欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

神経の高ぶりと内部信号 自我の回復

午後の空は晴れている。少しどんよりと曇ったり、祖母宅へ来る前に通り雨があったけれど、一転して晴れている。雨は叩きつけるように降ったものの、それが幻だったかのように感じる今だ。光輝く日が差していてる。窓の向こうの木々は、きらきらと風に揺れている。

太陽の力は和らいだように感じる。午前の早い時間であれば、散歩へ出掛けられる天候だった。夏の威力は収まってきた模様。このくらいが一番夏の風情を感じられる。部屋の中では少し汗ばむくらいで、午前であれば風に心地よさを感じられたりする。昼間の暑さもまだ許容範囲に収まる頃。豊かさを感じられる時間がある。

 

今年の夏は暑かったと思う。まだ終わっていないけれど、既にそうだっただろう。うだるような暑さは毎年あっても、今年はその日数が多かった。近年ではそれが顕著なのだろう。どこもかしこもそうだ。

それでも、もっと暑い地域はある。自分の住んでいる地域は、まだ体温くらいの温度が最高だ。

昨日の部屋に吹いた風は、初夏のような感じがした。命のみずみずしさを感じたほどだった。気温も適温だったのだろう。風、光、温度、匂い、これらの至高の感触があった。柔らかさや和やかさ、美しさがあった。爽春といった感じだった。

 

8月も後半だ。これからどんどん過ごしやすくなれば良い。そうなれば、散歩へも行ける。母も参ることがなくなる。暑さにまつわる不安がなくなるのは助かる。一つでも不安懸案がなくなれば良い。

天候は春頃に近付くだろう。身体もその頃に戻れば良い。

最近の体調は、良くもなく、悪くもない。それなりだけれども、微妙な塩梅だ。それが持続されている日々。

良いかと訊かれたのなら、はっきりと首肯は出来ない。かといって、悪いかと訊かれても、首を横に振るはずだ。

それがまさに前回の診察だった。先月からずっとそうなのだろう。良くなったりもするし、悪くなったりもする。満腹になるのが難しい訳ではないけれど、いまいちな腹の収まりがある。

万年慢性胃弱です。それが根っからの性なのでしょう。

食べられる時は結構あるけれど、食べられない時もある。平均量が上向かないというところ。どうにも抜本的には変化しない。

 

最近は散歩へ出る日があるけれど、運動の効果はあまり感じられない。今のところはそうだ。強い期待をしていたけれど、尻すぼみになっている。期待外れなところが少しある。

少し前に、二日連続で歩いた日がある。その時には明確な差を感じていた。胃の状態が上向いていたし、満腹の感触がかなり良かった。食事中の早期膨満感もなくなり、消化も楽に終えられた。

そういった胃の軽さを感じられたのであれば、それは好調の証だ。すると精神も変わっていく。エネルギーの余剰が生まれ、暇や退屈が浮かぶ。それが示すのは、安全が十分に得られているということだ。身体にはしっかりエネルギーが満ちているのだろう。

 

でも、今はそれを感じていない。腹が空くのはまちまちだし、快い満腹感も同じだ。良い時と悪い時が交互にやって来ている。それがあり、胃袋を少しずつ伸縮させるまでに至っていない。上限を底上げすることが出来ない。

食事の摂り方の工夫はあれど、胃の状態が上向かない限り、何も変わっていかない。表面的な工夫をしたところで、かえって逆効果になってしまうだけだ。焦燥感や不安を感じてしまえば、それが抑圧を生む。無理をしてしまえば、悪循環の連鎖が生じてしまう。

 

今は強い焦燥感がない分、少しは救いがある。理知的に考えてみれば、行き詰まっていることが理解できる。それでも、そこまで不安を感じてはいない。

それは良くなる時があるからだろう。それがやって来ることで、不安感が和らいでいる。それに体重も減ってはいない。ある程度の無思考でいられている。それがこの状態を維持しているのだろう。

それは意識的な認識によって得られた気楽さだろうか。そうであるのなら、成長しているのかもしれない。病的に体調を求めておらず、理知的な認識によって制御がなされているのであれば、かなりの転換が起こっている。そうであるのなら、抜本的な改善に近いだろう。そんなことを思う。

 

でも、今はそれほどフラストレーションがないのだ。そうであれば、強い不安も生まれない。自尊心を得たいと思うような状態ではない。今はまだ、安全の満足が足りない時だ。

つまり、冴えない調子だからこそ、高次のフラストレーションが湧いていない。それがあり、調子が微妙な分、逆に低次の状態が維持されている。それが実際のところに思える。

 

ここから体力を得たとすれば、好調コンプレックスが発現するだろう。そうなれば、冴えない日々の不満を抱えきれなくなってしまう。自分の可能性を活かそうと動き出すのだ。

そうなれば、高次のフラストレーションが生まれる。それは身体に力が満ちているからだ。だからこそ、強いストレスが生まれる。

今はそこまでの調子ではない。それがかえって落ち着いた推移を生んでいる。

停滞は良かれ悪しかれだ。もっと上向いた状態はある。あまり好調ではないということの輪郭が見えてしまった。

 

少しでも状態が上向けば、明らかな変化を感じられるのだろう。今はそれを感じていない。腹の収まりも、身体のエネルギーも、奥底ではあまり良くないと感じているのだろう。それが中期的に続いているため、あまり意識できていないのだ。それが常になってしまっている。

その状態を感じるとすれば、上向いた感触と比べることだろう。好調を迎えることだ。そうなれば、低い水準を循環していたことが分かる。

運動をしても好調にならないのであれば、少し考えなければならいかもしれない。歩かない日というのは、あっても中一日程度だ。なるべく歩くようにしていて、長い目でみればよく歩いている。そうなのだけれど、あまり状態に変わりはない。

太る時というのは、明確な好調を感じるもの。そのなかで逆説的に言えば、よく食べた時は、よく食べたことを感じない。無理をして満腹になった訳ではないからだ。気が付けばよく食べていたことを知る。気付いたら数字が付いてきている。現実を時間差で知ることになる。豊かな活動に随伴してくるのが数字だ。

 

目立ったストレスはないと思うけれど、どうにも停滞している。それでも、悪化はしていないだけに、強いストレスを感じていないことの証になる。それがあれば、最低限の体力は得られる。

それを確保することが出来れば、高次の日々のための原資となる。最低限の仮原資だ。そこから少しずつ欠乏を満たしていけば良い。

そのために運動をしている。安全の満足を得られたのなら、より最低限の体力を磐石に出来る。それは運動によって得られるはずだ。そう考察している。ストレスを減らし、ある程度の満腹に繋がれば、次にすべきは身体を動かすこと。それがより身体の調子を整える。

 

ここまでの推理は正しいと思うけれど、どうにも変わらない日々が続く。どうしたものかよく解らない。

それでも、深く身体が落ち込むことはない。その狭間に立ち往生する日々。

問題があるとすれば、「本当の心の声に基づいて散歩に出ていない」ということだろうか。だんだんとそんな気がしてくる。

あるブロガーはこう記していた。

「散歩へ行こうとした瞬間から、散歩ではなくなる」

その通りだと思う。無理をして身体を起こしても、身体に害になるかもしれない。

気持ちよく満腹になってエネルギーが満ちた時、その時に出歩けば良い。そうすれば爽快な気持ちになるのだろう。ストレスがなくなったような気にもなるし、次の食事も快く食べられる可能性が高くなる。

 

なぜ無理をして歩くのかと言えば、それは自分が病気だからだろう。病的な気を持っているからだ。それを何らかの原因によって持ってしまった。そういった人は病気を抱える。

自己実現を阻む病的な気を持った場合、神経が高ぶってしまうのだろう。ユングマズローの時代で言えば、それは神経症と名付けられた。

アーロン博士は『神経症的』について、「極度な不安感やうつ状態、過度のアタッチメント、親密さを回避することなどを指し、子供時代の問題が原因であることが多い」と記している。

この辺りの定義は、素人にはよく解らない。他にもアーロン博士は、どこかで「何も原因がないにも関わらず不安を覚えるのが神経症」と記していた気がする。これに関してはよく覚えていないし、全く正確ではない。是非正しい情報をフィードバックして頂きたい。

 

自分も、神経が高ぶってしまうという意味では神経症者だ。それでも、それには明確な理由がある。解明されてしまえばそうだ。確かな原因は存在する。

それがなされず、自分でも説明不可能であれば、訳もなく神経を高ぶらせていると捉えられるのであろう。周囲の一般的な人はそう見る。そんな気がする。ユングマズローの時代は、敏感さについてフラットに認識されていたのだろうか。

 

マズローはこう記していた。大抵のノイローゼや精神障害では、内部信号(衝動の声、合図とか刺激)が弱くなり、時には全く消えてしまう、と。

内部信号を捉え、これを認知する能力―何が好きで何が嫌いなのか、いつ食べたくていつ食べたくないのか、いつ眠り、いつ排泄し、いつ休養したいかを知る能力―それらを回復させ、自我を回復させなければならないそう。

 

自尊心・体調コンプレックスが、まさに内部信号を掻き消している。感情による病的な無理のしすぎや、習慣による擬似的な無理のしすぎがそうだ。そうなってしまえば、それは神経も高ぶってしまうだろう。

食べたくない時に食べ、歩きたくない時に歩き、休みたくない時に休む。自分はそうしているのだろう。そのまた逆もある。そんな病的な気があれば、生命が萎縮するのも仕方がない。

あるいは、先に生命が萎縮してしまっているために、全ての可能性が閉ざされているのだろう。その事もより弱体化を助長させる。

可能性を最大限発揮し、存分に自分でいることが自己実現だ。それは容易く達成できるものでなくとも、生理的な心の声に逆らってしまえば辛くなる。それは当たり前の事だろう。その水準でつまずいてしまえばそうだ。

 

マズローはこんな言葉を引用していた。

「病気というものは、自分たちにとって、不都合なものを願うために起こるのである」

内部信号についての題は、非常に重要な言葉がまとまっている。長くなるので引用は控えるけれど、ノイローゼの本質を明らかにしてくれている。それによって導かれる特別な意味。

全ての点は繋がる。敏感性の心理学、ユング心理学とMBTI、欲求の階層と正の存在領域。全ての本質は明らかになっている。

現代であるのであれば、大方の精神的な不自由は解明されていると思う。それをとにかく調べてほしい。諦めずに変化しようとしてほしい。

インターネットの波に流されるだけでも良い。それでも、いつか何かに辿り着くかもしれない。変化の大きな転換点はある。どこかにある。この世のどこかに既にあると思う。

それは自分の経験則だけであっても、誰かにそう言いたい。どうか諦めないでほしい。可能性を捨ててほしくはない。

そして無事であれ。自分の力で手繰り寄せろ。それがすべてだと思う。

誰も見てくれていなくても、届けたい人に届かなくても良い。過去の自分が救われるような文章を書こう。それで良い。それが良い。

いや、読んでくれる人はいる。自分はその人たちを意識している。そう記しては失礼か。

 

いつも有り難うございます。

 

また明日。

 

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