欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

負の病態の認識 日常の規模と水準

「絶不調」と表現するには余裕がなかった。前回にブログを書いた時から、少し間が空いている。直近の日々で調子が一転していた。今になって身体は落ち着いているけれど、まだまだ本調子へは遠い状態だ。それでも、こうやって文を記すまでの余力は得ている。

余裕がないという焦燥感によって、かなりの負債を抱えるまでに至ってしまった。好調の感触を感じ、すぐさま無理をしてしまっていた。徐々に胃袋を伸縮させようと意識していたけれど、それにも関わらず、無理に食べすぎてしまったのだった。

こればかりは病的だった。これだから自分は病人なのだろう。ただ不自由があるだけではなく、歴とした病根がある。一般的な人は陥らないような状態に陥っている。

色々な要素が重なっていた。体重の低下意識、暑さの不安、深すぎる考察。苦境を抜け出せるような要素がないと解っていたために、それも加わって努めて踏ん張ってしまった。

好調を挽回しようとし、大飯を食らおうとしてしまった。それを食べきれる調子がたたり、苦しい満腹感に襲われる。あまりにいつもと違う感触があり、パニックになってしまった。それに耐えきれず、咳をするようにえづいた。それで戻すことがなかったのは、パニックによる不安感が吐き気のほとんどだったからだろう。

その日から明けて数日、まだ不調が続いている。今もそうだ。ただ、ある程度は回復していて、それによって安心は得ていると思う。でも、胃袋は小さくなってしまった。腹の肉もえぐれている。こればかりはすぐに良くならないだろう。中期的な流れを考えて過ごさないといけない。

 

これまでの経験を振り返れば、入院する程の落ち込みだったかもしれない。かつての入院した時の感触を思い出していた。

入院したところで、結局は胃が落ち着くまで静養するしかない。けれども、かつては点滴を長期的に打つために入院していた。栄養失調は命に関わることもあると告げられていたし、その影響も強くあった。そのなかでも、四回入院したうち、二回はパニックが原因で憔悴してしまった。

結局は、水分を摂りながら絶食するしかない。そうやって胃を生理的に回復させ、そこから徐々に食べていくしかない。今までの復調の本質は、いずれもそうだった。

今もそうやって良くしていくしかない。結果的にはいつか良くなる。その道しかない。それを思い、その流れに身を任せるしかない。

 

気楽に考えられなかったことが原因だっただろう。その事は、今までの考察で解っている。気楽に構え、身体の声に耳を傾けるしかない。それが普通で、自分のようにならない人はそうしているのだ。その基礎がある。それが快適な食生活を生んでいる。

気楽に考えられないことが原因であっても、そう考えられないのだから仕方ない。それが自分の病気なのだ。それが病態だ。そう考えれば、自分におけるある種の自然ではある。病を根治させられないうちは、そのような状態になってしまうのだ。それは抗いようがなく、それに飲み込まれることも仕方ない。

 

深く考察しすぎた節もある。それによって、悪化していく末路を想像できていた。それがまた無理のしすぎを助長した面もある。そこを掻い潜ろうとしてしまった。状態を厳密に考えられている分、悪影響をもたらした部分はあっただろう。

それでも、それは必要だったと思える。ストイックさを加速させたとはいえ、病理を理解することは大切だ。悪化していく経過が見えてしまったけれど、良くなっていく経過も知ることが出来たのだ。

欠乏が満たされないうちは、欠乏症に支配される。それは仕方のないことだ。根治されていないのだし、最近は不調と重なる要素がたくさんあった。

ただ、快方へ向かうための経過も学んでいたために、それが意識を変えた。極度に深刻に考えすぎていれば、かつてのように病院へ運ばれていただろう。深くフィードバックする意味はあったのだ。

やはり運動の有無は大きい。春頃に調子が上向いていたのは、日々継続して散歩に出ていたからだろう。それがストレスを低減させていた。過去の記事にもそうやって記していた。

運動をしっかりし、日の光を浴びて、心身を整えること。それは重要な体調管理になる。

最近は、強い日が陰る時間もあるだけに、身体の不調が悔やまれる。調子の悪い時に限って、その運動をするのに好ましい日和となる皮肉。どうにもそうやって捉えてしまう。

今月は自分の誕生日があった。そのちょうど節目の日付で、不調に見舞われてしまった。これも何の因果でこうなったのだろう。もう不調に陥らないだろうと思っていた時もあった。でも、それは簡単に覆った。未だ病気は消え去っていないのだ。その事を痛感させられた。

十代が終わるという節目の頃ではあった。個人的にはそのような意識を持っていた。子供から大人へ、大きな変換点になっていると思う。

このような大人の日々になるとは思っていなかった。いや、中身は大人になっていない。何年も変わらないままだ。何も伴っていない。成熟というものがない。自分は世界と隔絶されたままだ。同年代の人間が、どのような生態をしているかすら解らない。そもそも見たことすらない。社会との接点は、何年も失ったままだ。

 

社会の約束事が迫っている。否応なく周りと同等の扱いをされる。年金や、福祉の問題だ。自分は社会人の責務を負えず、逆に社会のお世話になるしかない。それに頼らざるを得ない。

向後一切変化することなく、このまま過ぎていきそうだ。社会に参加することなく、隠とん的に不自由に支配される日々。ただ時に流されるだけで、寂しく朽ち果てていく。そんな末路が浮かぶ。もう社会復帰の道のりが遠く見える。

このまま病に支配されたまま、不可逆に何もかもを失いそうだ。このままの生活を続ければ、生活が変わることはない。どんどん思いがけなかった大人や生活へと進行してしまう。

引きこもり、病的なままで、まともに自立が出来ない日々。生活に必要なものを得ることも、身だしなみを整えることも、一人では何も出来ないかもしれない。いや、今の生活がそうだ。何も出来ていないのだ。親が務めていてくれるだけで、何も一人では出来ない。

福祉のお金がいくら手元にあったとしても、何も変わらない。それだけで生活など出来ないのだ。

 

何とか活路を見出だしたいと思っていたけれど、これほどまでに落ち込むと絶望してしまう。自分は体調管理すらまともに出来ないのだ。未だその程度なのだ。

 

「買い物へ一人で行けるか」  1.2.3.4

「金銭の管理が出来るか」      1.2.3.4

福祉に頼る立場として非難されるかもしれないけれど、もう阿保らしく思える。自分が病的ではあるのは知っている。十分知っている。それに十分打ちのめされている。だからこそ、それを意識に落とし込むのは簡単だ。自分は、これだけ深く病理を理解している。

後はそれを反映させれば良いだけのことだ。この舞い込んだ目の前の書類に。

 

認識の概念が明け透けに見える。自分は知的に不自由があるわけでも、身体的に不自由があるわけでもない。でも、それらの世界と同等に見られてしまう。主に前者でそう感じられる。精神の不自由という領域の人間であってもだ。その設問によって、色々なものが込み上げてくる。

今までここに記したものを、すべて理解してもらえたのなら良い。それなら簡単なのにな。

不自由というのは、知的に、身体に、精神に禍根があるだけのものではない。きっとそうだろう。それは世の中の自分だけではない。正常な性質を持っている人間にだって存在するのだ。それをしっかり反映してほしい。その本当の意味をだ。

あの書面を見て、成熟された作りではないと思ってしまった。恥ずかしくなった。自分の病的さ、不自由さは、ここまでなのかと。

それでも、それだけの障壁がある。自分の生活はその程度なのだ。その事は確かだろう。それを認めてほしいと嘆願するのだから、すべて仕方のないことなのだろう。

これから自分は、悔しさに締め上げられるような気持ちで書類に向かわなければならない。

図書館学級があった頃が一番良かった。その頃は、すべて欠乏が満たされていたのだった。行く場所があり、会う人が居て、やることがあった。運動もしていたし、それによって社会的な存続を確かに感じていた。その頃は良かった。

祖母宅へ避暑に移動する時、車窓から学生の姿を見た。その時にその頃を思っていた。

それがない今は、とことんつまずいてしまう。

 

深刻に考えても仕方ない。自然と良くなるものだ。それなのに、神経を高ぶらせて深みにはまっても仕方ない。

好きに深刻に考えている訳ではないけれど、それを何とか回避したい。これが自分の性分であっても、工夫を凝らして成長したい。

明るくいないといけない。親に負荷をかけてはいけない。大人であれば、冷静になることだ。

 

今はまだ力がある。ここでリラックスすること。「余裕が」と強く念じても仕方がない。成るようになっていくのだ。抑圧をしようが、ウイルスに冒されようが、成るようになる。意識の力では何とも出来ないことがあるけれど、好ましく意識や認識を使うしかない。

第一、内的にさえ費やせたら良い。それに費やせるのであれば、十分な体力はあるのだ。それで十分だ。その時は安心した方が良い。それを強く認識していたい。余裕を強く思っても仕方ない。

自尊心についてもそうだ。内的な日々に満足すれば良い。その日々に余裕は既にあるのだ。気楽に居て、それを有難がれば良い。十分に慈しめば良い。それで良い。それが良い。

 

負の領域にいる以上、強い回復を思っても仕方ない。今の生活の限界はあるし、それは体重と重なる。欠乏を満たすことが出来たのなら、それは十分豊かになる。満たすことが出来なければ、満足のいく日々よりも水準は下がる。でも、運動などである程度の水準は維持できる。それぞれの日常の規模と水準は重なっている。

今は情緒的な変動があり、運動も出来ていない。だとすれば、かつてよりは水準が下がるだろう。そのなかでも、最低限のエネルギーさえ確保できたら良い。それが内的に費やせる日々の水準であり、それなりの満腹だ。それは基本欲求を満たすための原資になる。

それさえ確保できたら良い。そう認識していよう。

色々な変遷がある。体調を良くするための認識は得ていたけれど、悪化する際の病理の認識は浅かったのだ思う。その認識が得られたのだと思っていよう。

すべては現実によって求められる。言い換えれば、すべての出来事には意味がある。今は未来のいつかの日々と繋がっている。既に繋がっている。そう思っていよう。

 

まだ分からない。自分次第だ。

 

また明日。

 

参考文献: