感情だ。親密な関係から得られる満足。それが心身を満たし、主機能を支える。それは弱さを開発することだ。

そのために人と温かい関係を築き、愛情を得ること。今の自分が求める喜びは、これまたそれしかない。これも重なっている。それを得てこそ、心身の困難から超越されるのだろう。ストレスは解消され、フラストレーションは生まれず、気楽で開放的にいられるはずだ。おのずと他の欠乏も満たされ、成り得る自分となっているのだろう。

欠乏を全て満たした暁では、一体何に費やしているのだろう。何によって成長している?文筆による芸術家か?それとも宗教家?あるいは心理療法家?これらを統合した創造的作業によるもの?

どうなのだろう。よく解らない。いや、そんなことを考えても仕方がない。欠乏をいかに満たすかということは、永遠の課題なのだ。それは難題で、一向に叶えられず、全く進歩せずに日々がついえるかもしれない。それくらい大きな壁だ。人生の全ての困難は、今にある。そう思う。

ただ、この壁さえ乗り越えたら良いのだろう。

 

アーロン博士の研究、ユング心理学マズロー心理学、これらは全て繋がっている。全員がもはや芸術家であり、宗教家であるとすら思う。マズローいわく、「科学と発明の歴史は、確証された至高洞察の実例と、失敗に終わった『洞察』の例にみちみちている」そうだ。

マズロー至高体験の話は、とても興味深い。宗教や価値、教育、芸術、自己実現に繋がりのある深い要素だ。

この本質を知っていれば、色々なことが理解できるかもしれない。例えば宮沢賢治とか。人の運命を知るのにも役立つだろう。個性化や自己実現、それらセンシティブパーソンの歩むべき道のりも、だんだんと解ってくる。

 

自分は将来、どんな職業についているのだろう。人の運命を詳細に分析できたとすれば、より興味深くなるだろうな。それは予測できるものだろうか。それは正しいものなのだろうか。

将来で振り返ってみれば、これらの勉強は本質を射貫いたものなのか否か、判明するのだろう。その答え合わせをしてみたい。そうやって世界を見てみたい。そのための思考を、こうやって記していたい。

このブログも芸術であり、心理療法であり、宗教であるかもしれない。

否、自分を買い被りすぎているな。失礼しました。

共に学びましょう。

 

マズローの原典を読み終えれば、今度はユングを読むか。無教養で無学だから、一般教養を学びたいけれど、それはまだ先になりそう。今面白く読めるものは、自分の救いとなるものだ。その言葉を探している。読むにも見るのにも、それを求めている。

河合隼雄さんも読みたい。それらを読み終えて健康になってこそ、一般的な勉強が出来るのだろう。

色々なエッセイも読みたい。読みたい本がたくさんある。とにかく学びたい。

時間がもっとあれば良い。早く成長したい。

 

また明日。

 

参考文献: