欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

豊かな活動と健康 満足の随伴現象

住んでいる地域の梅雨は明け、辺り一面は夏一色となった。それを捉える身体の感触も変わってくる。太陽の強さ、光、風、直近の日々ですっかり様変わりし、短かった雨の季節は通り過ぎた。梅雨前の暑さを一段超え、真夏に近いような日和となっている。季節の濃淡はあまりなく、いきなり夏へと変わってしまった。

明日は猛暑日まで達する予報だ。天気予報の太陽のマークは、濃い赤から黄金色のような色へと変わっていた。それがぎらぎらと小刻みに揺れ、メッセージとなっている。もう酷暑である。

実家である我が家には、エアコンがない。現代ではその有無によって致命的にすらなる。快適にいられるのは早朝くらいだ。日が昇るとすぐに熱気がこもり、午後の二階はとても過ごすことが出来ない。このブログを記すのは、いつもその時間だ。

今はいつもの机の前を離れ、祖母宅のエアコンのある部屋にいる。午後の暑い時間のみ、ここへ避暑に来る。そこでこのように記している。そこで半日に満たない時間を過ごす。

一番暑い時間帯は過ぎるけれど、ここで一日を過ごすことは出来ない。西日が差す頃には、暑い家へと戻る。より暑くなる家へと舞い戻る。そして寝苦しい夜がやって来る。

 

現代は特に暑いのだろうか。そんなことを思う。過去を振り返って確かめられたら良い。

夏は猛暑になり、冬は大量の雪が降る。梅雨はほとんどなくなり、季節の境目が薄れつつある。

人の倫理や技術が追い付かなければ、二十二世紀の地球は人が住めなくなりそう。地球史上一番暑いのではないのだろうか。人のせいでそうなっているとすれば、どうなってしまうのだろう。地球の限界に人の知恵が間に合わなければ、人類は存続出来なくなるかもしれない。

地球のがん細胞が地球を殺してしまうか、あるいは外的に浄化されてしまうか、そのどちらかしかないのだろうか。人間はもう、自然界の一部ではないのだろう。

恨めしい天気予報の並びと、打撃を受ける弱者たち。冷房がない家もあるのです。

体調はそれなりに推移している。そう思えるのであれば、個人的には十分なエネルギーを得ているのだろう。それに余裕はなくても、身体が傾いた後に振り返ればそう思える。それは今であってもそうだろう。日常に支障が出るほどではなく、辛いことはない。

体重も変わらず推移している。数字は落ちていないけれど、かといって増えてもいない。そのような塩梅だ。微妙な流れがある。よく食べられた感触の日に増えていなかったり、減っていないことに安堵したりする日がある。そのなかで、今の活動量を賄えるエネルギーは得ているのだろう。

 

負の領域を生きていることから考えれば、最低限の水準を維持することは出来ている。それが個人的に十分な水準となり、"それなり"という表現に繋がる。

一般的な感覚で言えば、朝食時の身体の状態が続いているような日々だ。タフな人であっても、よほどでなければ朝から大飯は食べられないだろう。その状態が常に続いているようなものだ。胃袋の限界点がそれになる。それは日頃のストレスによるもの。

自分は静養しても元気にはなれない人間だ。刺激に脆い部分や、常に刺激を求めたくなる部分がネックとなっている。

それがあることにより、常に病的な状態に陥りやすい。様々な抑圧によって無理をしすぎてしまう。すると、身体の状態は更に悪くなる。一般的な状態よりも、一段二段と傾いてしまう。それがかなりの痩身を生んでいる。

 

より余裕を持つためには、ストレスを減らすしかないのだろう。それは明白で、捉え直しによっても解っている。ストレスを減らすか、あるいはそれと同じくして満足を得るか。満足を得てストレスを解消すること。

肥えたいのならば、抜本から変えるしかない。そのためには、身体の病理について学ぶことだ。

それはかれこれ完成しつつある。大方の不自由については詳細を掴んでいる。マニュアルは完成したのだ。あとはそれに従いながら、行うべきことを行うこと。マニュアルの完成と同じくして、カリキュラムも完成している。やるべきことも解っているのだ。それをやりきること。

 

一番調子の良かった頃と比べると、五百グラム程度は痩せている。それによって、多少の体力の低下がある。内的に費やすには十分であっても、運動量は減っている。そう考えると、以前はかなりの距離を散歩していた。それは相当な体力があったと思える。それが余裕となっていた。

個人的な体重の比重で言えば、五百グラムでもかなりの差となる。体力は落ちるし、余裕もよりなくなる。次に不調の波が来てしまえば、もうひとたまりもない。その不安が大きい。

以前に運動量が多かったのは、運動量を意識していた面が大きい。日々歩くことに務めていて、それによって少しづつ歩けるようになっていった。そこから食事量や体調も上向いたのだった。自然な活動量に呼応し、身体の調子も整っていたのだろう。

アーロン博士いわく、「身体は動けば動くほど楽になる」らしい。その事を意識していて、それが功を奏したのだろう。調子が良かった時は、そのような理由があったのだと思う。

それは春から初夏にかけての頃だった。時季も良かったのだろう。自然と身体を動かし、気持ち良く過ごすことが出来ていた。それが安全欲求のの過剰満足にもなるくらいで、より高次の欲求が湧いていた。十分な安心の確保が出来ていたと思う。

 

内的に費やす分のエネルギーは得ていると思う。体重が落ちないということは、そのように捉えられる。

今は運動量が少ない。季節もあり、大方は終日じっと過ごすしかない。

その事は、体重の考察と重なる。運動量や活動量に応じたエネルギーしか処理できないのだろう。

より豊かな活動をしたとすれば、それは同時に満足ももたらすはずだ。それによってストレスは減るだろう。そうなれば、食事量も増える。それを結果的に見れば、活動量と比例しているように捉えられる。

今の日々では多少の安心があり、多少の満足もあるのだろう。それが最低限の体調を維持している。十分な満足を得られずとも、体調が悪くなるほどの不満や不安はない。恐らくはそのような状態なのだろう。

今の日々であっても、それなりの体力はある。だとすれば、そのなかで工夫をすることだ。高次の満足を得ること。豊かな活動をすることだ。それが重要で、それに随伴してくるのが健康なのだろう。きっとそうだ。そうなのだと思う。確かな満足を得れば、それが日々の豊かさに繋がる。

何かの満足さえあれば、それで日々を繋ぎ止めることが出来る。

最近は悪い夢を見ず、歯ぎしりもほとんどなくなっている。生命が脅かされるような不安はなくなりつつあるのだろう。

ただ、身体が上向かないことについての意識は根強い。それが少し抑圧を生んだりする。大きなつまずきにはならずとも、不満がある内はそれが有り続けるだろう。

 

直近の日々においては、あまりフラストレーションがない。あまり高次の意欲が湧かないのだ。それは所属と愛の欲求だ。以前は安全の十分な満足により、それらが強く頭にあったのだった。

それは身体が傾いたことで得られたものなのか、あるいは本を読んだからなのか、それはよく解らない。

それに加えて、やりたいこともあまりない。本屋へ積極的に行きたいわけでもなく、友達や恋人もあまりほしくはない。刺激や自然を強く求めてはいない。

それはどういうことだろう。体重の増加がないことで、安全が確保されていないのだろうか。だとすれば、高次の欲求はあまり湧かないはずだ。そういった負の理由があるのだろうか。

 

今の日々でやりたいことは、ソーシャルメディアで発信したいということ。社会的に尊重されたいし、そうやって成長したい。そのように自尊心を満たしてしまいたい。そう思っている。

その気持ちがあるなかで、自尊心コンプレックスが発現したりする。まだ自尊心を保つ要素がないために、何とか自己の存続を保とうと努力してしまう。それは食事などの無理のしすぎとして現れる。

"身体さえ整っていれば、やりたいことも満足でき、誰からも責められることはない"そう思ってしまう。

 

習慣による無理のしすぎも、自尊心コンプレックスによるものだ。誰にも責められないように、満足のいく日々を送ることが出来るように、擬似的に無理をしすぎてしまう。

ただ、それは最近になって和らぎつつある。習慣を設定してしまいがちであっても、それによって苦しむことは少なくなりつつある。

主に内的に費やしていて、それはあまり苦ではない。それが性に合うことだと思っているし、そのサイクルが確固たるものになりつつある。本を読み、内省し、それを一つにまとめる。この作業は好きだし、欠乏を十分に満たしたとしても行うようなものだと思う。

 

やはり、ソーシャルメディアで発信したい。それによって日々の満足に繋がれば、体調を気にせずに過ごせるかもしれない。

バーチャルな活動によって存在を確かに感じられたのなら、自尊心コンプレックスが現れないかもしれない。豊かな生活を確かに送っていると思えたら、それで満足がいくだろう。それによって、おのずと健康が伴ってくるかもしれない。

内的に費やしながら発信し、体調について気楽に考えられたのなら、それは好調に繋がるかもしれない。そんな気がしてくる。

それはどうなのだろう。今だ決心がつかない。はてなソーシャルメディアの一部であっても、あまり人は多くない。そう感じている。自分の努力や工夫の有無はあるけれど、人通りが少ないと思う。市場性の高いプラットフォームというのは、概して交流が盛んに行われる。

これから変遷はあるだろうけれど、どうなっていくのだろう。それが気になるところだ。

ソーシャルメディアでの発信と、内的なサイクル。それに運動が加わったのなら最良だ。そうやって身体が上向き、社会的な成果を得られたのなら、成り得る自分に繋がっていくだろう。そうなれば、満足のある日々になりそうだ。

 

体調コンプレックスと周囲の感情が重なる無理のしすぎはない。それは病的さをもたらすけれど、それがないのは好材料だ。それは安全をもたらす。それが得られたのなら、後は何かの行動をするしかない。

正の領域へと進む時。

 

また明日。

 

参考文献: