欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

新しい局面の壁 抜本的な転換

夏の風情に包まれた昼下がり。薄着をまとい、網戸の内側から外を眺める。梅雨の中休みではあるけれど、辺りはすっかり夏模様だ。夏の真っ盛りではないけれど、その兆しを感じられる。緑の色は濃く鮮やかになり、周辺が鮮やかに見える。空にはパステルブルーが広がり、薄くまばらな雲が散らばっている。

少し熱を持つ身体と、網戸から吹き込む風。木々のさやぐ音と、近所の作業員の声。

もっと体力があれば良かった。日差しを浴びながら過ごしていたかった。そう思う。それだけの事であっても、豊かな日常を感じられたのだろう。そうやって過ごし、その事を慈しみたかった。何気なく生きていたい。

病人に汗をかく体力はない。その内的な感覚は意識に上がり、現状を示している。外出を選ぶ気持ちを持てない。持てなかった。こんな日は、じっと屋内で過ごすのが賢明だろう。

季節の感触を感じられなくても、それは仕方ない。何とかやり過ごすしかない。今を生き延びることだ。いつかまた、きちんと季節は訪れる。それは解っている。そのために、日々を積み重ねること。目の前の一日からだ。

 

いつか読んだ小説を思い出す。一夏の物語。主人公は高校生で、舞台は夏休みの頃だった。

その小説は、たしか夏に読んだ。暑い季節に本屋へと行き、その本の文庫を買った。それには映画化を告知する帯が付いていた。

フリースクールへと通っていた頃の話だ。その帰りに本屋へ寄っていたのだった。クーラーが利いた涼しい部屋では、毎年夏のフェアが催されている。そこにその本が平積みされていた。その文庫の帯に載っていた俳優は、幻想的な振り向き姿をしていた。

夏の小説を夏に読む。それは豊かな時間となる。そんな風に思える。それはその時にしか出来ないことだ。季節の感触を携えながら、同じ季節が舞台の小説を読む。その中に生きる同年代も感じられる。何だか特別な感覚を持つ。印象に強く焼き付くのだろう。それを振り返る頃になれば、それは豊かな体験だったと思い出される。

 

その頃の身体は、今よりも上向いていた。それもあり、十分に日々を生きていたのだろう。それも記憶を定着させる要素だったと思う。

その時の事はたまに思い出す。身体の感覚が、かつての記憶と重なっている。

今くらいの季節だったら、少しくらいは外へ出ても良い。体力があればそうで、少し注意して過ごせば良い。今はまだ、許容範囲内の温度だろう。

それは健康であればそうだ。そうやって季節を体感するのがちょうど良い。それなりに強い日差しによって、少し汗ばむくらいの頃だ。

ただ、今の自分の身体では、外気に耐えられる程の力がない。すぐ身体に障ってしまうだろう。熱気に耐えられるまでの体力はない。汗を垂らしながら外を歩くことは、基礎的な体力がないと叶わない。その水準は、隠されて存在している。

いや、今の身体は、天候が快適でも活動できないかもしれない。調子が良くない時は、身体の外でエネルギーを発散できない。エネルギーが余る時は少ないのだ。エネルギー収支がぎりぎりの日々が続いている。暑さを口実にし、休むための理由にしたりしている。

誰しもが気を付けるべき暑さだけれど、体力のなさを隠そうとしたりしている。暑さは確かでも、そもそも体力が足りていない。

天候が快適であれば、一体どうしていたのだろう。そんな日がある。

前回の診察日から二週間が経っている。それと同じくして、翌月の診察日までの折り返しも迎えた。未だに身体は、以前の水準まで回復していない。体重が減ることはないけれど、増えることもない。以前より一段下の水準に落ち着いている。

活動量も少し低下しているけれど、そこからまた下がることはない。それなりに満腹になるけれど、抑圧や不調もある。そんな日々だ。

気持ち良く食べられても、全体的に考えれば、それは以前よりも少ない頻度なのだろう。それに加え、抑圧をして負の領域に落ち込むことがある。体調の時の変動もある

胃袋の頑丈さが失われているのだと思う。以前は、食事の量が多かったのだろう。単純にそうなのだと思う。一段上の水準を維持出来る量を、継続して食べることが出来ていた。それを支える頑丈さがあった。好調時は、本当の及第点が得られるくらいの水準だった。

抑圧をしても、すぐに胃は回復していた。そうだったのだ。胃に強く応えることは少なかった。それなりに満腹でいられる時が長かった。それが胃の強さにも繋がり、少しの体力へと繋がっていた。活動量も違っていた。

今の食事の摂り方では、食間が長く感じる。ある程度までは、より胃袋を広げる必要がある。最低限の満腹水準がある。今はそれを下回っているのだろう。その結果は、体重や活動量に表れる。もっと腹を膨らませられない限り、エネルギーの不足に陥る。

以前の余裕があった時であっても、空腹時間は長くなっていた。でも、ある程度の食事を摂っていれば、空腹が長くても耐えられる。体力がそれなりにあれば、支障なく過ごすことが出来たのだった。以前はそうやってやり過ごしていた。

エネルギーバランスが負に傾けば、脂肪が付くことはない。エネルギーの余剰がなければ、太ることはない。それは単純な仕組みだ。消費を上回るエネルギーを得られなければ、太ることなどない。

ただ、そのなかでぎりぎり内的には費やせるくらいだ。それなりに満腹になれば、その時は身体に力が満ちる。

でも、それは一時的なものであって、まったく余裕がない。それが問題だ。

 

内的に費やすためのエネルギーは得られている。今のところは、衰弱している時間は少ない。でも、しんどい時はある。平気な時と、体力の低下を痛感する時間とがある。

少しでも抑圧へと陥れば、とたんに体力を失ってしまう。暑さを言い訳にしながら、終日家で過ごす日がよくある。余裕がないということは、かなり影響が大きい。

 

次の診察日までは、このままの体調で推移しそうだ。そう思いつつある。満腹になりつつも、時の変動で停滞する日々。胃袋の持続力は得られず、その場しのぎの栄養状態が続きそうだ。

診察や寄り道を終える間は、ある程度の体力が必要だ。その間は長く空腹になる。当日の朝食は少量しか食べられず、大方は空腹時間が続く。その時間に平気でいられるかは、日頃の栄養状態で決まる。

快適に通院を終えることが出来るか否か、それは微妙なところだ。当日の調子が良ければ、その時はきちんと食事を摂ること。調子が悪い場合は、少量で済ませる。問題なのは、その少量で終わってしまった時の事だ。通院から帰宅するまでのエネルギーは、日頃の栄養状態次第。体力がなければ、きつくなってしまうだろう。

それを何とか回避したい。それを目指して過ごしている。もっと基礎的な体力を得たい。余裕をもって過ごしたい。

 

ただ、最近は微妙な塩梅が続く。抑圧や不調があったりするし、いまいち満腹になりきれていない。

以前は好調だった事を認識しつつあるけれど、その時の感触は何だか忘れてしまった。忘れてしまっていた。

いつもそうだ。体調が良い時の事は、記憶に定着しない。

ある程度意識的に、連続して満腹になることだろうか。そんな気がしてくる。抑圧をしないように、丁寧に意識をして食べる。良いように変動した場合、身体の状態は落ち着くだろう。そこからそれを維持すること。始めは腹八分を意識しながら食べる。そして、そこから余裕が生まれた時には、以前よりも少し多く食べて満腹になる。それは少しで良い。徐々に少しづつ上限を底上げすること。

それが持続されたのなら、段々と胃袋の持久力を得られるはず。胃が頑丈になれば、回復力も付くだろう。それはある程度の水準をもたらすはず。

 

あと五百グラムと少し肥えたら良い。それだけでも明確に体力を感じられるはず。内的にも十分費やせるし、外的にも費やせる。運動なども少しは出来るし、欠乏を満たすための原資にもなるだろう。

もうそれで十分なのだと思える。一般的な日々には及ばずとも、それなりの力を得られたのなら良い。それだけで十分だ。

活動量と欠乏の状態を鑑みれば、その水準が大体の天井だろう。そこまで達すれば、あとは欠乏を満たすことだ。それをすれば良い。それをするしかない。それをするための体力としては十分なのだ。高次の日々のための原資となる。

そうやって徐々に良くなっていきたい。最終的な更なる理想は、三キログラム増だ。至高の理想は十キログラム増でも、そこまで至らなくても良い。個人的な事情はある。身の丈に合った数字であれば良いだろう。一般的な数字ではなくても良い。一般的に生きることは出来ないと思っている。

もちろん、欠乏がとにかく満たされたのなら、過分に肥えることもあるだろう。でも、そのような日はやってこないと思う。やってくれば良いけれど、可能性は低いだろう。あるとしても、数十年は先だと思う。

敏感性と刺激追求性を鑑みれば、当分はこの生活が続いていく。よほどの変革がない限り、ネックはそこらじゅうに有り続けるのだ。

そのなかでも、それなりに過ごせさえすれば良い。内的に費やせたのなら、それを噛み締めれば良い。今はそう思っている。そのために、色々と工夫をしているところだ。

 

ただ、いまいち工夫の出来ない日々。オンラインに繋がることも、バーチャル空間で刺激を得ることもしていない。どうにも足踏みをしてしまう。

安心安全は得ていると思うけれど、それだけでは改善しないのだろうか。それを思う。ただ、かりそめの気楽さは得ているはずだ。

体力の確保という安心を得られたのなら、それが一番の特効薬になる。体重さえ増えれば良い。それが一番の要素だろう。それをとにかく渇望している。

 

でも、それは得られない。順序は逆だろう。それを得て気楽に過ごすのではなく、抜本的に改善させ、結果を得ること。そうやって体重という結果を得て、気楽に過ごすこと。その順序が正しいのだろう。

でも、それもまた難しいのだ。今のネックは体重だ。それが実際に上向かない限り、安心は得られない。工夫をして気を逸らすか、何とかして欠乏を満たそうとするか、そのどちらかだろう。

 

どうにも難しい。これからの推移は全く読めない。直近でも細かく変動している。不確定な要素はたくさんあるだろうけれど、先々週から上向かずに推移している。

これからどうなるのか、全く解らない。

今日で上半期が終わる。早くも2021年の半分を折り返す。

自分は一体何をして来たのだろうか。これも記憶が定かではない。ブログで振り返る事は出来ても、何だか確かな感触を得られない。そんな心持ちがする。

短い人生の一部を、無為にしてしまった気がしてくる。思い出せるような記憶がない。恐らくは、大して印象に残るようなことが無かったのだろう。日々在宅で過ごし、そのなかで勉強はしつつも、どうにもならない変動に気を病み続けていた。病人の一喜一憂をするのみだった。それを繰り返し記していたけれど、何か意味のある作業だったのだろうか。

下半期には誕生月がある。それは間もなくやって来る。その時を迎えれば、自分は十代を終える。たったそれだけの転換点ではあっても、何だか重みを感じている。その意識が最近はある。

年長者から見れば、大差のない時間軸かもしれない。そのように感じられるかは解らないけれど、個人的には意識の節目となりそうだ。

十代は何でも許容されそうな雰囲気を感じる。いや、既に社会は、十代であっても大人扱いをすることになっている。ただ、それでも未発達の段階ではあると思う。基礎的なことは大人と同じ扱いでも、社会人としては半人前と見なされるだろう。十代はそうなのだと思える。

ただ、二十代は違うと思う。周りには、既に働いている人間もいるはず。年代としては、十分に社会的な務めを全う出来る歳だ。いや、そうすべき歳なのだ。それをすることは出来るのだ。だからこそ、歴とした大人として扱われる。

その重みを"二十代"という言葉に感じる。今は未発達さと格闘する日々なのだ。十代とは違う世界に入ると感じる。

自分の心は、未だに小学校の時から変わっていない。それを思う。魂はさ迷ったままだ。何年も成長していないままで、居場所と人を求めて孤独になっている。そのような感触だ。みっともなく年が経っただけなのだ。時に追い越されるだけだった。携えているものは何もない。病んだ身体を持ち、変わらず幼い顔をしている。

 

何も日々を変えられず、記す文が増えるのみ。それは日々の満足と反比例している。豊かに生きられないほど、歪なエネルギーはこちらへ注がれる。

認識の刷新は進んでいるし、日々に変化はあると思う。でも、満足な日々へは遠い。それが欠けていることは、大きな歪みをもたらす。満足を感じられることが一番大切だ。そうなのだろう。それを手に入れてこそ、日々は始まっていく。

その理屈で言えば、今は日々が始まっていないのだろう。ろくに記憶がないのは、そういうことなのだろうか。そう考えると、何だか合点がいってしまう。

人生の時間をどれだけ無に費やしたのだろう。そんなことを思ってしまう。いつかそれを取り返したいけれど、それを掴むことが出来ない気がしてくる。このまま生きていけば、すぐに三十路にもなるのだろう。それは、その時に振り返ればそう思える。そうなのだろう。そうなってしまった時には、さすがに不可逆というものが生まれているかもしれない。その頃に喪失感があれば、その失ったものは取り戻せるのだろうか?

今の日々を生き続けても、一体何を手に入れることが出来るのだろう。それが解らない。それが何も無さそうなために、未来の不安が浮かんでいる。

 

未来は不確定だろう。それは知っているつもりだ。それに不安を持っても仕方がない。良いようにも変わる可能性だってあるのだ。それはある。きっとある。だから、それを思って頑張るしかない。そうなのだろう。やるべき事を学ぶしかない。それしかない。

そう思い、それを日々の中心据えているつもりだ。とにかく学ぶことだ。日々をやり過ごし、運命を知ること。

それを知ったのであれば、後はそれを実行に移すべきだ。それをすれば良い。それはただ単純なことだ。その意識でいられたのなら、不安なんて持つ必要はない。それは無意識に手放しているのだろう。やるべき事のただ一つをやれば良いのだ。それだけで良いのだ。そのはずなのだ。

 

でも、そのやるべき事を実行できずにいる。実行できずに時が経っている。もう既にだ。その壁が生まれてしまった。また新しく局面が変わった気がする。それが不安を生んでいる。

皮肉にも、不確定な未来が悪くやってきている。以前からこの認識を得ていたけれど、何も出来ずじまいだ。

このブログを読んでくれている人は、何を思っているのだろう。それが気になります。何を感じてくれて、何を思って生きているのだろうう。それを単純に思います。

どんな未来があるのでしょう。あなたも、私も。

取りあえず生きること。それだけです。それを何年も重ねてきた。それをし続けるのみだ。長距離走を走り続けること。

 

また明日。

 

参考文献: