欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

不自由の骨格 根底で繋がる欲求

今日も祖母宅に居る。最近はずいぶんと涼しくなった。十分楽に過ごせるような日々になっている。全く暑くない。

午後の散歩では、日が照ると少し苦しさを感じた。それでも、日が陰れば問題はなかった。外気は初夏のような感じがした。風や色や匂いも、心地よい夏の風情があった。まだかんかん照りにならない頃と似ていた。

部屋ではエアコンを点けていない。その空間では、半袖半ズボンが丁度よい。それどころか、脂肪のない自分にとって、身体の表面が冷えているくらいだ。

 

ようやく涼しくなった。天気予報でも残暑という言葉が聞こえた。やっと夏の峠は越えたのだろう。

夏の盛りは一ヶ月程だったと思う。梅雨明けから怒涛の晴れが続き、そのまま暑さのピークへと向かっていった。

そう考えれば早いものだ。もう間もなく九月を迎える。一ヶ月後を考えれば、かなり涼しくなっているだろう。ワクチンを打つ頃になれば、長袖を着ているはずだ。家の裏にはすすきが生えていた。

今日は午前にも歩いた。近所の図書館を中心に、半径数百メートルを一周する。十五分から二十分の散歩だった。

爽快感が半分あったけれど、栄養不良感も半分した。歩きの後半と、帰宅直後にそう思っていた。外気を感じて爽快だったものの、すこしきつさもあったのだった。

でも、その後にマズローの原典にあたる。それを四十五分くらい読む。その最中は辛くなかった。歩きの疲れはだんだんと収まっていった。それなりの集中力もあり、難解な文章を読むことが出来た。

最近の平均的な体力はこうだ。今日はそこそこの日だろう。大体を平気に済ませた。

いつもは朝のルーティーン後に辛くなることがあるけれど、それはなかった。散歩へ出られて、マズローの文にもあたれる。それなりの体力はあるはずだ。

 

その後は小休憩をする。音声配信を聴きながらゲームをする。遊びながら多少の勉強を含めている。これもいつもの流れだ。

自己実現者の特徴として、"遊びと仕事が融合している"と記されていた。自分にとっては、音声学習がそれだと思う。遊びでもあり、義務でもある。その逆でもあり、唯一マズローの表現が理解できる事柄だ。

それにブログが含まれていないのは、どうにも悔やまれる。

 

音声を聴き始めると、だんだんと腹が動き出してきた。そこで独特な空腹感も生まれる。快く食欲が湧く感じではないけれど、胃が縮むような感覚があった。朝食で膨らんだ胃袋が、空腹になったことで縮んでいるような感覚。きしむようで苦しいような、そんな表現でありつつ、調子の良い証しでもある。間もなく食前の漢方を飲む。

ただ、残念なことに、そこから調子は上向かなかった。食前の漢方を飲んだ後では、状態が良くなる時とそれ以外の時がある。今回は後者だった。漢方の前に食欲が湧かなければ、どうにも苦しくなる。すんなりいかせてもらえない時がある。

前述の独特の感触があっても、胃が急停止することはある。直近ではそれがよくあり、食事が振るわない時が多い。

微妙な塩梅が続いている。それなりの体力はあるものの、活動的にはいられない程度だ。

 

以前の調子が噛み合っていた時は、格段に良かったのだろう。消化が良く、食欲もあった。それで元気になることが出来、活動によって更に上向いていた。

そんな時があったと思う。そんな気がする。それをどこかで覚えている。それは自分の確かな過去なのだけれど、おぼろ気にしか思い出せない。どうにも忘れてしまっている。

それは何故だろう。思い出そうとしないからだろうか。あるいは、存続のために記憶を消しているのだろうか。あまりに刺激の強い出来事は、脳の細胞が死ぬことで記憶できないのだそう。

ショッキングな出来事だったために、記憶がまるで消えてしまったのだろうか?だとすれば、一体どうなっているのだろう。良い記憶だったはずなのに、何故忘れてしまう?

現在感じているような、生の調子の悪さに引っ張られるのだろうか。やはりどうにも解らない。

 

食事では早期膨満感もあり、よく食べられなかった。明らかに腹が動いていなかった。どうにも不調感がある。

そこから祖母宅に移動するものの、消化もあまり良くない。間食を食べることが出来ず、スポーツドリンクで腹を収めるしかなかった。どうにも冴えず終いとなってしまった。

 

直近ではじり貧の様相だ。体重もマイナスに傾く寸前にいる。これからの夜の計測では、どのようになるか分からない。

また気持ちの良い満腹が遠のいている。直近ではそれがない。それがちょっとした打撃となっている。そうなれば太らないし、体力も付かない。その水準では、便通後に辛くなったり、マズローの難解さにやられることがある。状態はまちまちだけれど、全体的にはあまり良くない。

 

深く思い詰めているわけではないと思う。表層の自我はそう思っている。強い不安があれば、安全が阻害されてしまうだろう。安全感の欠如は、病気の悪化をもたらす。

問題の根底にあるものは解っているのだ。基本欲求を満足させるしかない。それが出来ないのならば、一喜一憂に倣っていれば良い。いつかは自然と良くなるものだ。

極度に悪化することがなければ、すべてさしたる問題ではないのだ。今がまさにそうなのだろう。

 

でも、無意識下には何かがあるのかもしれない。体調についてなのか、それにまつわる不安感か。はたまたブログのことか、可能性を活かして在りたい日々を得たいのか、そのどれかだろうか。

いや、そのどれもだろう。根底でそれらは繋がっている。それが基本欲求を満たしたいということであり、在りたい日々を生きたいということだ。

最近は夢をよく見る。無意識が発現されているのだろう。恐ろしい夢はあまり見ない。直近では、祖母宅でてんやわんや過ごしている夢が多い。あまり覚えていないけれど、賑やかさを求めているのだと思う。それと対照的に、静的な至高感も求めている。

これからの散歩で上向いていけば良い。これからは、恐らく落ち着いた天候が続く。気温も過ごしやすい領域になるだろう。そこでしっかり歩いていきたい。

ご飯一膳と味噌汁数口だけでは、体力が付かない。それでは数字が上向かないのも必定。微妙な調子が続いてしまえば、じり貧でエネルギー収支が傾いていく。やはり必要なのは、根本から身体を上向かせること。本質的なケアをし、腹を空かせることだ。

まず必要なのは、身体を動かすこと。それをすることだ。それは今までの考察で解っている。着実にこなしていくこと。それだけを考えれば良い。それが滞っている内も、それに努めようと考えるだけで良い。

 

今の状態では、極度に悪くなることはない。大きな懸案もないはず。過度に神経が高ぶらなければ平気だ。

最近はそうなっていないし、これからもそれが続くだろう。だとすれば、一喜一憂に倣っていれば良い。喜を待ってぐっと堪えること。

 

それでも、そうやって過ごすことが出来たとしても、いつかは焦ってしまうだろう。それに何かの不安材料が生まれることもある。そのような不確定な要素もあるのだ。

だとしても、やはりすべき行いは変わらない。運動をすることだ。身体のストレスを低減し、調子の歯車を動かすこと。

第一にすべきことは、睡眠の工夫でも、食事の工夫でもないと思う。最低限の満腹を確保できているのならば、歩くことだ。運動をすること。そこから変わっていくと思う。

とにかく運動をして腹を減らし、美味しく食事を頂きたい。それが全て。

総合的に言えば、基本欲求を粗方満たし、健康になりたいということ。それだけだ。それさえ得られたのなら、もう何も要らない。

悩みなんてそれだけです。生まれついた星の本質を知りたいだけ。どうやったら自由になれるかを知りたい。そして解放された日々を生きたい。それだけなのです。

 

自分を慰めるためにこう記そう。マズローの原典から引用する。前回も記したけれど、また記す。

勉強のできない人や、眠れない人、たくさん食べられない人、盲目になった人と同じくらい、確かに、人間性の萎縮した人である。

人間性の最高価値  40P

(太字加工は筆者)

この事実に打ちのめされている訳ではなく、確かな現実として受け止めつつある。「今の状態は仕方のないものだ」と、受容するための重要な認知となっている。最近はこの言葉がよく浮かぶ。ネガティブな意味合いではあっても、ある意味自然な状態であると認識できる。

基本欲求が満たせない内は、一喜一憂に倣うこと。極度に神経を高ぶらせずにいられたのなら、それで良い。たくさん食べられないのは仕方のないことだ。負の領域の循環に身を任せれば良い。

一言で表せば、「病人として過ごせば良い」ということだ。世の中には、そういう人がたくさんいる。働けない人もたくさんいるだろう。様々な不自由が存在する。若年でだって不自由がある。それは仕方のないことだ。それを認識すること。強く自責をしない方が良い。

いついかなる時代も、不自由を負う人間は生まれるのだ。

自分の運命のようなものが浮かぶ。負の運命と、正の運命。それが見えつつある。正が大きくある分、負も果てしなく大きい。少しでも歯車が狂えば、負の運命に引きずり回されるのだろう。そんな気がする。

自己における判断もそうだし、周囲の出来不出来でもそうだ。時代や環境もそう。

それらの歯車は、既に壊れているのかもしれない。それが永遠のものなのか、改善可能なものなのか、それは分からない。

 

かつての文豪や才人のように、極端な人生を送るしかないのだろうか。不自由や病魔に蝕まれ、魂が擦りきれる日々。それに覆われて押し潰されていくなかで、唯一無二の灯が燃える。

他の人よりも早く蝋が尽きるか、外からの力で灯がなくなるか、その両方しかないのかもしれない。ただ丈夫に燃え尽きるなど、死ぬまで手に入れられない。それは死んでも得られない。

そんな気がしてくる。自分は、何故ここまで極端なのだろうか。

偉大な人間になれなくとも良い。ただ幸せな日々を送りたい。それだけです。それだけで良いのです。

自分はいつどうなるのだろう。それは良くも悪くもです。

未来は不確定でも、今は先が見えない。先がないという要素だけがよく見える。

もっと学ぼう。時間も何もかもが足りない。

 

また明日。

 

参考文献: