欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

それなりの水準 低次の満足と擬似的な刺激

眩しい光が差し込む午後。部屋の中に居ても、すこし汗ばんでくる日和だ。薄い身ごろもをまとい、辺りの景色を眺めている。

段々と夏模様になりつつある。でも、まだ初夏の気温ではあるのだろう。そのなかに本格的な夏の兆しを感じる。光の強さ、色合い、風、匂い、身体の感覚、風情、どんどん季節の濃淡が変わっている。初夏から薄暑の頃だろう。それはやがて夏の盛りへ。段々と微妙に変化している。

身体の感触も、例年の夏を思い出しつつある。季節の風情と、そこに生きる人々の営み。日常のルーティーンと時間の流れ、それを感じる体調と感性。

もう間もなくだ。あのやかましい季節がやって来る。うだるような命の盛りがやって来る。その熱量を感じられたり、一時の安らぎを得られたりもする。豊かな日々が近い。季節の隆盛と、その中にいる人間。

そして更に拡大すると、一人のちっぽけな痩せっぽっちがいる。心身が落ち着いた束の間のは、季節の豊かさを慈しめる。一時的な至高の瞬間を得られたりする。今年の夏は、ずっとその体感を得ていたい。そんなことを思う。

でも、もうしばらくは身体に起伏があるのだろう。夏もそうやって通り越す。そう思う。それは例年と変わらない。心の濁りは生まれてしまうのだろう。それがなければ、心から世界に感謝することが出来るのだろうな。全てを有り難み、愛し、喜びを得られるはず。それもまた至高の瞬間なのだろう。それが延々と続けば良い。そんなことを思う。

ひたすら大洋に浮かんで四肢を広げているような、そんな悠久の感触を得たい。宇宙との統一。時間からの超越。そんな瞬間が続けば良い。

今年の夏は、何が起こるのだろう。あなたには何が起こるのでしょうか。世界を素晴らしく思いたい。

段々と暇が生まれつつある。安心安全を得て、余裕が生まれているのだと思う。エネルギーに余りが出て、それを高次の欲求に費やしたいと思える段階だ。その状態になるのは、それより低次の欲求を満足しているからだろう。安心安全は、大方が満たされつつあると思う。

直近の日々では、あまり体調について考えていない。一時の気楽さを得ているのだと思う。それはかりそめのものであっても、十分に良い効果をもたらす。ある程度の量の食事は食べられていて、それが体調コンプレックスを鎮めている。

今の自分が得たいのは、安心と安全だ。それを得て内的に費やしたいということ。それが叶い、着実な成果を伴って安心を得ている。こういった流れがあると思う。

体調に関する不安は減り、ほぼ楽観的にいられている。その効果も合わさり、大方は本調子に近くなっていると思う。

これに加え、体重が元に戻れば良い。それはまだ伴っていない。この事は、厳密には本調子でないということを示している。本当の本調子と比べると、まだそこまでには至っていない。以前はもっと力が満ちていたのだろう。

ただ、最低限の満腹は得ているため、痩せることはない。これがあれば、最低限の安心に繋がる。安心の満足は、新たな病気を防ぐ。それがあれば、衰弱してしまうことはなくなる。

でも、エネルギー収支が正に傾くまではない。今の活動量におけるエネルギーしか得られていない。それが以前よりも一段下の水準で落ち着いている理由だ。以前はもっと活動することが出来た。

痩せることはなくても、太ることはない。それを表すように、活動量は少し低い水準だ。

もっと満腹になる必要があるのだろう。持続的に満腹になる必要がある。そうやって胃袋を伸縮させること。食べられる上限を底上げすることだ。その過程を辿っていけば、活動量は増えるのだろう。余裕が生まれ、よりエネルギーに満ちる。すると体重の増加も伴っているはずだ。

このままの精神状態が続けば、もう少し上向くことはあるかもしれない。時の運によってストレスが生まれなければ、快適に満腹になる時が多くなるだろう。そうなれば胃袋は伸縮し、エネルギーは余っていく。少しずつ正の領域に入るだろう。気楽にいられる日々が多くなれば、抑圧も減る。

継続してそのように頂けるようになれば、それは一般的な体調をもたらすのだろう。活動量もおのずと増え、日常も一般的でさえあり得る。体重も、活動も、社会的な肩書きでさえも一般的なものとなり得る。

 

でも、そうはいかないのがこの身体だ。ゆっくり静養していたとしても、それだけでは全快しない人間だ。かれこれ十年は低水準が続いている。社会的な圧迫など何もないのに、じりじりと消耗してしまいがちだ。刺激のネックはいつでも顔を出し、快適さを奪っていく。

 

本質的な原因は、欠乏によるものだ。それは解明している。刺激の折り合いを付け、活かすべきエネルギーを用い、相応しく生きること。そう改善しなければならない。

今の日々は、初歩の段階から進めずにいる。雑多な刺激は遮っていても、それだけでは全快しない。刺激の欠乏を、全て満たさなければならない。

暇な時間が長引けば、それによって好ましくなく興奮したりもする。内的な刺激が生まれることにより、精神をかき回される。この状態に陥るのが、病的になってしまう大半の原因だ。

 

外的な刺激を遮ることは容易い。それはとても簡単なことで、遮るべきなのだろう。普通になれる可能性はあったとしても、刺激に対して敏感すぎる事は変わらない。普通の人よりも上限は低い。それを考慮すれば、タフネスパーソンのように生きるのは難しい。

課題なのは、内的な刺激を減らすことだ。フラストレーションを溜めないように、適度に刺激を得ること。極端に内側で過ごしすぎず、好ましく興奮することだ。外的な刺激を受けすぎてもいけないし、暇すぎてもいけない。外の世界へ積極的になりすぎず、そのなかで相応しく外から刺激を得ること。この塩梅が大切だ。

ただ、それが一番難しい。果てしなく難しい。刺激を与えてくれるのは、まごうことなく人間しかいない。それ以外に可能性はない。ただ唯一、人間と関わってこそ、心身の栄養を得ることが可能になる。それを経れば、可能性を活かす第一歩になるだろう。

 

でも、その過程を踏めないのが今の日々だ。それでは心身に限度がある。体力的な問題があり、刺激への耐性もない。それらの前提が整っていないため、可能性への選択肢が狭まっている。そもそも人に会うことが叶わないのだ。

人の集まる場所に当てはあっても、そこへ通うことは負担になると思っている。時間をかけてその場所へ通い、刺激に慣れようとするのはリスクがある。

身近で関係を築くことが出来ず、過去の関係を取り戻すことも出来ない。周囲に人などおらず、皆は何年間で遠く離れてしまった。家の近所には、人の集まる場所などない。

今の体調水準ではあっても、より高次の欠乏を満足させなければならないのだろう。それは所属と愛の欲求を満たすこと。人と会い、所属し、愛情を得ること。その欠乏の満足は、欠乏疾患を治す。その回復は病気を治すのだ。

 

今日は繋がりを求める意欲が湧いた。有名な発信者のSNSを閲覧たり、オンラインゲームをしたくなっていた。暇が生まれ、誰かと繋がりたくなっていた。

これは、安心安全の満足を示すのだろう。完全とはいえなくとも、ある程度は満たされている。それがあれば、高次の意欲が湧いてくる。それが今日だった。暇を覚え、遊びに費やしたくなっていた。これは良い兆しだと思う。

でも、それは時を同じくして、フラストレーションが生まれることにも繋がる。その欲求を満たすことが出来なければ、内的な刺激となってしまう。神経が高ぶって抑圧に陥る。気楽に考えられなくなれば、それはストレスを生む。二次的な神経の高ぶりがもたらされ、センシティブさが鋭くなってしまう。安心安全は損なわれ、身体の水準は落ちてしまう。

 

ただ、今はそこまでのフラストレーションを感じていない。内的に費やせたのなら、今はそれで良いと思っている。それを噛み締められていて、満足に繋がっている。それが気楽さを生んでいると思う。抑圧が減り、満腹になることが出来ている。今はその局面にいる。

問題なのは、内的に費やす日々に満足できなくなることだ。これからそうなってしまえば、前述のサイクルに陥ってしまう。適度に興奮が出来ず、神経が高ぶり、ストレスが生まれる。ゆっくり静養したとしても、そうやって抑圧に陥り、身体の水準が下がってしまう。

 

ただ、低次の満足を噛み締める事が出来れば、少しは変わるのかもしれない。以前は低次の満足に甘んじることは出来なかった。すぐに高次のフラストレーションに支配され、神経を高ぶらせていた。

安心安全を確保し、それなりの体力を得られたのなら、それを噛み締めれば良い。それなりの体力さえあれば、基本的な体力となるのだ。一般的な活動はできなくても、内的には費やせる。それは欠乏を満たすための原資になる。満足を噛み締め、内的に費やしつつ、欠乏を満たすための活動に励めば良い。それが一番の理想だろう。そう思いつつある。

それなりの体力を得て、それなりに費やすこと。神経を高ぶらせず、低次満足を噛み締めること。そのなかで、可能性に接続すること。これが出来たら良いのだろう。

 

でも、それは出来ないようにも思える。少し前までは、それが出来ずに煩悶し続けていたのだ。

やはり現実の世界において、生身の人間と交わる必要がある。そこからは背くことが出来ない。

ただ、バーチャル空間で刺激を得ることは、一時的ではあれ満足となると思う。低次の満足を噛み締め、そこで擬似的な刺激を得られたのなら、体調はそれなりに維持されるかもしれない。SNSでも、オンラインゲームでもしてみれば、それは満足となるかもしれない。本質的な治癒には至らずとも、それなりの体力を維持するためのものになれば、十分価値に値すると思う。

そのなかで、欠乏を満たすための努力もし続ければ良い。それなりの水準を維持しつつ、その水準で出来ることをする。

かりそめの気楽さであっても、基礎的な体力を生み続けるのであれば十分だ。それがあれば、自分における全ての土台となる。それなりの前提だ。それなりであれば十分なのだ。世界に太刀打ちするための、欠かせない前提を得られる。そうやって過ごすことは、十分に価値がある。

 

新しく道程が見えてきている。この想定はどうなのだろう。効を奏するか、それとも同じ轍を踏んでしまうか、だうなのだろうか。

「内的に費やせさえすれば良い」という精神は、いつまで続くのだろう。全てはそれ次第だ。同じ繰り返しに陥ってしまうかは、それが左右するのだろう。

 

これからの中期的な推移次第です。それを踏まえて、色々と工夫をしてみることだ。そうやって、辺りを美しく感じられるような主観を得たい。

また同じ過程を記すことにもなりそうです。

 

あなたは何と格闘していますか?

共に頑張りましょう。

 

また明日。

 

参考文献: