欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

未来が求めた出来事 記憶の意味と印

今日は晴れている。変わらず祖母宅へ来ていて、部屋には爽やかな風が吹いている。木々のさやぐ音が心地よい。快適で暑くなく、風は少し冷たいくらいだ。エアコンは点けず、長袖長ズボンで過ごしている。部屋の静寂と、窓から聞こえる外の音。午後の早い時間だ。

 

今年も残すところ四ヶ月だそう。もう季節は変わった。変化の濃淡のなかで、その差を大きく感じつつある。すぐに秋が深まり、そこから冬に入るのだろう。それはあっという間だ。その時に振り返ってみれば、そう感じられると思う。

一日一日が確かに与えられていたにも関わらず、それらを思い出せなくなる。過ぎ去りし日をもったいなく思ってしまう。そんな日に向かっている気がする。今の日々がその最中なのだろう。

今年は何をしたのだろう。よく覚えていない。いま振り返ってもそう思える。記憶するに値する日がなかったのだろうか。

記憶とは、思い出すことで定着する。となると、思い出したくなるような出来事がなかったのか。そう考えると、どうにも虚しくなる。

大体が同じような連続だった。内的に費やすような日々。ブログを継続して記したものの、それに成果はない。

本を読み、文を記す。基本的に在宅で過ごし、日々の細かな習慣をこなす。たまに散歩へ出たり、通院の日を迎え、少し賑やかなスーパーへ寄ったりする。

 

誰かと談笑するような時間がなかった。それが問題だったのだろう。楽しさや喜びもなかったし、自分を有用に思ってもらえていると感じることもなかった。行く場所がなく、会う人も居ない。まさに基本欲求の満足の欠乏があった。

ブログの成果もなく、あったのは変動する体調のみ。痛みと一喜一憂は、変わらずあり続けた。そしてその集積がブログだ。現実を生きられない分だけ、その足跡が積み重なった。およそ一年分が溜まっている。

それらは何かの意義を持つのだろうか。いつかの幸福な日々に繋がっていれば良い。特異な生まれついた星と、積み重ねた日々。それがいつか花開いてくれたら良い。

体力はそれなりだ。最低限の満腹を何とか維持している。きつい時もあるけれど、良い時もある。そのまちまちな塩梅が続いている。

最近は天候が幸いし、歩くことが出来ている。体調もそれなりで、体力的にも歩くことが出来る。その機を逃すまいと、精力的に散歩へ務めている。

 

それでも、胃袋の状態はまちまちだ。たまに良い時もあるけれど、振るわない時もある。総合すれば、体重が増える程の調子ではない。日々の最低限の体力を賄える程度だ。痩せぎすの身体は変わらない。

春頃の体重と比べると、一・五㎏ほど痩せている。自分の体重の比重で言えば、かなりの下げ幅だ。

最低限付いていた腹の肉は、薄い膜のようになってしまった。以前もそのようなものであっても、さらに薄くなっている。肉の層とはほど遠い。

 

胃の上限も上げられず、数字もよくなっていない。

歩くことの効果が表れず、胃の状態が快くなっていない。食欲もそうだし、早期膨満感もそうだ。どうにもめっきり変わらない。

状態が上向かない限り、意識的に食事を抑えるしかない。無理をしすぎないようにすること。抑えて収める。それが持続されていけば、だんだんと状態も落ち着くはず。そうなれば、より食べられるような時が増えると思っていた。

でも、どうにもそうはいかない。それだけでは上向かないのだ。腹八分を心掛けても、胃袋を伸縮させるまでには至らない。食欲のむらは出てくるし、膨満感も発生してしまう。

 

やはり根本から変えていくことだ。それは歩くこと。それしか思い付かない。

それで良いはずだ。春頃に上向いたのは、散歩を心掛けていたから。冬はそこまで調子が良くなかった。春になり、散歩をすることで調子が上向いたのだった。

 

最低限の体力は確保できている。そうなれば、継続して歩くことだ。それをするしかない。天候も良くなっているし、少し明るい要素が増えている。少しずつ励むことだ。

昨年から引き続き、祖母宅へ避暑通いに来ている。暑さはもう和らいだけれど、まだこちらへ来ている。

どうにも自宅の部屋は狭い。午前に過ごすのは平気でも、午後もその空間に居るとなると苦しくなる。部屋の圧迫感もあるし、変わらない景色を見るのが苦しい。一日同じ場所で過ごすと、より気が滅入ってしまう。

こちらへ移動する日々のルーティーンがある。昼食を食べ、休憩してからやって来る。主に母親に送り迎えをしてもらう。往復十分程の手間を割いてもらっている。

昼食後には苦しくなったり、一方で軽く収まったりもする。自分は、身体の不調が不安を招くことが多い。移動中に苦しくなることもあるし、そもそも体調が悪い時もある。

去年と同じように、今年も色々なしんどさがあった。それはよく覚えている。同じような体験を繰り返している。

 

祖母は母にこう言う。「送り迎えご苦労さま」と。母親は平気だと言うのだけれど、それは本心の半分だろう。家ではよく自立をしろと言っている。

送り迎えが苦でないのは確かだと思う。その一方で、自立をしろとも思っている。それも本心なのだろう。

母と喧嘩のような雰囲気になると、毎回「自分で物を買ってみろ」とか、「自分で行き帰りをしてみろ」と言う。自立をしてほしいというのは、たっての願いなのだろう。本音をぶちまけたくなる時には、それを毎回言う。息子を責める決まり文句となっている。

 

自分もその不甲斐なさを感じている。何も出来ないことを苦しく思っている。その気持ちだけは一丁前にあるし、申し訳ない。実際世話に甘えているのだろう。日々当たり前に思いつつある。

それでも、どうにも不自由はある。それは確かだ。それを認めてほしい。責められたくはないのだ。

糾弾されたのなら、自分は無理をするだろう。安全や尊厳、自分らしさがなければ、心身に由々しきことが起こる。そこを何とか掻い潜ろうとし、無理をして励んでしまう。そうなってしまえば、より事態が悪くなる。

 

抗えない宿命がある。生まれつきの性質があり、それに伴う扱いづらさがある。それらを適切にケアするのは難しいのだ。

環境などの要因もあり、努力の限界がある。過去の変えられない出来事は、もう未来の今に繋がってしまっているのだ。それがこれから先にも繋がっている。不可逆なものもが生まれてしまっているのだ。

どうにもならない不自由はある。それを理解してほしい。そう思った。

 

誰にでも困難は降りかかる。今は不自由を抱えていなくとも、誰もがいつかは抱えてしまう。自分は、それを既に抱えている。

今の社会は、老いの不自由には優しいような気がする。若年の自分にだって、同じようなネックがある。誰かが支えようとしなければならないのなら、自分にもそうしてほしい。それとまったく同じことなのだ。

せめて親ならば、リアルな命の引き継ぎについて、生の人道的な認識をもってもらいたい。過去にすべてを抱き合わせ、子供を産もうと決めたのだ。その約束事を認めてほしい。それを重く思ってほしい。それだけは主張したい。

もちろん自分も努力する。すべての結末が悲劇となる訳ではない。すべては現実によって求められてきた。

 

過去の辛苦や記憶は、ひとつの未来によって求められたのだと思う。在るべき日々は確かに存在する。過去の痛手や感情は、自分の性が求めたために起こった。求められる日々によってもたらされたのだ。

例え生まれついた親が違っても、周囲の大人が違っても、根底の性質が同じような出来事に見舞われただろう。どんな不出来な人間に相手をされても、どんなに過酷な環境であっても、本質的には同じような体験をしたと思う。

どんな環境においても、すべての結果には原因がある。それは在るべき日々に引き付けるための印だ。同じ自分自身であれば、どんな環境であれ、同じような痛手や記憶を得るはずだ。

 

そのなかで、無理をすることを止めたい。そう思っている。無理をすることは無理なのだ。当たり前のことでも、それを意識するのは大切なのだと思う。出来ないことはある。

そうなのであれば、やれないことをやらずにいることも大切だろう。人の世話になっていたとしても、それも仕方ない。すべては仕方ないのだ。世話をかける側も、世話をする側も、すべては仕方ないのだ。

お互いの立場において、リアルで生のことがある。その恥も罪も、全員が受け容れるしかない。そう思うしかないのだと思う。

誰も責められないし、誰かを責めても始まらない。誰も責められたくないけれど、みな同じように責めがある。きっとそうなのだと思う。

 

だとすれば、一致団結することが賢明だろう。ひとつの在るべき日々に向かい、皆で努力し務めること。そうした方が良い。そうするしかない。それで良いし、それが良い。

そのために、当人はたゆまぬ努力を続けること。

 

未来は不確定だ。自分の欠乏症においてはそう。すぐに良くなっていく。それと似たように、未来全般も変わっていく。今は静的な変化が起こっているのだ。それは解りにくくとも、いつかの大きな変化に近づいている。そう思っている。

元気になることが出来たとしても、人間性の萎縮を感じそうだ。安全の欲求を十分満足しても、建設的な社交欲求を満たせないと思う。

そうなれば、本来ある健全な姿を実現することが出来ないだろう。これが自己の喪失であり、人間成長の失敗だ。基本欲求が満たせなくなれば、人はノイローゼに陥る。病的に神経を高ぶらせるのだ。

 

どうすれば満足できるのだろう。自分は何が好きなのだろう。何に喜びを感じるのだろう。それらを知ることが大切なのだと思う。

現実で欲求を満たし、現実を生きること。それをしつつ、不定期でインターネットに足跡を残す。それが理想に思える。文筆よりも、もっと相応しい献身先があるように思える。

成長欲求が湧くような時は、自分の得手不得手も、喜びも、把握することが出来ているのだろう。だとすれば、あとはそれに熱心に励めば良い。その自己実現的価値を追求すれば、おのずと幸福が随伴してくる、基本欲求はすべて満たされ、正の存在領域を生きることが出来る。

 

そう頭では解っていても、どうにも選択が出来ない。選択肢がなくなってしまった。

今の日々も、既にいつかの未来に繋がっている。努力を怠れば、それが未来に繋がる。はたま努力を続ければ、それも未来に繋がる。

濃縮した変化のある日々を迎えたい。一日一日を慈しみたい。

 

また明日。

 

参考文献: