欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

隠された不自由 価値観の変遷

今日は晴れている。直近では連日晴れ模様だ。変わらず祖母宅へ移動し、少し広い部屋で過ごしている。既に日が傾いている午後。日差しは眩しくなり、より光度が増している。

最近はもはや寒いくらいだ。朝晩が特にそう。秋の中頃のような、終わりくらいの天候に思える。服装も寝床も冬仕様だ。

今朝の冷え込みは特にそうだった。今シーズン一番の冷え込みだったそう。目覚めから日が差していたため、放射冷却が起こったのだと思う。それもあってよく冷えた。朝の日差しの力では、なかなか部屋が暖まらなかった。そのために、着替えで薄着をして失敗した。身体が冷えて仕方がなかった。

今後の天気予報を見れば、二十五度前後で落ち着くとのこと。より過ごしやすい天気になるのだろう。ただ、体力や脂肪のない人間にとって、身体が冷えてしまうくらいではある。

残暑が感じられない今年。季節の濃淡は薄かったように思える。

直近の体調は良い方だ。ようやく散歩の効果が表れたのか、気持ち良く満腹になる日が増えてきた。体力はなくなっていないし、継続して最低限の栄養を確保していると思う。

厳密には体調のでこぼこがあったり、食欲のむらがあったりする。腹を下したりもするし、集中力がない時もある。そのなかで、平均してそれなりの体力を維持している。

 

散歩も継続している。最近は天候も良く、ほぼ毎日歩いている。午前と午後の二回、それぞれ十五分ずつ歩く。午前は自宅の周辺を歩き、午後は祖母宅の近くを歩く。軽く歩き終えて爽快な時もあるし、少しきつさを感じる時もある。

歩く距離を春頃と比べれば、まだまだな水準ではある。それでも、一・二ヶ月前の水準と比べれば、かなり上向いていると思う。多少でも歩けるのは、十分な体力の証だと思う。

次の通院では、十分な状態を伝えられると思う。今の日々を伝えれば、まさに「十分ですね」と言われると思う。以前がそうだったのだ。

 

歩くことに加え、難解な本も読める。考えれば、集中力が診察の尺度になっていると思う。今のドクターはそうだ。だとすれば、申し分ない評価を得られると思う。

安定感も増している。食欲の全体的な向上と、胃袋の持久力の確保。それに加え、無理をして食べすぎないことも増えてきた。それらが重なれば、最低限の体力が得られる。

その体力が得られたら、少し意欲も湧く。歩きたくもなるだろう。そこで少しずつ歩くことにより、更に身体の状態が上向いていく。

こうやって歯車を回していけたら良い。その理想に近付きつつあるこの頃だ。

だんだんと余裕が生まれてきているのか、少し暇を覚えつつある。何だか退屈だ。毎日のルーティーンをこなすことに対し、少し嫌気が差している。

どこにも出掛けることがなく、本を読んで思考を記す毎日。細かな趣味はありつつも、心から刺激的で喜ばしいものではない。日常がつまらなく思えてきた。

出掛けたいという気持ちや、誰かと過ごしたいという気持ちがある。社会的な立場を得たいと思うし、在りたい日々を思い描いている。

それらの気持ちが浮かぶのは、少しずつ安全感が増しているからなのだろう。だんだんと高次の基本欲求が湧きつつある。

 

どうやって日々を費やせば良いか解らない。それは贅沢な悩みであっても、個人的には重大だ。暇をひけらかしたいのではなく、病を癒すような出来事に触れられないのだ。その出来事が近くにない。

病人廃人を脱却するための選択肢がない。誰かの世話のなかで、無為に時を費やしてばかりだ。

 

一番は基本欲求の欠乏を満たすことだ。今は基礎的な体力がある。それを携え、誰かに会いに行かなければならない。そうやって刺激や喜びを得てこそ、神経の高ぶりが収まる。ノイローゼが回復されるのだ。

でも、現実の世界に切っ掛けがない。行く場所があるにはあっても、どうにも足が進まない。様々な事情があり、家の外に居場所がない。会う人も居ないし、所属や役割もない。愛も尊厳も何もない。

それらの願望の欠乏により、人間性が萎縮してしまっている。それによって、自分は病的で不自由を抱えている。神経が高ぶりやすいし、たくさんご飯が食べられない。 

 

自由で束縛のない日に何をするか。どうにも代償や昇華に務めてしまっている。それは空虚な習慣で、擬似的に自己を回復させようとしているに過ぎない。擬似的な成長を試みたとしても、何も得られないのだ。

遊びや好きなインプットに費やせば良いのだろうけれど、それがどうにも解らない。自分は何が好きで、何に喜びを感じるか見えなくなった。ブログは擬似的な努力だし、読書も義務的なものとなっている。

未来の世界において、遊びと仕事を隔てることはナンセンスなのだそう。未来の仕事を予測する本に記されていた。これはマズロー自己実現者の特徴と重なる。マズローの理論も引用されていたのだった。いかにその哲学が画期的だったことが解る。時代が進むにつれ、ますます輝きを増すマズロー

これからは、産業革命以前のような社会になるかもしれないとのこと。技術や価値観が変わり、働き方が変わる。常識も流動的になっていく。

ここからは、知的資本を強化し、専門分野の知識や技能を身に付ける必要があるそう。それは中世の職人の世界を彷彿とさせる。そうなれば、政府や組織に対する認識も変わっていく。交換可能なゼネラリスト的技能よりも、優れたスペシャリスト的技能が台頭する世界に変わる。

 

何かの偏りがある人間にとって、それはアドバンテージとなると思う。社会の価値観の変化が変わっていく。社会通念が変わっていけば、自己の実現を阻むものがなくなっていくのだろう。

言わば時代が追い付くのかもしれない。時代の病気や概念は、社会の健全化によって刷新されていく。それらの扱いは変わる。価値観や技術が変わってしまえば、社会にとって都合の良い人格は変わるのだ。それらは普遍的なものではない。

現代に求められる人格は、社交的でコミュニケーションに明るく、普通で健康な人格なのだろう。組織に属して働くのが当たり前であるとされ、学校に適応できるか否かがその物差しとなる。

時代の価値観、常識、概念は、必ずしも正しいとは限らない。時代が変わってしまえば、あっさり否定されるものかもしれない。

そのなかで、もちろん普遍的な不自由はある。困難な問題をはらむ性質はある。そういったものは、社会が厳密に掬い取らなければならない。

 

でも、隠された不自由というものもある。社会が健全になればなるほど、それは顕在化するのだと思う。社会に余裕が生まれた後、優れた洞察者が偏見なく人を見る必要がある。

社会が洗練されていけば、より概念の精密度が上がっていく。今まで病的なものと扱われていたものが、人間性を持ったものとして扱われる。それこそがマズローの心理学であり、アーロン博士の気付きだ。

少し陳腐な言い方をすれば、多様性を真に発掘できるか否かだろう。いかに人間性を肯定的に捉えるか。

すべての不自由を病的なものとして捉えることは、その価値観自体が病的であり得る。病気が明瞭に見えるメガネを磨けば、すべてが病的なものとして見える。それは健全なのだろうか。人間性を明瞭に見るための眼鏡を磨いてほしい。

 

発達障害の対に当たる概念は、ギフテットなのだと思う。否定的人間性と、肯定的人間性。まだまったく学んでいないけれど、そう思う。それについて学びたい。

 

それについて壁にぶち当たる時が来そうだ。社会の概念に対峙する時が来る。

これからの時代で受難を味わうのは、普通の人なのかもしれない。一体どうなのだろう。発達に偏りがある人間が輝くか、普通の人間が意地を見せるか、あるいは全人口の食いぶちを、誰かが賄ってくれるのだろうか。そうなれば、万事解決するのかもしれない。

いずれにせよ、それなりの生活を営むとすれば、遊びなどを通し、創造性を働かせることだ。そして創造的に生きること。普通の人も、偏った人も、皆に所得が分配されようが、創造的でなければひもじい思いをすると思う。

遊びを通じて専門的な技能を身に付けること。情熱を持ち続け、温かな現実の関係を構築すること。それが大切。

 

諦めるのはまだ早い。その一言が浮かんだ。誰が見ているかは分からないけれど、そう思った。今ある価値観は、いつか取って変わる可能性がある。社会通念、教育、医療、病名、何もかもが不確定なのだ。それに縛られることはない。

もっと視野を広げ、学ぶしかない。ただ、そのためには環境の資本が欠かせない。それでも、それがある人は存分に活かせば良い。とにかく学び、賢く生きる。それがすべてだ。

取り敢えず生き延びよう。今はそれだけで良い。話はそこからだ。

 

また明日。

 

参考文献: