欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

安泰な生存の基盤 高次のフラストレーションの満足

昨日は通院日だった。どしゃ降りに起こされた夜は明け、早朝には目が覚めていた。いつもの起床時間よりも早く、それに加えて目覚めも良かった。そこからすんなり身体を起こし、身支度を整える。

最近の通院日の朝はこうだ。いつもとは明確に体内時計が変わっている。「意識は身体を真似る」とアーロン博士は記していたけれど、そういったこともあるのかもしれない。

ただ、そこまでの緊張はなかった。身体の状態もさほど悪くなく、起きてから朝食までの空腹時には、そこまで辛さを感じなかった。それは日頃の栄養状態が良かったからだろう。それでも絶好調ではないけれど、多少の余裕を得るには至っていた。

胃袋の状態も良かった。良い状態で朝食を摂ることが出来た。お腹は少し空いていて、気分も悪くなかった。するすると気持ち良く食べられ、予定よりも少し多く食べることが出来た。かなり状態は良かったと思う。

全体的に振り返れば、かなり調子の良い日だった。それまでの栄養状態もそれなりで、当日の具合も良かった。直近の日々の水準で言えば、十分な体力のある日だった。それは運が良く、行き帰りの道中でも辛くならなかった。先月とは大きな差があった。

 

診察も滞りなく終わった。数人の診察を待ち、少し固くなった身体で診察室へ向かう。

最近のそれなりの経過を話した。まず最初に、「それなりだ」ということを伝える。その事をその言葉で表現する。多少の含みを持たせる言葉になったのは、先月の診察で体調を正直に打ち明けられなかったからだ。

それは自分のせいだ。ここにも記せないような切っ掛けがあり、それにつまずいて悪循環にはまっていた。先月はその事をはっきりと伝えられなかったのだ。体調コンプレックスや病院コンプレックスはあれど、それは好ましくはなかったと思う。体調の流れは全て共有した方が良い。後になってつじつまが合わなくなることがあるからだ。

それらを含めてそれなりと言った。その後の質問で探りは入ったけれど、ドクターは詳しいことを知らない。

「それなりに良い方」とはどんな過ごし方か、という質問に色々なことが浮かぶ。多少どぎまぎしてしまう。正直にならなかった歪みがもう表れた。ドクターとの視線を逸らし、顎を上げてあさっての方向をきょろきょろする。自分は拳を両膝に付き、猫背になって肩を吊り上げている。

人と視線を合わせることは、とても刺激が多い。以前通っていた病院では、頑なに目を合わせようとしないと病的に思われていた。それが誤診に繋がったのだけれど、それは病院なのだから仕方がない。ドクターへの反抗でもあった。関係性が悪かったのだった。刺激でもあったし、そのドクターに良い印象はなかった。

それなりに良い過ごし方について、「散歩をし、勉強などで内的に費やしている」と伝えた。それが現実であり、それが個人的な日々におけるそれなりだ。恥ずかしくなりながらそう答える。

ドクターの反応は覚えていない。その後の質問では、「例えば具体的に何を勉強しているのか」と尋ねられ、「マズローの原典を取り寄せている」と答えた。そう言うと、「それ程の本を読めるのであれば、十分ですね」と言われる。

マズローよ、一件落着である。あなたと出会ったことにより、診察がそれなりに終了しました。

本当は、ウイルスのワクチンについても尋ねたかったけれど、先月の不正直さが仇となり、尋ねられずに終了する。

それは大きな悔いとなった。果たしてこの身体は、異物を吸収できるのだろうか。きれいさっぱり出しきったように、はにかみながら診察室を後にする。このような関係性で良いのだろうか。

帰宅までに寄り道もしたけれど、平穏でいられた。体力はあり、辛くはならなかった。やはり先月とは違い、一段か二段は状態が上がっていた。

 

久しぶりに本屋へ行った。以前にも記したけれど、本屋には思い入れもあるし、何せ楽しい。それが思い出となれば、それに様々な情緒も色付けされる。

今は夏。夏の本屋ではフェアが催される。じりじりと暑い日和のなか、薄い見ごろもをまとって扉を開ける。静寂に包まれているそこは、よく冷えた空気に包まれている。日常では感じられないような感触がある。言うなれば、世界が変わる。少なくとも空気感が違う。とても新鮮で美しい場所だ。

隠とん的で刺激のない日々を送れば、こういった感度にもなる。人と目を合わせられず、挙動がおかしくなったとしても、こういった新鮮な気持ちを持つことが出来る。そのような利点はあるのかもしれない。季節の風情と共に、こういった場所にも喜びがある。

入ってすぐの場所には、夏のフェアの文庫本が並んでいた。アニメ風の表紙が並んでいたり、渋い装丁の古典が並んでいたりする。それぞれの出版社に特徴があり、それを楽しむことが出来る。見るだけでも気持ちが奮う。体調が万全であったのなら、より至高の瞬間になっただろう。もっと良い心持ちでいられたと思う。

今はマズローの原典を読んでいるため、小説は後回しになっている。自分が読みたい文章というのは、自分の救いになるような文だ。健康を得るための洞察を与えてくれたり、自分に才能があると後押ししてくれるような文を読みたい。今は勉強が大切だ。

いつか余裕が生まれたら読もう。生きていれば時は来る。季節も変わらずやって来る。どれくらい生きられるかは解らずとも、その時その時を生きることだ。そうやって過ごしていけば、自ずと在りたい日々にも繋がるだろう。未来は不確定だ。良くも悪くもそうだけれど、目の前の一日を積み重ねることだ。きっとそうだろう。

夏の盛りの手前の日。些細な取り留めのない日が過ぎた。

マズローの原典は、確かに難しい。それだけの本を読むということは、体力や集中力が求められる。そうなると、一日にその時間を確保できるのであれば、まさにそれなりの体力は得られているのだろう。

その事は、ドクターの言葉によって気付かされた。いや、自分でも内心感じていたと思う。以前の感覚と比較をしていた。

状態が悪い時には、良かった時を振り返る。その良い時は、必要最低限の体力があったのだと感じられる。かなり痩せてはいるものの、調子が良ければそれなりの活動量にはなる。極度に食べられない状態を脱すれば、それで最低限のエネルギーは満ちる

そういった認識も持っていたけれど、どうにも意識下に押し込んでいた節がある。その代わりに意識に上がっていたのは、体調コンプレックスだ。自尊心にまつわる体調コンプレックス。それが意識を左右し、様々な不自由をもたらしている。

それなりの体調を得られたとしても、それだけで満足は得られないのだ。刺激追求性によって、静養しているだけでは全快しないということもある。それに加えて、体調コンプレックスが影響を与えている部分も大きい。"体調がもっと良くならなければいけない"と思ってしまうのだ。

かつての体調が悪かった時、自分は嫌なことに見舞われた。大人達と上手くいかなかったり、入院させられたりもした。誤解や誤診、大人達の限界、それらに振り回されていた。もちろん、すべては自分のせいだったのだろう。自分の力で強く生きなければならなかった。

でも、自分について全く解らなかった。解るはずがなかった。敏感さについての理解など、一人で得られるはずなどなかった。それは回りも同じで、タフな人ばかりが周囲に溢れていたのだった。両親、教師、ドクターに看護師。

内的に日々を過ごしても、本当の満足は得られないのだろう。今がまさにそうだ。フラストレーションは溜まり続け、身体は由々しき状態に陥っている。そのなかで、同じ不調ばかりを繰り返してしまう。何度も何度も繰り返し、同じ痛みばかりを味わっている。

ある程度の体力を得られたのなら、それで満足を得られはしないだろうか。そう思っている。それなりの体力を得ていると感じているけれど、未だ体調コンプレックスは顔を出してくる。

それは体調良好コンプレックスだろう。それがありつつも、周囲の感情によって病的に無理をすることはなくなっている。

 

もっと豊かに生きたいという気持ちがある。それがとても強い。その目標へ向かうには、心のケアをすることだ。でも、それが難しい。それを施すことが出来ない時、自分は平穏でいられなくなる。そうこうしていると、フラストレーションが生まれて神経が高ぶってしまうのだ。それによって身体の状態が落ち込み、また在りたい日々から遠ざかる。

すると、今度は自尊心コンプレックスが現れてくる。

「体調が悪ければ良くないことが起こる」

そう身体は認識している。神経を高ぶらせずにするためには、体力を得るしかない。そうやって無理をしてしまうのだ。

体力が少し得られたとすれば、それは安全の欲求の満足になる。それが磐石になれば安泰だけれど、やがてより高次の欲求が湧いてくる。今度はその欲求を満たすべきで、それが本質的な養生に繋がるけれど、それをすることが出来ない。それが今のネックだ。常に神経が高ぶらせてしまう。

 

病院を終えて安心を得ても、その後の食事で多少無理をしていた。それがある。今の状態を考えれば、まだ安全の満足が足りていないのかもしれない。そう考えると、所属と愛の欲求がそこまで感じられないこととつじつまが合う。まだその段階にいるのかもしれない。

今ある欲求は、他者から承認されたいというものだ。その事を強く思う。それは何故だろうか。社会的に認められたいという気持ちが強い。

例えば、ソーシャルメディアを持って発信したいということだ。学舎で成長するよりも、市場などで成長したい。そう思いつつある。誰かとの繋がりよりも、実践の場で成長したい。そう思いつつある。

内的に日常を費やし、そうやって生きていたい。そう考えたりもしている。そうやって自活をし、多少なりとも欠乏を満たせたら良い。勉強をし、ブログを書く。発信をし、試行錯誤を続ける。その成果が得られたのなら、日々の存続の材料になるだろう。そうやって自尊心を満たしてしえたらいいと思っている。

 

安全が足りず、体調不良コンプレックスが発現されるか、それなりの好調により、体調良好コンプレックスが発現されるか、そのどちらかだ。満足の有無によって、それらの分かれ道がやって来る。同じことを繰り返してしまうか、今の日々でも何かに務め、存続を確かにすることが出来るか、一体どうなるのだろう。

 

このまま少しづつ体力を得て、そのなかでソーシャルメディアを使って発信が出来たら良い。低次の満足を得つつ、成り得る自分になること。その高次の満足を得られたら、自尊心を得られるかもしれない。一挙にそれが得られたのなら、フラストレーションも溜まらないと思うし、神経が高ぶることもないだろう。そんなことを思う。

そういった見込みを持っているけれど、どうなるだろう。

 

ある程度の基礎的な体力はほしい。それはある。体調コンプレックスの呪縛を抜きにしても、それは確保していたい。その余裕は必要だろう。

ぶらぶらと散歩へ出られたり、自転車で街に出掛けられる体力は得ていたい。それがあれば、最低限の自立にも繋がる。何かの満足を糧に、必要最低限の体力を得られたら良い。

 

ただ、通院が終わってからの数食で、早速抑圧をしてしまっている。体重を底上げしようとし、頑張って食べてしまったのだ。それは胃袋の負債となってしまっている。それが現実のところだ。

体調コンプレックスが収まることはないのだろうか。

「誰にも責められずに済む」

そう思えるような日々を得なければならない。体調が伴わないことは、成り得る自分に反している。そう思ってしまうのだ。

欠乏を満たすことだ。

しばらくはこのままの状態が続きそうだ。体重の確保による安全は、まだ少し足りていない。それが得られない間は、体調不良コンプレックスが発現されるのだろう。仮に十分な安心が得られたとしても、体調良好コンプレックスがある。それに高次の欲求も現れるだろう。その欲求を満たすことは容易くない。現実的な可能性では、バーチャルにそれを求めるしかないのだ。

 

いつになったら解放されるのだろう。今の日々であっても、それなりの体力はある。振り返ったとすればそう思えるのだろう。でも、高次の基本欲求は湧かない。それがある。それは何を意味するのだろう。向後一切その欲求は湧かないのだろうか?時の運で安心が得られたのなら、また欠乏感に悩まさせるのか?

内的に費やすこと以外の興味は薄れている。そうなれば、後は社会的な成功を得れば良いのか?

 

いや、体調コンプレックスは有り続けるだろう。それに、この体力では自立へ程遠い。更に加えると、今の状態は健康でないとすれば、信じるに値する衝動を持っているのだろうか?衝動を信じるのには、健康であることが大切だ。

それとも、自尊心にまつわる体調コンプレックスがあるのは、この衝動を信じていないからなのか?それ実行に移し、やがて満たされたとすれば、成り得る自分の自尊心を獲得することに繋がるのか?そうなれば、欠乏症状は癒え、在るべき日々へと近付くのだろうか?

 

容易く行動には移せないだろう。

当分は見立て通りに進みそうだ。変わらずに誤りを繰り返すこと。

そして日々は続く。

 

また明日。

 

参考文献: