欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

現実での生活 それなりの活動量と体力

真夏の暑さが再びやって来た。今日は朝に起きた時点で、既に蒸し暑さを感じていた。夜中に熱気が逃げておらず、寝ている途中で目が覚めた。身体を起こし、おぼろ気に閉じきっていた窓を開ける。

明けた朝の二階で過ごしていると、風が吹き抜けて涼しさを感じた。まだ九時くらいのこと。その時は良かった。でも、間もなく汗ばむほどの温度に変わってしまった。そこでぱたりと風も止む。

扇風機を近くに持ってきて、体に風を当てる。それでいくばくかは楽になった。それでも、暑さや暑さの不安にやられそうになる。
二階から近所の猫を久しぶりに見たけれど、すぐに草むらから駆けていった。まだ早い午前のこと。二ヶ月くらい会っていないのだろう。同じあいだ、自分は散歩にも出ていない。

最近の体調では、好不調のでこぼこが多い。いや、大方は不調だ。まだ胃袋は伸縮していない。胃の状態が良くない時が多い。直近では、まともに食べられた時もあったけれど、そこから上向くことはなかった。胃を膨らませるまでにならず、食欲が湧かない時がよくある。

それでも、顕著に食べられない訳ではない。画面を見たり、文章を見たり読んだりする程の力はある。それだけは賄えているのだろう。

それだけのことであっても、それはそれなりのエネルギーを必要とする。そう考えれば、この日常の規模を賄うエネルギーは確保しているのだろう。

以前も記したけれど、生活の規模と生活水準は重なる。かつてと比較すれば、まさにそれが分かる。活動の度合いによって、身体の状態も随伴していた。

小学校に通っていた頃、自分は普通だった。ただの痩せ型でいられたのだった。学校生活でセンシティブになることはあっても、許容範囲は十分あったと思う。限度が底上げされていた。それは基本欲求が大方満たされていて、なおかつ劣等機能や主機能を好ましく発揮されていたのだろう。

それはやがて、親友の不在によってバランスが壊れていく。

図書館学級の頃は、病めるようになってから一番体力があった。欠乏はある程度満たされていたと思う。行く場所があり、会う人が居たのだった。やることもあったし、運動も常にしていた。基礎的な体力があり、正の領域の循環があったと思う。

行く場所がなくなったここ数年では、前述の頃よりも水準が下がってしまった。それもかなりなことで、アーロン博士の研究を知るまでが峠だった。それまでは相当な綱渡りをしていた。

そのなかで、今春が一番快調だった。それはやはり、運動によるものだろう。それがストレスを晴らし、身体を底上げしたと思う。

運動という要素があれば、それなりの余裕を持てる。基本欲求を満たすための原資になるし、最低限の体力にも繋がる。外出するための前提にも繋がる。


その豊かな活動がない今、春頃の水準を下回るのは仕方ないのだろう。ストレスは滞留してしまうし、体の状態を下げてしまう。個人的にはそれが抑圧を生む。

そうなれば、食事量も減っていくのだろう。栄養の収支はコンパクトなものになる。運動が出来るほどの力はなくても、内的に費やすくらいなら可能だ。生活は活動量と紐付いている。

その認識を持つのが良い。そうやって過ごしながら、最低限の満腹になれば良い。それだけで良い。それがあれば、基礎的な体力は確保される。その最低限の体力が失われなければ良い。それを携え、そこから身体の上限を底上げすること。

理想は欠乏を満たすことだけれど、まずは運動をすれば良い。その最低限のケアをする。そうすればストレスは和らぎ、再び体力を得られる。そうした後は、外へ出て欠乏を満たせば良い。その道程を踏み、また活動すること。

活動が出来なくて水準が下がっても、深く考えすぎずにいたい。そう思って気楽に過ごせたら良い。


ただ、これもそうはいかない。それが病人であるゆえんだ。意識の力ではコントロール出来ないのが病気。病的な反応をしてしまうのだ。それは、本能や生理のコントロール下にあるからだろう。

「歴史は繰り返す」 と、身体はそう思ってしまう。本能的、生理的に自己の存続が危ぶまれると感じた場合、それを身体は重大に捉える。その先で同じような場面に遭遇すれば、過去の苦しみを繰り返してはならないと反応する。自分の欠乏症でいえば、無理をして食事を摂ること。ありのままの声を抑圧し、何とか苦しみを掻い潜ろうとしてしまう。

体力には問題がないと認識していても、不安感が根底にはある。かつて体調が悪かったことで、自尊心も可能性も損なわれたのだった。それどころか、存続に直結するような苦しみがあった。

やはりその意識が根底にはある。それが内なる声を搔き消す。本当の満足や喜びがない限り、身体は低調のままだ。その不調が続けば、いつ自分の影が現れるか分からない。

運動で身体を整え、欠乏を満たして存続を確かにすること。この行程を走りきらなければ、身体に由々しきことが起こり続ける。それは今がそうだ。


次の診察を安穏に迎えたい気持ちがある。良い顔をドクターに見せ、経過に問題なしと終えたいのだ。これこそまさに体調コンプレックスによるもの。その権化だ。

先々月の診察で、不調に陥っていると告げられなかったのもある。今更になって、「先々月から不調でした」と言うのはどうなのだろう。「僕には病院コンプレックスがあって、不調によって病院で嫌なことがあったのです」と、言えば良いのだろうか。それで良いと思うけれど、それすらも避けようとしてしまう。とにかく穏便に済ませたいと思ってしまう。楽観できないのだ。

安心安全で、誰にも侵されず、何にも冒されることのない日々を生きたい。そう思っている。

何も出来ない日々。最低限の体力の有無というのは、画面を長時間見れるか否かが指針になる。"フリースクールへ通えるか"ではなく、"家事や身の回りのことを出来るか"でもない。

最近は暑さもあり、車を持たない人間にとっては、それだけで生活の足を失う。屋外空間へ出掛けることもままならない。朝も夕方も時間が合わず、散歩をするのも難しい。

活動量がすべての鍵だ。それと重なる欠乏欲求の満足。

現役世代というのは、部分的であれ、基本欲求が大体満たされていると思う。ただ、老年期になるとそうはいかなくなるのだろう。行く場所も人もなくなる。足腰だって立たなくなる。ああ、自分は高齢者のようだな。

このまま文を記していたって、何の足しになるのだろう。大事なのは現実での生活なのだ。現実を生きなければならない。自活をし、自立をすること。身の回りのやるべきことを、すべて自分で済ませることだ。健康を保つための要素を、生活で構築すること。

生き物の生涯というのは、いかに健康を維持するかがすべてに思える。いかに基本欲求を満たすかだ。そのために生きるか、あるいは満足の確保のためにさ迷うか、そのどちらかだろう。あるいは存在の領域へと進むかだ。

仕事も家庭も何もかも、健康維持のための要素に過ぎないのだろう。いかに存続をし、いかに健康を維持するか。それが幸福の中身なのだと思う。


なかなか先が見えない。自分の限度だけが見えてくる。

どうすれば自立・自活が出来るのだろう。それを今一度考えているものの、理想しか浮かばない。現実的な理想であっても、現実にあるような選択肢はない。

インターネットで何かをアウトプットし、価値を創造してみようか。

いや、何だか怖い。芸術なりで生きるのであれば、市場の中心に身を置かなければならないだろう。それは常に人目に晒され、自身と一体になる創作物を表す必要があるということ。それはセンシティブパーソンにとって一番のネックになり得る。心身が満たされない内は、それに神経を高ぶらせてしまう可能性がある。

コンテンツクリエイターとして生きていくのならば、そういった生き方になるのだろう。それに成れるかはともかく、自分がそれを目指すのはどうだろう。


自立をし、衣食住を整えられるのだろうか。
現時点で生活の足はなく、最低限の体力もない。満足や喜び、自尊心が得られない内は、絶えず身体が負の領域に落ち込む。その世界を延々と循環してしまう。

その状態を本質的に癒すには、行く場所と会う人を得ること。それが大切だ。

でも、それをこれから得られるとは思えない。人や何かの機会を待ったところで、何も起こらないのだ。皆から忘れられ、世界に取り残されるのみ。時に追い越されるのみだ。

世の中で生きていくためには、どんどん世の中に出ること。でも、出る場所などない。身近にはないし、遠くの場所では負荷が掛かりそうだ。あるのはインターネット空間くらいだろう。


一番の現実的な道程は、いま出来る最低限の体調管理をしながら、それなりの体力を維持すること。運動などをして、基本欲求を得るための土台を確保する。そして外の世界へ出つつ、インターネットメディアで価値を創造すること。それらすべてを同時にこなす。

生活の基礎を維持しつつ、建設的な正の領域に進む。最低限の満足を得つつ、未来の豊かな日々へと積み上げること。

このままの生活を続ければ、このままの日々が続いてしまう。福祉に頼ったところで、それだけでは生きていけない。金銭もそうだし、生活全般もそうだ。自分の力で糧を得て、身の回りのことは自分で済ませなければならない。

それを完成させなければ、いつか孤立してしまう。それでは生活がままならない。親はいつか消えてなくなるのだ。お金だって無限ではない。自分が大人として、成すべきことを成すしかない。


自分から動かなければならない。でも、どうすれば良い?道は少しあるけれど、そこに進めば良いのか?

知識とは、過去の経験の積み重ねだそう。一方の思考は、未来に対する論理の到達点だということ。

「提示された場所はリスクがある」というのが知識。「そこ行っても良いだろう」というのが思考。一体どちらが正しいのだろう。全く分からない。

いつになったら報われるのだろう。そんなことを思ってしまった。

散歩をしつつ、それなりの満足を携え、体力を維持する。そして自活自立へ向けて励む。欠乏を満たすために外へ出たり、インターネットで価値を生むこと。

それが出来れば良い。フラストレーションを溜めず、建設的に生きること。

都会に住みたい。狭い生活圏に必需施設がある街が良い。


また明日。


参考文献: