欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

フラストレーションの意味 本性を型どる可能性

最近の体調は悪くない。ただ、体重の増加には転じないというところ。それでも、消耗してしまうほどではなく、それなりの活動はできている。

以前はもっと運動することが出来ていた。その時の活動量は下回っているけれど、その下回った水準は維持出来ている。それくらいのエネルギーバランスだ。多少のエネルギーを生むような栄養状態。それが持続するような日々。

それを考えると、やはり以前はもっと食べられていたのだろう。それを改めて感じる。胃はそれなりに膨らんでいたし、それが苦になっていなかった。十分に自然な状態であったために、食事量の平均も高くなっていたのだろう。継続して日々満腹になっていた。

それだけでもかなりの活動量を生んでいたと思う。今思えばそうだろう。それがあったことにより、同時に欠乏も強く感じていたのだった。その時に得られるエネルギーは満ち、より高次の日々を求められるようになっていた。それが高次欲求の欠乏に繋がっていた。

欠乏欲求のフラストレーションは、相当強くあったのだろう。じりじりとした内的感覚を感じるまでになっていた。それは体調良好コンプレックスを顕在化させ、不調の種となったりした。

 

以前はわりと長時間の散歩をしていた。自分の体調と照らし合わせれば、かなりの距離を歩いていたと思う。三㎞前後だろうか、あるいはもっと歩いていたかもしれない。それだけの体力があった。その時には解らなかったけれど、それは結構な体力だった。そこまで発展したのであれば、それはかえって低次欲求の過剰満足に陥るだろう。

今はそれに及ばないけれど、多少は動けるくらいだ。短い距離の散歩は出来るし、内的に費やすことも出来る。今も後から振り返れば、十分な体力があったと思えるのだろう。

身体が傾かないのは、安全の満足があるからだ。その満足は、病気や衰弱を防ぐ。これがとても大切で、今はそれを得られている。

先月の今頃は、体調がどんどん傾いていた。それは通院日が近付いていたからだ。それまでの不調もあり、体調コンプレックスが顕在化してしまった。抑圧に陥ったのだった。それは通院日にかけてピークを迎え、やがて鎮まっていったのだけれど、かなりの打撃となった。体調不良コンプレックスが、じりじりと消耗する身体の感覚と重なっていた。

病的に無理をしてしまい、更に身体の状態は悪くなっていった。負の領域に落ち込み、余裕を失っていた。それは安全が失われたからだろう。通院日にかけて不安が募り、何とかして踏ん張ろうとしていた。そのなかで更に身体は落ち込み、体調を維持したいという気持ちとはかけ離れてしまった。安心の欠如だった。

 

間もなく次の通院日を迎える。今日は金曜日で、それは月曜日だ。

先月と同じ曜日の流れがある。金曜日のテレビ番組を見て、ちょうど先月の事を思い出していた。月曜日にかけての体調と、食事で感じる明らかな不調。ちょうど先月は、身体の落ち込みの淵に居た。かなり難しい経過をしていた。

それに対して今月は、それなりの水準でいられている。今月の経過はそれなりだ。先月の水準からは少し底上げされ、活動量も戻っている。栄養状態もいくばくかは良くなっている。このままの状態で推移すれば、通院日の行程で衰弱することはなくなりそうだ。

先月の通院はかなりきつく、消耗に近い状態だった。診察から買い物までの間、体力が全く足りなかった。それは日頃の栄養状態によるものだろう。それなりの体力があれば、多少は空腹になっても耐えられる。ただ、先月はそれがなかったし、何より朝食もあまり食べられなかった。

 

病院にそこまでのストレッサーはない。ただ、あるとすれば、体調コンプレックスと反応してしまう要素次第だ。それは個人的な範疇にあるもので、外的にはほとんどないだろう。あるのは内的な感覚で、それは外側のものによって触発される。

現在通っている病院では、自尊心を傷つけられるような場面はない。それは確かだ。体調さえ良ければ、全く苦にならずに終えることができる。

問題なのは、主にその体調が悪い時だ。過去の痛手と重なるような感覚を持っている時。自尊心にまつわる体調コンプレックスが働き、安心を阻害してしまう場合がある。それがあれば、不安神経症に陥ってしまう。

自己の存在や自尊心、正常な精神の均衡を保つためには、良い体調を得るということが欠かせない。少なくとも、今はそうなのだ。そう思ってしまっている。欠乏欲求に支配され、病的に神経を高ぶらせてしまう内はそうだ。

そのネックに足をとられた場合、極端にセンシティブになってしまったり、酷い緊張状態に陥ってしまうことがある。

 

今月は、通院日にかけての意識があまりない。そこまで意識せずに過ごしている。

それは恐らく、安心安全があるからだろう。それがそれなりの体力をもたらしているし、精神のバランスを整える材料にもなっている。

一つの欠乏欲求の満足は、心身に良い効果をもたらす。今月の経過はそのような原因があるのだろう。そう思っている。

このままの栄養状態が続けば、空腹時の持久力に繋がりそうだ。それはまだ未知数だけれど、先月よりはまともになるだろう。

 

その確かな感触があれば、通院日後に身体が上向きそうだ。より強く安全を感じられるかもしれない。

日頃の安全の有無は、当日の朝の体調で示される。それが一つの指標になる。常日頃と同じ感触があったのなら、十分な満足が得られている証になるだろう。それは朝食の具合によっても反映される。いつもと大方が近ければ、それは普段の調子の賜物だ。

日頃の状態によって左右されるのだろう。出発から帰宅までの持久力があれば良い。それは気持ち良い帰路をもたらすのだろう。

 

病院までの体調と、当日の具合。楽観しつつあるけれど、どうなっていくのだろう。まだ分からない。今後の局面を左右する日になりそうだ。そんな気がしてくる。日々の新たな潮目になるかもしれない。

それなりの体調ではあっても、体重は増えていない。今の活動量におけるエネルギーは得ているのだろう。でも、それでしかない。より活動的にはなれないし、ほとんど肥えることはない。最低限の活動水準を維持できる程度だ。それに余裕はない。もっと上限を底上げする必要がある。

まずもう一段階だ。欲を言えば、更にもう一段底上げしたい。一キロ増と、ニ・三キロ増がある。一キロで最低限の水準となり、ニ・三キロあればより活動的になれるのだろう。個人的な領域であれば、それで十分だろう。

本当は十キロ以上必要でも、それは至高の理想だ。自分はマラソン選手のような身体だと思えば良い。例外的な身体性に当てはまるかもしれない。

そう考えれば、かれこれ十年近く、延々と精神的なマラソンをしているようなものだ。そう思ってしまえば良い。よく倒れずに走り続けているくらいだ。そのように体調も変化しているだろう。

 

調子が悪ければ、ご飯一膳とおかずだけで満腹になってしまう。それは明らかに問題だ。栄養失調の域に入る。それほどであるのならば、何かの不自由があるのだろう。何か病的な状態に陥っている。

それを脱したいところだ。最低限のそれなりの量は食べていたい。あと10パーセント以上は食べられなければならない。それが最低限の上限だ。そこへ達する必要がある。必要最低限の量へは達していない。体力にも影響が出るし、何かあった時の余裕を持つ必要もある。

 

大切なのは、お腹を空かせること。そのためには、胃袋の状態を悪くさせないこと。ただ、どうにもそれが難しい。

日々を過ごすなかで、至るところで抑圧が起こってしまう。あらゆる要素により、体調コンプレックスが発現してしまう。すぐにフラストレーションは溜まり、神経が高ぶってしまうのだ。それは身体を負の領域へ押し下げる。そうなってしまえば、よりストレスが溜まり、また神経が高ぶる。満足の水準がどんどん下がってしまう。

この状況を脱しようとする働きが、体調コンプレックスによる無理のしすぎだ。身体の声を無視し、頑張って食べすぎてしまう。

それは自尊心を取り戻そうとする働きでもある。

成り得る自己がある。その可能性があり、成るべき状態がある。きっとそうなのだろう。そこから背くことはできない。自己を洞察し、可能性を活かすしかないのだ。育むべき弱点を強化し、それを経て使うべきエネルギーを用いること。その工程をやり抜く必要がある。そうなのだろう。マズローユングはそう記していた。

 

マズローの定義によれば、「欲求」という言葉は、"満足が阻まれている状態"を呼ぶそうだ。

その欲求というのは、必ず満たすべきものなのだろう。さもなければ、早晩病気になってしまう。それらの欠乏が取り除かれた時は、病気は消失する。

それらは満たすべきであるし、努力をすれば満たされるものなのだろう。あるいは、それは満たすことが出来ると解っているものだ。その欲求をもたらす本性に背けば、人は真っ直ぐ生きることが出来なくなる。

それにしっかり向き合い、在るべき自己へと成りに辿るしかない。そのフラストレーションは満たされるべきであるし、満たすことが出来るものだろう。

理屈の上ではそう思える。どう頑張っても満たせないような事柄は、フラストレーションとなるのだろうか。そんなことがあるのだろうか?可能性がないのであれば、フラストレーションなど生まれないはずだ。フラストレーションが発生するということは、何かの可能性があるということだろう。その可能性を活かすしかないのだ。さもなければ、すぐに病気や不適応を引き起こす。

人は、自分の本性に忠実にならなければならないそう。存分に自分自身である必要がある。その人に備わるエネルギーを用いることが出来なければ、その人の弱点が矢面に立つ。それは主機能を支えようとする働きなのだ。主機能を用いらなければならないのだ。

自分の本性に倣うように、その型を埋めるエネルギーを使わなければならない。それは劣等機能を使うことであるし、欠乏を埋めることでもある。

個性化を果たし、自己実現をすることだ。その道程から外れることは、ある種許されないのだろう。それは天罰にも思えるし、運命にも思える。

 

それら全てに従うしかない。それは歩みを束縛するものではなく、逆に自分を解放させるものなのだと思う。歩むべき道のりを歩むことは、幸福をもたらすのだろう。それが全てを解放させ、幸福へと導くのであれば、そう思って努力すれば良い。そう思う。

 

あなたのストレス、フラストレーションは何ですか?何かがありますか?あなたの可能性は何でしょうか?

病院が迫る。

 

また明日。