欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

取り留めのない課題 誠実な姿勢

最近は祖母宅に避暑通いをしていたけれど、季節が急に晩秋のようになった。まだ8月の中盤に差し掛かるにも関わらずだ。台風によって季節が掻き乱された模様。梅雨末期の雨になるという呼び掛けがされている。白色の雲が立ち込み、蛍光灯のような無機質な光が差している。

身ごろもが真冬並みである。自分は身体に脂肪がないので、寒がりな人間だ。それもあり、真夏の頃であるのにも関わらず、分厚い身ごろもをまとう始末。異常な天気のせいでもあるけれど、どうにも恥ずかしい。寒さに応えるという病的な状態。何だか晩年の祖父を思い出す。


今日はお盆の墓参りだそう。母は少し前からそう言っていたけれど、何だか気にしていなかった。いざ前日や当日になってみても、現実感がない。夏休みの感じはなく、平日が続いているように思える。今年も家族や縁者は帰ってこない。そして暑さもない。

世の中の特別感も感じられない。年末年始はそれを記していたけれど、半年経った今は何も感じない。

時勢もあるけれど、自分は世捨て人だろうか。自己実現者はプライバシー好み、俗世間を離れると記されていたけれど、そのようなものだろうか。よく解らない。


今日は母のみが墓参りをした。自分は行かなかった。悪天候もあったけれど、行こうと思えば行くことは出来た。そのくらいの天候だった。それでも行かなかったのは、怠惰か不義理か。

母に「きちんと心の中で拝んでね」と言われ、何だか気に障ってしまった。

自分は、反出産奨励という言葉に合点がいった気がするし、独自な死生観もそれなりにある。それはどうにも、一般的な文化や思考とは融合しない。そういった教義のようなものがある。死は消滅だと思うし、死者に思いを馳せたくなる経験がない。生者が作る祭儀には、何だか思ってしまうことがある。

命のバトンリレーというものは、そこまで美しいものだろうか?それは美化されたものではないのか?

先祖は先祖。自分は自分。子を設けることに対し、もっと現実でなまの認識をもった方が良い気がする。

親になりたいという人は、相手がいれば誰でもなれると思う。他の職業も似たように思える。教師もそうだろう。机上の設問を越えれば良い。それでその職に就けるのだろう。ドクターもそう。メンタルヒーラーもそう。為政者もそうかもしれない。

でも、その人たちは、その職に適した人格を持っているのだろうか。その人たちに限って、その職に向いていない可能性だってある。その人たちの方が、その職を続けやすいこともあるかもしれない。


「生んでくれたから自分がいる」

自分は以前、すべてに感謝できるような人間になりたいと記した。世界に対し、これまでのすべての幸運に対し、胸一杯に感謝を込めたいと思った。

その時がやってこなければ、嫌らしく悪態をつくのみです。今はまだやってきていない。悪行とは、何かに対する反応だそう。主に自尊心を傷つけられる恐れからのもの。


最近の心情はどうなっているのだろう。何だかよく解らない。墓参りへ行く際の体力の不安に対し、責任転嫁をしているのかもしれない。「自分の不埒は、誰からも責められるべきではない」。そう自分を守ろうとしているのかもしれない。

自分の先祖は、いずれも立派な人たちだったのだと思う。親に資産を残してくれたし、それが自分の資本にもなっている。まさに先祖の人生がなければ、今の自分はない。そしてこれからの自分もない。その事実が確かにある。

そのことを思う子孫である。自分の不満の源流に先祖はあっても、今があるのは先祖がいたからだ。

そのことをどう思うかで、人間の器が決まるのかもしれない。

すべてに感謝ができる暁は、日々努力しなければ辿り着けない。精魂込めて長い年月を費やしてこそ、その境地に辿り着ける。その努力の有無が人間を決める。

自分はまだまだですね。まだまだ未熟だ。哀れなほどでもある。言わなくても良いこと言ったのかもしれない。


それでも、明後日には父の休日がある。その日に墓参りに行く予定だ。祖母と父と三人で向かう。その時にしっかり拝むことだ。先祖に感謝が出来ないで、何が世界に感謝するだ。先祖も自分も、すべてを受容して慈しむことだ。

その翌日には通院日がある。家内安全と、健康成就のお願いをしよう。丁寧に拝めば、いつか良いことがあるかもしれない。その真摯さがあれば、自分の力で何とか局面を打破していけるのだろう。

その先の境地では、ようやくすべてに感謝できる。すべてを慈しむことができる。たゆまぬ努力をする人格こそ、至高の日々をもたらすのだろう。

直近の体調は、それなりに良い方だと思う。おおよそ不調から回復していると思う。穏やかな天候もあり、気楽にいられる時間が長くなってきた。

少し食べすぎることはあっても、それが打撃になることが少なくなった。それは胃袋の持久力を意味しているのだろう。それを得るくらいに発展しつつあると思う。

散歩へ出たとしても、大きく体調が悪くなることはない。すぐに回復し、本を読んだり、ゲームをしたりすることが出来る。これは良い兆候だと思う。


それでも、体重は増えていない。先月の頃よりも、また五百グラムは減っている。その水準を維持することは出来ても、そこから回復することはない。その微妙なバランスがあるこの頃だ。

ただ、体力的にはほとんど問題がない。先月と同じくらいの調子でいられている。だとすれば、それで良いのだろう。

体重というのは、良い活動に随伴するもの。体重を増やしたいならば、豊かな活動をするしかない。それが出来ないならば、気を揉んでも仕方がない。

大切なのは体力だろう。それが落ちていないのであれば、それで十分だ。その時点で不安を感じることはない。体力はあるのだ。そこで強い焦燥感を持ったとしても、何ももたらさない。そこから上向いていくということはない。安全感を噛み締めることが大切だ。


次の診察日では、体力的な問題はないと思う。朝食でまとまった量を食べられたら、それで心配なしだろう。今のところ、ストレスの種になるような要素はない。このまま維持されたのなら、ドクターに良い顔を見せられるだろう。そのことを強く思いすぎるのは禁物だけれど。

体調の診察、ウイルスのワクチン、福祉の年金。少し問題が立て込んでいる。それらは取り留めのないことだろうけれど、少し気がかりだ。ドクターに詰問されることはないだろうけれど、どうにも否定的に答えられてしまうような場面が浮かぶ。

それでも、自分は診察室で流暢に話すことは出来ない。大抵は予定どおりに進まないのだ。頭は回らなくなり、言葉も出なくなる。その時はその時に何とかするしかない。何とか口を回すしかないのだ。これは今までの経験で認識できること。


正直で誠実にいるしかない。そのこうべに神は宿ると聞いたことがある。近頃運動できなかったことや、体重低下の不安があり、それに暑さの不安も加わったこと。それがあり、とにかく余裕を持ちたいという焦燥感が強すぎたこと。それらを伝えるしかない。

「先々月は不調でした」とでも言ってしまえば良い。そう伝えれば、そういった体調コンプレックスがあることを共有することになる。それで良い。それが良いだろう。

当日の体調が良ければ、いくらか診察に臨みやすいだろう。「それでも、今は好調な方です」そう言えるのなら良い。話を丸く収められそうだ。

最近では、内的に費やすことで忙しくもある。誰かに会いたいという気持ちよりも、勉強をして何かを生み出したいという気持ちがある。

マズローを読み、社会を学び、創造的に生きている人の話を聞く。その後には休息を取る。音楽を聴き、ゲームをしたり、画面を見たりする。散歩をしたりして、久しぶりに猫と会ったりする。

内的に費やすので十分なのかもしれない。自分はそれほど孤独ではない。家族がいるし、話をする相手はいる。それは大きいと思う。それだけでも栄養になっているのだろう。


より必要なものといえば、愛情だと思う。与えるものと、与えられるもの。それが供給される時間があれば、より心身の豊かさが得られると思う。

愛情と社会的尊厳だろうか。運動をしつつ、定期的に正の感情を心に注入する。そのなかでアウトプットをし、社会的な肯定を得る。それらで欠乏欲求が満たされたのなら、かなり日々は変わっていくのだろう。

内的に費やし、愛を得て、何かを生み出す。それで健康を得て、家事をしたりして自立をする。福祉に支えられながら、自活力付けるために日々積み重ねる。

この流れが良いと思う。そうやって生きることが出来たら、満足が多くなるだろう。

だとすれば、何をすれば良いのだろう。現実に落とし込むとすればだ。

いま手を伸ばそうとしているのは、ソーシャルメディアを持つということくらいだ。日々の足跡を残せたら良いと思っているけれど、どうなのだろう。


すべてが自然と解決されるのなら良い。そんな希望がある。

それでも、自分の抱える問題は、大抵が取り越し苦労に終わる。すべては取り留めのない問題だ。それを膨大にして考えているだけ。

それが自分だ。それらは自信がないからそうなるのだろう。それに経験もない。どうにもすぐ頭を抱え、立ち往生してしまう。

でも、すべての問題は、一年後に振り返れば屁のように思えるものばかりだ。きっとそうだ。その経験は既にある。いや、今年の上半期に思っていたことでさえそうだろう。一年後も打撃になり続けるような問題などなかった。センシティブパーソン全般の問題はあれど、それはこれから始めていくことだ。

体調も良くなるだろうし、ワクチンもすぐ打って終わりだろう。きっとそうだ。そうなるだろうし、そうしていくのだろう。少なくとも、そう考えてやっていくこと。いざ取り組んでしまえば、容易に片付くものだ。

あなたはどのような人生を送っていますか?

また明日。


参考文献: