欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

可逆的な人間性の萎縮 可能性の実現

今日も祖母宅に居る。午前はどんよりと曇っていたけれど、一転して晴れている。辺りは鮮やかになった。青と白と緑。窓辺に居ると光が眩しい。部屋が暖かくなってきた。

夕べは寝苦しかったのか、色々なことがあった。無意識に顔の肌を掻いていて、その途中で目が覚めたりした。リアルな現実を生きているような夢も見た。

朝になって思い起こすと、歯ぎしりもしていた。夢の中で、ぐらぐらする歯に怯えていたのだった。今朝の歯磨きの前後には、歯の違和感がしていた。これは前からのことで、どうにも磨耗してしまっている。

夢の中でも祖母宅に居て、そこで家族や親戚と過ごしていたと思う。そこで歯を軋ませていたのだろうし、そのなかで賑やかさも感じていた。和やかで穏やかな時間が流れていて、それを心地よく思っていた。そのような気がする。

詳しい記憶はあまりない。それでも、どこか豊かな時間が流れていたと思う。その感触が残っていた。

 

恐らくは、刺激追求性が優位に立っていたからだろう。日中にそうなっていて、それを表層の自我が封じ込めていた。その無意識下に押し込められた感情は、意識が薄まる就寝中に活性化する。

穏やかな一人の時間が必要で、刺激的で賑やかな時間も必要だ。静と動の両端がどちらも必要。そのような人間だ。

その両方の時間を得られなければ、心身が疲弊してしまう。静かすぎてはフラストレーションが溜まり、賑やかすぎても刺激過多に陥る。フラストレーションという内的なものも、敏感すぎるがゆえに刺激となってしまう。それはまた、長引くが故にネックとなる。

 

色々と睡眠が滞っていて、質が下がっていたのだと思う。それに加え、早朝に隣人の車の音で目が覚める。そこからまた眠りに就くものの、気が付けばいつもより寝坊している。

この時点で落胆してしまう。とにかく早く起きていたいのだ。それがあると、理想的な一日の循環になる。早く床に就き、早く目覚める。そのリズムをどうしても得たい。それで日常が円滑になると思ってしまう。

いや、実際にその経験がある。それが大きく、日々の規則となっている。

この考えは病的なのだろうか。でも、適切な心身のケアをするには、それが大切なのだ。

 

考えられる好ましくない思考と言えば、夜のどの時間に眠るかだ。鉄則を柔軟に変えていければ良いけれど、どうにも拘ってしまう。遅く起きたのであれば、遅くに眠れば良い。遅くに朝食を食べたのであれば、遅くに昼食を食べれば良い。でも、そのように考えられないのがネックだ。

習慣による擬似的な無理のしすぎだろうか。在りたい日々を得るために、活動的な生活を送ろうとしてしまう。

そうやって過ごすことによって、自尊心を得たいと思っているのだ。誰からも責められないような日々は、可能性を存分に活かすことで得られる。そう思ってしまっている。それが食事なり、内的な習慣の務めで現れてしまう。

あるいは、まだ親を喜ばせたいのかだ。以前の自分は、病的に無理をしてしまっていた。親の感情を盲目的に捉え、その感情と体調コンプレックスが重なっていた。健全な心身を得ることにより、親を安心させようとしていたのだ。そうやって無理をし、身体を上向かせようとしていた。

それによって自分も安心を得ようとしていた。自己を守ろうとしていたのだった。それがある。

そのどちらもあるのだろう。そんな気がしてくる。主に後者は、その残滓がまだ残っている。病的な気が優位に立っているのだ。

 

目覚めてからすぐ、無理をして身体を起こす。水分補給も兼ねた食前の漢方を飲む。その後に感じたのが、頭がぐらぐらして重かったことと、内臓がまだ動き出していないことだった。漢方は食欲を促進させる薬だけれど、その効果はほとんどなかった。胃の元々の状態が悪ければ、そのようになるのも必然だろう。

すぐに無理をして起きたことを後悔した。内部信号についての認知を得たというのに、また無理をして起きてしまった。これだからゆっくり寝ておこうと意識していたのに。

 

ありのままの内的な声、内部信号を見逃す病的な気。もうどうしたものか解らない。これだから病気なのだろう。病的な精神を持ってしまっている。

朝食は振るわなかったし、その後に散歩へも出られなかった。これで在りたい日々からまた遠くなってしまった。どうにも色々な面で無惨だ。

 

昼食は良かったものの、どうにもこうにもだ。散歩へも出たかったし、好調を軌道に乗せたかったのだった。

夕べは久し振りに、真に調子が良かった。そこまで腹が減っていた訳ではなかったけれど、盛ったご飯がするする無くなっていった。早期膨満感の欠片もなかった。本当に久し振りの感触があった。

これだけの調子があれば、それは太るだろうと思った。その反対に、この調子が当たり前でなければ、それは太らないだろうとも思っていた。

好調を阻む病的な気。勢いが持続すれば、より調子が上向いたかもしれない。でも、そうはならなかった。それは自分自身に原因があっても、どうにも恨めしい。

ノイローゼとは、人間性の成長の失敗であるらしい。生物学的に見ても、もし邪魔されずに成長し、発達を遂げたとすれば、当然そうなるべきだったはずの姿が明確にあった。でも、それが何らかの理由によって得られなかったために、人格成長の失敗としてノイローゼが生じる

それは、人間性や個人の可能性が失われたためだそう。世間が狭かったのもあるし、人の意識も狭くなっていた。能力が制止されていたのだったマズローはそう記している。

聴衆の前で演奏できなかった優れたピアニストや、高所や群衆を避けざるを得ない恐怖症患者がいる。勉強の出来ない人、眠れない人、たくさん食べられない人は、盲目になった人と同じくらい、確かに人間性の萎縮した人だそう。

このような大人になるとは思っていなかったな。早くも人生の二十年と一ヶ月が過ぎた。

未だに病人として生きているとは思っていなかった。どこか楽観的な見方をしていたのか、何も考えていなかったのかは分からない。でも、どちらにせよ、こういった大人になっているとは思っていなかった。

 

現実を生き、現実の生身の人間と触れ合わなければならない。そうしなければ、病が癒えることはない。その暁を迎えなければ、このままの日々が続く。神経を高ぶらせてしまい、欠乏症に足を取られるばかり。まともな生活が出来ない日々だ。

それがいつまでも続いてしまえば、廃人同然となる。自分は、人の手を借りなければ生きていけない。その手を借りることが出来なくなってしまえば、朽ちて果てるしかないのだろう。きっとそうだ。

いつか誰かと慰めあっていたい。そんな映像を浮かべている。どんな相手か分からないけれど、そう思ったりする。

「お互いに普通になれなかったね。皆そうだよね。誰しもそんなものだよね」と、そう語り合っていたい。

 

いつか旧交を取り戻したいけれど、それはどうにも難しそうだ。

あるとすれば、次の成人式だろうか。例年であれば、近所の施設に新成人が集まる。でも、昨今はウイルスが蔓延している。それが沈静化するのは、最低でも数年はかかるそう。そう考えれば、もうどうなるか分からない。

フリースクールデイケアも、もう意識の隅から消えている。その選択肢はどうにも現実的ではない。人の居る所に出向くのは、心身にたたる。最近では、すっかりその意欲がなくなった。

現実を生きなければならないのであれば、内的に忙しく過ごしても意味がないのだろう。昇華や代償では何も得られない。必要なのは、現実での感触。至高の喜びだ。それが得られない擬似的な習慣は、全く意味をなさないと思う。

となると、こうやってブログを記すことの意義を考えたくなる。書きたいという純な気持ちも薄れている。日記は好きに書けるけれど、ブログで優れたものを書こうとすると辛くなる。どうにも大変だ。

ブログに献身するのは、現実生活を放棄しているようなもの。それは病状を肯定しているのだ。病状がある限り、記すことが生まれる。それを記して生きていこうとするのは、全うな好ましいものだろうか。

文筆や、バーチャル空間での活動が活路なのか、あるいはそれを活路だと信じたいのか、よく解らない。それしかないと思ってはいても、それで良いのかと思っている。

何を目指しているのかが見えなくなっている。ブログもあまり楽しめない。

ブログなり、文筆と福祉で最低限生きるのか、はたまた現実を生きるのか、そのどちらも先が見えない。

 

「病気とは、自分たちにとって、不都合なものを願うために起こるのである」

人間性の萎縮というのは、可逆的であり、また非可逆的でもあるそう。葛藤そのものは、真に無感動な人、絶望的な人、希望、努力、対応を断念した人々を見れば、比較的健康な印であることが解るそう。

ノイローゼは、対照的に非常に望みの持てる事柄であるとのこと。そのような人は、なおも人間が人間であることによって持つ遺産なり、基本的欲求の満足に手を伸ばしている。それは、自己実現や完全な人間向かっての、おずおずした効果の上がらない努力と言って良いかもしれないそう。

萎縮というのは、可逆的になり得る。それは往々にして、欲求の満足が問題を解決するそう。とにかく愛されることや、とにかく尊敬されること。それが効果をあげる。

届きそうで届かないゴールがある。そのゴールとは、欲求を階層的に満たすこと。

そうやって健康を得てしまえば、日常を縛る拘束衣が消える。そうなれば、食事が辛くなくなるはずだ。美味しくご飯を食べられる。人とも仲良くできる。歯が削れることもなくなる。全てが楽になる。

 

そんな未来を迎えてみたい。ささやかな望みがある。

その時に文筆のエネルギーが残っているかは、その時に考えればよい。そうだろう。そうするしかない。

 

これからどんな日々が待っているだろう。

 

また明日。

 

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