欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

基本的な人生の前提 真の自己の実現

今日は雨が降った。今は少し止んでいるけれど、昨日から断続的に降り続いていた。

今は祖母宅に居る。いつもこちらへ移動する際、川の上に架かった橋を通る。車窓からその川を見てみると、濁って水流が増していた。濁流と化していて、恐怖感がした程だった。

祖母宅の部屋から辺りを見ると、無色の強い光が眩しい。空は白い雲に覆われ、雨音はない。部屋は静寂だ。

 

分厚い見ごろもをまとって記している。朝はとても寒かった。母は蒸し暑そうにしていたけれど、自分は鼻が出るくらいだった。またもや真冬の格好に近い服装をしている。これもまた恥ずかしい。

ただ、それは天候によるものだ。暑さはもう和らいだよう。太陽の力は弱くなっている。向こう一週間の天気予報を見ると、赤い晴れマークがなかった。気温も二十度台が中心だ。実際にそういった天候が続けば良い。そうなれば、大分楽な日々となるはずだ。

体調は微妙な塩梅が続いている。それでも、直近の数食に関して言えば、いくらか調子が良かった。少しは上向いているのかもしれない。

胃の軽い感触があった。空腹感もあり、腹の膨れ方も良かった。

入浴前に体重を量ったところ、少し体重が増えていた。下腹部の肉も分厚くなっていた気がする。それは誤差の範囲内であっても、安堵できるような要素だった。

でも、それが持続するかは分からない。それに数日前は停滞していたのだ。その時は体重がマイナスに傾きかけていた。その事実によって、不安が膨らんでいたのだった。

 

一度良くなるということは、理知的な認識を作る上での好材料となる。「いつかは自然に良くなるのだ」ということを理解すれば、気楽な意識を生み出せるかもしれない。それがあるのならば、無理をすることがなくなるのだろう。

でも、真の気楽さを持つことは難しい。基本欲求を満たさない限り、絶えず神経が高ぶる。フラストレーションによってストレスが溜まれば、それが内的に生じる刺激となる。それによって神経が高ぶってしまうのだ。

すると、自尊心・体調コンプレックスが発現する。好調によって自尊心を得ようとしてしまうのだ。無理をして体調を上向かせ、在りたい日々の満足を得ようとしてしまう。

その日々を願わずにはいられないのだ。それは存分に可能性を活かし、誰からも責められずに済むような日々。

その生活を得られない限り、絶えず神経が高ぶる。自分は刺激追求性もあり、どうにも快適にいられる環境の幅が狭い。

コンプレックスによる負の領域の循環と、満足の欠乏によるノイローゼは同じだ。根底でそれらは繋がっている。いずれも神経が高ぶり、病的な状態に陥ってしまう。

 

今の日々において、自分は何を求めているのだろう。今は高次の基本欲求が湧いていない。内的に費やしたい欲求はあるけれど、社交的な欲求は湧かない。何だか無欲の状態だ。何かに費やしたいわけでもなく、誰かに会いたいわけでもない。

それはやはり、まだ体力が満ちていないからだろう。それがある。エネルギーが満ちているのであれば、すぐさま高次のフラストレーションが湧く。それに業を煮やしてしまうのだ。

そう考えると、まだ安全の欲求が十分満ちていないのだろう。今は体力の余裕を得たいと思っているのだ。

 

胃袋の上限が底上げされない日々。食欲にはむらがあるし、食事中の早期膨満感もよくある。継続的に快く満腹になることが難しい。それがあり、なかなか胃袋が伸縮していかない。まだ袋がかちかちで、すぐに限度量を迎えてしまう。

 

胃袋というのは、まさに袋だ。その性質は、風船についての比喩で表される。

風船の膨らませ方で言えば、今の状態は、最初の膨らみづらい時と同じだ。息を吹き込むと、まずある程度は膨らむ。でも、そこからすぐに膨らみづらくなる。ゴムを伸縮させる必要があるのだ。その時に力を込め、ゴムに力を加えなければならない。

その膨らみづらい時さえ越えれば、あとはゴムが伸び伸び広がっていく。今の胃袋の状態は、そのゴムが伸縮していかない時と同じだ。ぶよぶよと広がっていかない。

 

少しずつ空気を入れていくこと。上限を少しずつ底上げすることだ。

胃袋で言えば、腹九部を意識し、快い範囲で満腹になること。それを継続していけば、やがて少しずつ伸縮するのだろう。すると胃袋に持久力が生まれる。次は前よりも食べられるようになる。

 

今の日々に足りないのは、食欲だ。それにむらがあるのが厄介。それがあり、継続して満腹になることが難しい。無理をしたりする時もあるけれど、それがない時に食欲が減退したりもする。そうなってしまえば、胃袋を伸縮させられない。かちかちのままだ。

どうにかして好循環の連鎖を生み出したい。

昨日は散歩をした。天候は落ち着いていて、午前と午後の二回を歩いた。午後はすぐに家へと戻ったけれど、午前はまとまった時間を歩いた。午後は歩きたい気持ちが湧き、午前よりも快く歩いたと思う。

それが昨日の好調に繋がったのだろうか。前回も「散歩によって好調になったのだと思う」と記していた。一体どうなのだろう。今回も同じような流れにはなっていると思う。昨日と今日はそうだ。

でも、今日は天候不良だった。歩くような日和ではなかった。それが残念だ。中一日の休みならちょうど良いけれど、明日以降はどうなるか分からない。歩けない日が続けば、また停滞するかもしれない。これからの食事だって、どうなるか分からない。

 

無理のない範囲で歩くことだ。出来れば毎日歩きたい。気分良く歩き、身体の益にすること。歩いた後に爽快感があれば、身体に良いことが起こると思う。

昨日の散歩はそうなっていたのだろうか。実際にそうであり、それによって上向いたのであれば良い。その行動指針を持ってやりくりすれば良いのだろう。それは大きな認識となる。

アーロン博士は、「身体は動けば動くほど楽になる」と記していた。春頃はそれを意識していたのだし、恐らくそれによって上向いたのだ。

何がどうであれ、上向いたことは確か。その考えられる理由としては、身体を動かしたことくらいだ。

アーロン博士がそう言っていたのだし、自分も恐らくそれを体現した。だとすれば、今後もそれをすれば良い。それだけで良い。それで良い。不安に思うことは何もない。焦燥感も持つこともない。

今は不安がないのだから、最低限の満腹は得られる。それに極端な不調が長引くこともない。いつかは自然と良くなる。散歩へ出たくなる時もやってくる。欠乏を満たすための原資はあるのだ。

後はやるべきことをやるだけ。それはまず、歩くことなのだろう。

外胚葉型という体型があるらしい。最近どこかで思い付き、その言葉を検索していた。

まず、胚葉という細胞があるらしい。でも、その詳細はよく解らなかった。インターネットで調べてみたものの、胚葉については難解だった。そこに記されていたのは、外胚葉が脳や神経系を形成する細胞だということ。それ以上のことは理解できなかった。

外胚葉によって脳や神経系が発達していれば、神経質で知的なタイプになるそうだ。それはマズローの原典にも記されていたので、確かな研究結果なのだと思う。MBTI診断にありがちな、行動の全てを占うようなものではないはずだ。何かの根拠があるのだと思う。

本当に無知で申し訳ないけれど、そう記されてはいた。

 

その外胚葉の発達は、肉体にも関わっているそう。体調に不調を来しやすく、体型も貧弱に思われることが多いようだ。手足が細長く、内臓機能が弱いとのこと。

その事は、自分の特徴と重なっている。何だか安堵するように合点がいった。

その他の特徴として、代謝が高く、食べても太りにくいということや、また栄養吸収も悪く、太りにくいということもあった。これもまさに自分のことように思える。

それに加え、頭の中で物事を考えることを好むのだそう。これも自分の特徴であり、センシティブパーソンとしての特徴とも重なっている。

 

つまり、先天的に特徴が決定付けられているということだ。それは先天的な生物的宿命といえるのだろう。そのことを知った。

それによって納得感や安堵があった。これは大きな気付きになると思う。「足掻いても仕方のないことはある」と、自分らしさとして受容できた気がする。つまり、無理をして頑張らなくても良いと思えた。表層の自我としては、そのように感じられたのだ。

マズローはこうも記していた。そのことが外胚葉型の気付きと重なる。

中略

心理療法の根本的な遠いゴールは、いまでも、(個々人の)同一性の回復、真の自我、真実性、個性、自己実現などの回復である、とされている。換言すれば、それは個人の持つ自然的傾向、内在する個性、人生問題に対する解決を発見する努力なのである。それらは、その人の体質、気質、神経系、内分泌系によって、(無理に命令されるのではなく)たくみに、その人に示されている。ひと口にいうのなら、彼の身体とその好ましい機能のし方、彼の「生物学的にみた運命」、彼の最大にして、最も容易に幸福が求められる方向性といったものの発見が心理療法の目標である。

人間性の最高価値  468P  A.H.マスロー 上田吉一訳

 

マズローは他にもこう記している。「基本的欲求が満足されない限り、健康にはなれない」と。ノイローゼというものは、欠乏症に近い病気であるといわれているそう。

ノイローゼ、つまり神経を高ぶらせて欠乏症に見舞われるのは、基本的欲求の欠乏があり、理想が挫折し、自分たちにとって不都合なものを願っているからだ。『人間性の最高価値』の断片を繋ぎ止めれば、そのようになる。

全ての欲求を満たし、総合的な本性を取り戻して、運命に沿って可能性を発揮すること。その暁を迎えてこそ、ようやく本来の自分になるのだろう。

自分らしさを全て理解し、それを受容すること。自尊心も、尊厳も、愛も所属も手に入れ、正の存在領域を生きる。それが自己の回復、実現であり、自己実現なのだろう。

 

無理をせず、心から自分を受容すること。その真の意識があれば、罪や恥の意識もなくなる。そうも記されていたのだった。

いかに基本欲求を満たすことが大切なのか、改めてよく解った。何故「基本」欲求なのかが解る。欲求の階層の意味もだ。健康を得るにも、可能性を活かすにも、強固で確かな土台が必要なのだ。基本的欲求の土台がなければ、人生の前提が失われる。

その逆に、基本的欲求の満足があれば、豊かな日々の足掛かりが得られる。それも確かなのだろう。それが一番難しいのかもしれないけれど、それだけで良いのだ。その一つの壁だけがある。欠乏症もそうだし、アルコール中毒も同じ原因だと記されていた。

まだまだ気付きはたくさんある。捉え直しの必要もだ。勉強し続けなければならない。日々変化し、成長していくこと。

一年ずつ大きく変化していたい。小さく積み重ね、それがいつかの日々に繋がれば良い。

 

また明日。

 

参考文献: