欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

負の領域の循環 情緒の噛み合い

じりじりと蝉が鳴き、真っ青な空からは目一杯に光が差している。一歩外に出てみれば、目が開かない程にまばゆい。風が吹いてくるのだけれど、蒸し風呂の中にいるような不快感がする。熱風と日差し。今日も暑い。

それでも、いくらかは楽に感じられる。段々と暑さに慣れてきたのだろうか。

それにしても、梅雨明け直後の猛暑は応えた。それも連日の暑さだった。平年よりも明らかに暑かった。それは異常と言えただろう。

気温は平年並みなのか、三十度と少しある。それでも、少し汗ばむ程度なら耐えられる。許容範囲が広くなってきた。

少しずつ、終日楽に過ごせるようになった気がする。暑さに対する不安というのも、あまり感じられなくなった。今はそう思っている。段々と意識からなくなっていると思う。あるのは依然として、体重の低下による不安だ。

体調は微妙な推移だ。悪くないと言えば悪くないけれど、はっきり良いとは言えない。実情的に体力はあると思う。主に内的に費やしていて、それをすることは出来る。

その内的な作業というのは、結構な重労働だったりする。それを考えれば、それなりの体力は確保しているのだろう。

でも、変わらず余裕がない。それに身体的な活動をすることは難しい。そのように費やすには、力の余剰が足りない。内的に費やすためのエネルギーしかない。積極的に運動することは出来ないだろう。暑さでその気は湧かないけれど、運動に費やせるほどの体力はない。ぎりぎのエネルギー収支がある。

余裕をとにかく持ちたい。その意識しかない。最近はもっぱらそうだ。体重の低下意識は強く、そこを何とか脱したいという気持ちが強い。

 

食事については、意識的に状態を整え、快く満腹になることを心掛けている。意識的に認識を持ち、食べられる量を厳密に管理すること。毎回食事量の限界を決め、それに沿ってゆっくりと頂く。胃の状態を傾かせないようにし、かつ可能なのであれば、一口か二口を余分に食べること。そうやって腹九分に収め、それを持続させること。

それを絶えず意識していたい。強い意志を持ってやりくりしたい。

 

でも、それはあっという間に崩れる。不意に例外的な事情は現れ、無理のしすぎが発動してしまう。

主に好調コンプレックスが働くからだ。良い体調が維持された場合、その後には好調への意識が頭をもたげる。好調の波に乗ろうとして、どうにも身体を上向かせようとしてしまう。努めて頑張ってしまうのだ。

日々のネックは、やはり食べすぎること。胃の持久力がないなかで食べすぎると、より状態が悪くなる。とたんに栄養状態が悪くなり、安全の欠乏にも繋がってしまう。これもまた足を引っ張るものだ。

これが慢性的に続いてしまう。至るところにネックはあり、それに足を取られる。身体は負の領域に落ち込み、些細な時の運によって揺れ動かされる。病人の一喜一憂を繰り返すのみだ。常に同じ轍を回り続けている。

 

好調・不調コンプレックスが働くのは、余裕のなさによるものだ。今はそれを求めている。その欠乏は、一体どの基本欲求に属するのだろう。

やはり安全の欠如によるのだろう。その満足を求めている。それよりも高次の欲求は、薄くしか湧かない。ひたすら体重の余裕を持ちたいと思っている。それは安全を得ようとする働きなのだろう。

でも、それを得るとしても、好調・不調コンプレックスが立ちはだかる。常に身体の感覚は付きまとい、気楽に考えられる時間はない。些細な不満というのは、日々の生活や自尊心に直結してしまうのだ。

 

余裕を持とうとする意識が駄目なのだろうか。今の内的な日々で満足がいけば、フラストレーションは溜まらずに済むかもしれない。そうなれば、体調コンプレックスが発現することもないだろう。そう思っている。

でも、やはり顕在化してしまう。本当の満足はないのだろう。

それでも、内的には十分費やせている。それが日々の中心にもなっている。これからそうやって過ごしたいと思っているし、それが一番楽なのだと思っている。

ただ、どうしても体調コンプレックスが顕在化してしまう。自分は好調というものを得て、それによってまた別の何かを手に入れようとしている。"体調さえ良ければ"と、常々思ってしまっている。

 

では、何の満足が必要なのだろう。健康があれば何を得たい?今は高次欲求のフラストレーションは浮かばない。それを満たそうとしてはいない。

とにかく余裕を持つことが出来れば、十分安心できるのだろう。その意識が強い。それは自己の存続を確かにする。その余裕があれば、自己を保てる。最低限の体力があれば、最低限の活動が出来るのだ。

どうしてもそうやって生きていたい。適度に活動したり、相応しく可能性を発揮したい。そうしなければ、早晩身体に由々しきことが起こる。そのメカニズムは解明している。敏感性と刺激追求性、フラストレーションと神経の高ぶり、劣等機能と主機能、欠乏と可能性。

一言でまとめれば、自尊心を満たしたいということだろう。そうやって在りたい日々へと繋げたいということ。それが正しい道筋だ。自尊心が得られたのなら、自ずと理想の日々へと繋がる。

今はそれを得るまでの流れが悪い。願う日々へ発展させなければならない。

今は体重の低下により、安全の満足が少なくなっている。それによって高次の基本欲求が湧かないのだ。

今は安全の欲求が顕在化している。そのなかで身体の調子が良い時には、所属や愛の欲求も浮かんでくる。欲求の満足が増すにつれ、一段上の欲求も少しずつ意識に上る。安全欲求が顕在化していれば、その満足につれて所属と愛の欲求が生まれる。確かに調子の良い瞬間は、対人的な欲求が湧く。

フラストレーションを晴らし、満足を得ること。それが欠乏症状を癒す。喜びの欠如を満たすことだ。

 

それを満たすとすれば、ソーシャルメディアで満たすくらいしか浮かばない。現実的な選択肢で言えば、それしかないのだろう。

自分は、健康な人とはめっきり違う。同年代とは遊ぶこともままならないだろう。もう何もかも世界は変わっているのだ。

バーチャル空間で満足が得られたのなら、少しは変わるかもしれない。でも、そう選択してはいない。それに結果は未知数だ。何も変わらない可能性は大きいだろう。

諸々の満足が得られない限り、フラストレーションが身体を蝕む。それは神経を高ぶらせ、ストレスとなる。次第に満足の水準が下がれば、今度は不調コンプレックスが発現される。すると満足の底上げをしようとし、無理をしてしまう。どんどん不調の深みにはまっていく。

現在感じている苦しみは、過去の痛手と似たような苦しみだ。苦しみの再現を防ごうとし、抑圧をしてしまう。誤った努力をして、何とか掻い潜ろうとしてしまうのだ。

満足が得られない内は、身体が負の領域へと下がる。それは時の運によって変動し、一喜一憂を繰り返す世界。

情緒的に悪く噛み合えば、とたんに身体は悪くなる。その逆もあり、情緒が良く噛み合えば、身体は良くなる。

 

余裕をとにかく得たい。少し前の良かった頃は、恐らくその情緒が噛み合っていたのだろう。それは胃の持久力があった時。それが崩れたのは、確かな満足がなくなったから。ふとした時に、強い不安感を覚えたのだった。それによって、満足の水準が一段下がってしまった。

調子が良かった時は、たまたま胃の持久力がついていたのだろう。それくらい持続して食べられていて、高次の強いフラストレーションが生まれつつも、そこから安全が阻害されることはなかった。それがあったのだろう。

そのなかで、今でも良くなる切っ掛けもある。負の領域における時の運だ。前回の通院日辺りがそうだった。それは確かにある。それがあるため、より深刻な水準へと落ち込むことはない。

ただ、良くなったとしてもすぐに悪くなってしまう。以前は高次のフラストレーションが湧いていて、それが好調コンプレックスを生んでいた。

 

確かな満足がない限り、絶えず負の領域に落ち込んでしまう。その世界で一喜一憂を繰り返し、中期的に良くなったり、悪くなったりする。その同じような循環を、ひたすら繰り返してしまうのだ。

そう認識を着地させれば、心は軽くなったりする。でも、延々と変わらず繰り返してしまうことを知ることになる。今の日々を続けていても、何も変わることはないのだ。

今の日々で求める満足は、自尊と尊敬の欲求だ。それを得たい。その意識が強い。

主に尊厳を得たいのだ。それは「誰にも責められたくない」という言葉にも置き換えられる。

基本欲求をすべて満たし、可能性を最大限発揮した豊かな日々を送りたい。自立自活をし、やりたいことをすべて叶え、成り得る最大限の自分になりたい。そう思っている。

それが満たされず、強いフラストレーションが生まれるために、神経が高ぶってしまうのだ。

文筆を日々の中心しても良いのだろうか。それが相応しいものなのか、釈然としない。それは欠乏欲求による擬似的な努力の可能性がある。それに励んだところで、何か成果が得られるのだろうか。そんなことを思ったりする。

今はもう、常に自分のペースで生きていたい。そのペースは、段々と形になりつつある。諸々の勉強というインプットをし、文筆でアウトプットすること。もうそれで埋まりつつある。

それ以外に何をすれば良いのだろう。恋人や友人との時間よりも、それに費やしていたい。そう思う。ついこの間までは、猫と過ごしたいと願っていた。でも、それも薄まりつつある。

それらすべては、孤独を癒してくれるだけの存在ではないだろう。そんな便利なものではないはずだ。ある種の取引もある。こちらは何も提供できないのだ。一般的で俗なことを、自分は何一つ行えない。家族と食事をすることだって辛いのだ。その程度の人間は、誰かと過ごすことなど出来るのか?

これまた以前は、フリースクールデイケアへ通おうかと思っていた。でも、その気も薄れている。ソーシャルメディアで発信し、社会的な存続を確かにしたい。そうやって最低限の収入を得て、小さな人生を完結させてしまえたら良い。そんな理想がある。

成り得る最大限の自分になりたい。体調を得られたのなら何がしたい?

心穏やかに生きたい。季節を楽しみたい。内的に費やしたい。社会的存続を感じたい。

それなりの自立で良い。身の丈にあった生活さえ出来れば良い。

それなりの体力を得て、内的に費やし、ソーシャル市場で成長すること。そうやって価値を高め、成長したい。それに全てを割く日常でありたい。そんなことを思いつつある。

今の日々でも何らかの満足を得ること。それによって自尊心コンプレックスを潜在化させること。本当の満足を得て、欲求がすべて満たされたのなら、成り得る自分の本性に忠実でいられたのなら、それは欠乏症状を癒す。

 

自分は将来、どのような生活をしているのだろう。健康であるのならば、何を喜ばしく感じているのだろう。何に献身をしているのだろう。それが気になる。

延々と体調不良を繰り返すか、あるいはソーシャルメディアで活動し、自活をしながら欠乏の満たされた日々を送っているのか、今はその二つが浮かぶ。

先が全く読めない。でも、読めないからこそ色々と励んでいる。

今のすべては、未来の日々に繋がっているだろう。既に繋がっている。少なくとも、今より変化のある未来はやってくるだろう。そう思う。

 

苦境を抜けたい。

また明日。

 

参考文献: