欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

健全な自尊心と衝動 正しい姿勢

今日は雨模様だ。辺りは白色のもやに包まれていて、遠くの山並みが見えなくなっている。鮮やかな色合いは和らぎ、活動のトーンも下がっている。空から降ってくる雨の音と、屋根から滴る雨粒の音。窓際から外を眺めると、色々な音がする。遠くの静かな雨音と、不規則な雨垂れの音。梅雨入りの予測から少し間が経ち、この季節らしい天候に変わった。予報のマークには、太陽以外のものが並んでいた。梅雨入り前の暑さは落ち着くのだろう。

今日は終日おこもりになりそうだ。内的に費やすのには丁度良いけれど、それは一体どうなのだろう。ほぼそうやって毎日過ごしているのだ。外的な要素はほとんどなく、静かに過ごす日々が続いている。

画面とにらめっこをし、難儀な本を読み、変わらず体調に気を揉み続けるのみ。それらの結晶をこのようにまとめているけれど、それに成果はない。健全な衝動は生まれず、擬似的に刺激を得るのみだ。

前回の通院日から三週間が経った。それと時を同じくして、次の通院日まで一週間となった。先月から今月は、この意識を持ってずっと過ごしている。体調についてのケア意識がある。それを気にしても仕方がないのだけれど、極端に身体が落ち込んでしまえば大変だ。それを避けようとしていて、出来る範囲の工夫を試みている。

身体の状態が傾かないようにすること。理知的に意識の持ち方を考えている。

その試行錯誤をするなかで、あっという間に時が経っていた。一月は早い。すぐにまた通院の日を迎える。それを繰り返し、一年の半分が終わっていた。そして、まもなく節目の歳を迎える。

一ヶ月の流れが早いのであれば、一年もまた早くなるのだろう。振り返って考えたときにはそうだ。そうやって時が過ぎた後では、何もかもが過ぎ去っている。日々は確かに与えられていても、それを確かに感じられはしない。それは自分次第の事であっても、どうにも無常に感じてしまう。無慈悲に時に押し出されているようだ。

命にはそういう面があると思う。けれども、それは考えても仕方がない。考えるべきは自分の力だろう。全ては自分次第なのだ。日々を掴むしかない。そうやって実りある日を得るしかない。

体調はそれなりの塩梅で続いている。先月の同じ頃と照らし合わせれば、一段上の調子でいられている。先月のその頃は、体調がかなり傾いていた。通院の日までに、段々と先細ってしまっていた。

身体の低調な感覚が、内的な刺激となっていた。それがストレスとなり、更に体調の感覚を感じ取ってしまっていた。センシティブループだ。神経の高ぶりが連鎖を起こし、抑圧が引き起こされた。負の領域へと深く落ち込んでしまった。

こうなってしまえば、根本からストレスを取り除くか、時の運によって抜け出すしかない。その二つくらいしか抜け道はないのだろう。

その時のストレスは、病院が引き金となっていた。その病院にかけてピークに達し、それはやがて段々と鎮まっていった。

ただ、体重の低下という新たなストレスが生まれてしまった。それによって高次の欲求は失われた。いや、そもそも低次の満足も失われていたのだった。安全の欲求しか意識に上がらなくなった。喫緊の得るべき満足は、体調の回復がもたらす安全の満足になった。

大きなストレスの元は、もうなくなっている。病院が終わればそうなる。一番の原因はなくなった。ただ、それがあったのだけれど、そこからが難航気味だった。一刻も早く安心を得ようとしてしまい、体調コンプレックスが発現されてしまった。それにより、気楽に過ごすことが出来なくなり、自然に食事を頂くことが難しくなった。無理をしがちだったり、胃袋の状態が上向きずらかった。

 

安心を得るために必要なのは、身体が上向くこと。体調にまつわる刺激が生まれた場合、それはすぐに過去の痛手と重なる。かつて体調が悪かったことにより、存続を危ぶむ困難があった。

それは自尊心を奪われたということだ。体調コンプレックスを生んだのは、これまた自尊心コンプレックスだ。自尊心が奪われるという事は、存在の柱を失うという事でもあると思う。

マズローの原典には、このような編集部による付記がある。

神経症(neurosis)についてマズローは『罪や悪、人間の弱さや堕落の徴として見ることもできれば、脅かされた人間が健康や成長、自己実現を求めて苦闘している徴として見ることもできる』(九六ページ)と説いている。マズローは抑圧され、差別されてきた者の反撃を人間の尊厳を守る「尊敬に値する行為」だと言う。

中略

神経症にも色々あるが、健康な人間が尊厳を傷つけられる環境に長く置かれたときに感じる抑圧を外に爆発させず、内に押さえ込んだために発症すると考えれば、それは人間の弱さであると同時に、前向きに正しく生きる姿勢を失わないからこその苦闘の証拠になるとも言えるのである。

『完全なる経営』 14P

健全な自尊心や欲求を持っているからこそ、人は病気になったり、不適応を起こしたりする。前向きな正しい生き方があるからこそ、それを選ばなくてはならないのだ。

可能性があるからこそ、それを支える弱さが目立ってしまう。そうなってしまうのは、使うべき可能性のエネルギーや機能が空回りしているからだ。そうなると、弱さが強さを支えようとする。でも、その弱さというのは、容易に使いこなせるものではない。

その弱さが顕著に現れた場合、何らかの不自由が起こる。それは病気だったり、不適応だったり、普通からの逸脱だったりする。その状態を周囲が観察すれば、"病的"という判断になりがちだ。"正常ではない"という判断となってしまう。

全ての科学者や臨床家、心に携わる方々には、大切なものが抜け落ちているのではないか?

そんなことを思ってしまった。少しでも世の中が健全であれば、過度な痛手を被る必要などなかったのだ。そう思う。

もちろん、痛みが全くない日々など、成長をもたらさないのだろう。それは確かにあるはずだ。でも、一歩間違えれば命を落とす人だって現れる。周囲の知的水準によって、一人の人生を台無しにしてしまうかもしれない。

全ては現実が求めたものであったとしても、それはあるだろう。そんなことを思う。救いは周囲に与えられるのが一番だ。それがなくても、過度な痛手などもっての他だ。

 

自尊心コンプレックスがもたらした、体調コンプレックス。体調不良コンプレックスもあれば、体調良好コンプレックスもある。至るところに抑圧の種はあり、それを開かせるフラストレーションも有り続けている。

太らずとも痩せない程度だ。痩せずとも太らないでもある。活動量の低い限度のなかで、その水準は維持できている。十分な満腹へは足りていないけれど、顕著に体力が落ちることはない。今の段階におけるそれなりの量は食べている。

先月と比べたとしたら、少しは上向いているだろう。五百グラム以上減ったなかで、その半分は取り戻していると思う。最良の頃と比べれば、三百グラム下回っているくらいだろう。少しづつ微増をしている。その感触はある。

抑圧をしてしまうなかでも、満腹になることができる回数は微増している。それがある程度の活動量を生んでいるのだろう。長距離の散歩は出来ずとも、内的には費やせる。食間の空腹感は減りつつあるし、空腹時にきつくなることも減っている。ある程度の基礎的な体力は、段々と得つつある。

後は抑圧を減らし、自然と満腹になることだ。それが難しいのだけれど、段々と体調にまつわるストレスがなくなれば、神経の高ぶりも減るはずだ。少しづつ胃袋の持久力が付けば良い。それが得られたのなら、多少抑圧をしても乗り越えられる。すぐに回復するだろうし、基礎的な体力が失われる程の打撃は減るはずだ。

 

負の領域にいれば、良くも悪くも時の運で変動していく。可能ならば、深刻に考えなければそれだけで良い。それはストレスの解放を意味する。それが難しいのだけれど、そうしていたい。

確かな拠り所による成果は得られずとも、良いように変動したりする。今は不調の淵にいても、ふと情緒的に噛み合えば、良くなったりもするだろう。それがある。低次満足という拠り所が得られたら、そこで良くなったりもする。

やがて高次の不満に支配されたとしても、それは仕方がない。ひとまずは、低次の満足を得ることだ。体調の安全という満足を得ること。

 

そのなかで、いかに負の領域を抜け出すかだ。欠乏欲求の代償行為に終始する日々より、それを実際に満たすこと。ストレスを減らし、抑圧も拭い、負の領域を抜け出すこと。神経を高ぶらせず、適度に興奮しながら過ごし、成長などに費やすこと。建設的な正の領域を生きることだ。

欠乏が全て満たされたのなら、それは自尊心に繋がる。それが得られたのなら、成り得る自分にも繋がっていくのだろう。それが自己実現だ。最大限の健康な身体で、無欲に日々を生きること。全てのニ分性は解消され、今ある拘束衣からも解き放たれているのだろう。

全ての鍵は自尊心だと思う。それが獲得されたのなら、それは最大限の健康をもたらす。その健康は、最大限の自分らしさをもたらす。成り得る自分となり、何かの作業を通して成長し、超越的で至高の瞬間を生きるのだろう。

 

直近の日々では、刺激追求性によるフラストレーションは少ない。その感覚はある。

いや、やはりフラストレーションはあるのだろう。自立自活への願望は消えない。対人関係での刺激や、在りたい日々の理想を思わない日はない。怖くない夢も見る。日々の全ては、擬似的な代償行為に過ぎない。

 

まだそこまでエネルギーは余っていないのかもしれない。そのなかでも、内的に費やせさせすれば良いと思っている。それなりの体力さえあれば、それを噛み締めることが出来そうだ。そう感じつつある。

今はまだ、十分な安全は得ていないのだろう。それがあるために、低次の満足があれば良いと思っている。

その低次の満足を糧に生きていけるのか、それともまた高次の欲求が生まれてくるのか、そのどちらかだ。そう思う。その結末は明白であっても、そう思っていたい。

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現実で刺激を得て、現実を生きていくか、それともバーチャルな空間や市場で自活をし、現実は低次満足ためのものにするか、それらが浮かぶ。

擬似的な刺激さえあれば、低次満足は維持できるかもしれない。そのなかで外的に過ごし、健康を得る。そのなかでも基軸は内的なもので、バーチャル空間で自活を完成させる。

現実での多少の満足と、バーチャル空間での成果。それらが噛み合えば、在るべき自分に近づくかもしれない。そんなことを思う。

 

でも、やはり喫緊の課題は、健康になることだ。病を癒すこと。それをしない限り、自活をすることも、自立をすることも出来ない。

そのためには何をすべきか、色々と考えている。日々勉強の連続だ。

 

学舎に戻り、肩書きや人生の土台を得るべきか、バーチャル空間や市場に没入し、そこで社会的な価値や成長を得るべきか、そのどちらだろうか。

でも、行き着くのは欠乏を満たすことだ。それは現実の人間しか与えてくれないものだ。

最終的な在りたい日々へは、目の前の課題から取り組むこと。今考えていることは、全て大切なのだろうと思う。でも、あまり逆算しすぎても意味はない。未来は不確定だ。一点ずつ問題を克服し、その都度挑戦と解決を繰り返すしかない。そうするしかないはずだ。きっとそうだろう。

 

一番の理想的な道程は、身近に親密な人が居てくれて、そこで心身の糧を獲得し、少しづつ活動の幅を広げることだ。そのなかで、適宜適切に学舎なりの選択や、自活の選択をしていけば良い。

外的な活動と、社会的な存続を確かにすること。それらを一斉に始められたのなら良い。

身近で親密な関係、刺激への耐性、社会的価値の獲得。これらの積み重ねを、今すぐにでも始めたい。自尊心を得て健康になり、日々を確かに感じられる作業に費やしたい。学ぶことや書くこと、それらによって存続を確かに感じたい。生きている実感を得たい。そう思う。

 

これからどうなることやら。

正しく前向きに生きることだ。本当にそうだ。その姿勢を失わず、苦闘し続けること。

それはこれからもだろう。

 

ここまで書いておいて、一体どう思われるやら。

また明日。

 

参考文献: