欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

有利な境遇 自在な時間と投資

昨日は通院日だった。その日は明け、翌日の午後に記している。軽く食事を終え、変わらず祖母宅へやって来た。薄い雲は広がっているものの、晴れて光が差している。

 

昨日も同じような流れがあった。通院は難なく終わり、昼前に帰宅した。空腹感があり、昼食を楽に終えることが出来た。そこから祖母宅に移動する。それらの行程を終えても、ほとんど疲労感はなかった。

それは良好な証だと思う。かつての好調時を思い出した。通院後に散歩へ行っていた時があり、内的に費やすことも出来ていた。まさに難なく終えられた時。その頃と近い感触があった。

来月はどうなるだろうか。そんなことを思った。今月は基礎的な体力があった。それは日々歩いたから得られたのだろう。日頃の推察は大体当たっている。

欠乏を満たすための原資は確保している。それを認識していた。それがあれば、許容範囲内で活動することが出来る。それを実際にすれば良い。今月の診察では、それを改めて認識することが出来た。

 

来月も天候は落ち着いているだろう。大嵐か猛暑でなければ良い。最近の天候では、歩けない日はあまりない。中一日程度の休みにはなっても、それが長く続くことはない。

それはとても大きいことだ。その条件が整うのはありがたい。日々歩くことが出来れば、大きな安定材料となる。

病院に到着して、受付で年金の書類を渡した。そこから待合室で待っていると、相談員の方がいらした。そこで持っていた初診証明書を渡す。

それでやるべきことは終わったよう。母はドクターとの話が必要かと尋ねたけれど、それは必要なかった。あとはドクターが診断書を記して下されば良いそう。書類の控えを取ってもらい、それで話は終了した。

 

診察室では、いつも通りの診察が行われた。年金の話はなく、体調の確認だけで済んだ。

落ち着いた体調のことを告げる。それには何の曇りもなかった。ドクターも日々のネックを把握していて、「歩けるようになったから良いですよね」と仰った。実際にその通りで、自分は本心で頷いた。食欲なども上向いたことを伝える。

散歩をしたり、内的に費やしたり、祖母宅へ移動するルーティーンも共有した。集中力もあり、気分が落ち込むこともない。「状態は良いですね」と収まった。

 

それ以外には何もなく、診察は終了した。ただ、一つ言い忘れたことがあった。今回の診察では、ワクチン接種後用の解熱剤を処方してもらう予定だった。それをすっかり忘れていた。診察後に母に確認され、その時に気が付いた。

「接種は来月の診察の後だから、来月に解熱剤を出しておきましょうね」という話だった。それをドクターも自分も忘れていた。

「そのことを伝えろ」と母に言われたけれど、もう諦める気が満ちていた。どうにも気が引けてしまっていた。ドクターは先月の話を忘れているのだ。

「解熱剤を出してもらう予定だったのですが」と伝えても、看護婦やドクターはまごつくだろう。それがすぐに浮かんだ。その時の感情を感じるのが辛い。それにかき乱される。それは一瞬であっても、神経が高ぶる。

恥ずかしく感じ、話を押し進める勇気が湧かなかった

 

これは自分が未熟なのか、青年期特有のものかは解らない。あるいは発達が偏っているとでも言われるのだろうか。どうにも尻込みしてしまった。それに逃げ道がありそうだった。自分達で何とかすれば良いのだ、と、そう思った。もう良いと母に伝えた。

それで通院は終わり、帰路に就いた。今月も大型のスーパーには寄らず、地元の店に寄った。そこで昼食を買い、昼前に自宅へ着く。昼食を済ませ、祖母宅へ移動する。

 

診断書は、次の診察までに出来上がるのだろう。父に貰いに行ってもらう。そこからは最後の署名をし、銀行の情報を記す。そして書類が完成する。後は提出をし、審査の結果を待つ。

「現代の概念と闘うだろう」と記していたけれど、そうはならなかった。あるとすればこれからだろう。審査に通らなかった時だ。

そうなればそれでお終いだろうけれど、大きな遺恨が残ると思う。また感情がぐつぐつと煮える。そうなってしまえば、夢で爆発する時が増える。そうなってしまわないことを祈る。

 

あとはドクターの診断に委ねられる。それは主治医と審査員の二つがあるだろう。それらの壁がある。

主に後者について思っていたけれど、前者でも問題があるのかもしれない。今のドクターは、自分の病態をどのように認識しているのだろう。それがよく解らない。

 

自分は敏感性が禍根だと伝えている。でも、それが不自由を生んでいるとしても、端から見て解りにくいのだろう。神経の高ぶりやノイローゼは、正式な概念には組み込まれていないのだと思う。だとすれば、表層の状態を掬い取るしかない。それが厄介だ。

それがかつての誤診に繋がったのだ。それはほぼ間違いがないことだ。消化管の診断は正しかったけれど、精神的な診断は誤りだった。消化器科のドクターがそうしたのだ。

それは専門外の領域だ。いくら胃袋と頭は繋がっていても、手が伸びすぎていた。そんなことを思う。

 

今の主治医は、今の自分をどう捉えているのだろう。自閉スペクトラム症と捉えるのか、センシティブさによるものと捉えるのか、その二つのどちらかだ。

胃袋の疾患は不定愁訴で正しい。それは簡単に診断が出来るのだろう。ただ、精神の病態は複雑なのだ。本質には何があるか、何が価値で何が悪しきものなのか、その専門的な知見が必要だろう。

それが今の主治医にはあるのか、よく分からない。ないのであれば、この領域に踏み込んではいけないと思う。さもなければ、人を癒すどころか傷を付ける。

 

社交不安症と、消化管の不定愁訴を取り扱ってほしい。それだけだ。それで良い。それでしかないと思っている。他に何がある。自分の病気は自分で決めさせてもらう。その方が健全に思える。医療化学に罹るとすれば、主体的である必要がある。

最低限の要求をするのならば、センシティブさやコミュニケーション能力について、薄弱だと捉えられて良い。それでも、病態はしっかり掬ってほしい。それが前述の二つの病名だ。それだけを拾ってくれたら良い。それしか望まない。

ただ、発達が病的と診断されるかもしれない。引き続きそう思われているのかもしれない。

だとすれば、自分は信頼を失うだろう。関係が瓦解してしまう。そうなってしまえば、二度と可逆的にはなり得ない。強い意思を持って、相手の目の向こうを睨むことになる。

そうならないことを祈る。さて、どうなるのだろう。分からない。そうなってしまうのかもしれない。

 

「センシティブさによる社交不安、神経の高ぶり」

「神経の高ぶりによるストレス」

「基本的欲求の欠乏によるノイローゼ」

「自尊心・体調コンプレックスによる無理のしすぎ」

「上部消化管不定愁訴症候群」

これらが相応しい病名だと思っている。それは自分で決めた。それにも関わらず、「自閉症スペクトラム」「摂食障害」として申請するのかもしれない。

いや、そうなれば面白いかもしれない。現代の病廃人にとって、世渡りはこうなるのだ。それを世に喧伝してしまえば、物議でも醸せようか。ただ、本当に気が狂うけれど、そうやって安全を確保することも出来る。

そう考えれば、一般的な人にも似るのかもしれない。普通に近付くのかもしれない。これが自分の生きざまだ。そう考えれば、それなりの怪我の功名となる。未来ではそんなことを思うかもしれない。

 

病名は自分で決めよう。メンタルの病気であれば、それはよりそうだ。自分が勉強し、自分で病態を知る。そうやって治療を選択することだ。必要に応じて現代の医療科学を頼れば良い。

医療にも性質があり、限界がある。医者もそうだ。罹り方のリテラシーというものがある。

これも一つの勉強だ。そうやって受け止めれば良い。それはこれからの自分の糧になる。

皆さんの血肉を分けて頂けるのならば、かなり助かる。生活の基礎的な支えとなるし、それを活用することが出来る。その額だけで生きるのは難しくても、今の生活に切迫はない。それがしばらく続いていけば、建設的で有意義に用いることが出来る。

親が生活を賄ってくれたら、自分は自由に消費できる。そうやって将来に投資していけば、いつか世の中に還元できる時が来るかもしれない。

いや、その時のために頂くのだ。蓄えるのではなく、大いに使う他しかない。自分の時間に費やし、何かを得ること。そのための公的な援助なのだ。

務めて励みます。それが出来る環境は整っている。これはとても有利なことだ。自己形成に多くの時間を割くことが出来るし、思考だけは一丁前にすることが出来る。生活の切迫もないし、周囲から自立の圧力をかけられることもない。

つまり、自分の時間がたくさんある。いや、二十四時間がそうだ。あるいは半永久的に続いていくかもしれない。好きに時間を操ることが出来、好きに費やすことが出来る。それは自分の財産だ。その環境が構築されているのは、自分の境遇ならではのことだろう。

 

ブログも新しく方向を見つけたい。好きに創造的に記したい。色々な人のスタイルを見ていると、それぞれの型が見えてくる。それは千差万別だ。みな好きに自己を解放させている。そんな気がした。

創造的に生き、創造的に記したい。好きに自己を放ち、足跡を残していく。その道程に満足感があれば良い。好きにやって楽しむことが出来れば、それも一つの報酬となる。その境地に至りたい。

まだ根底には、意欲のマグマがあると思う。

後はワクチンの接種のみ。その壁を越えれば、特に何もなくなる。その時を迎えたい。早く迎えたい。早く身軽になりたい。

すぐ来るのだろうか。今月の通院日は、あっという間にやって来た。それは待望していたものではないからだろう。ワクチンはずっと待ち望んでいる。

徐々に歯車が噛み合えば良い。その気配がしているような、していないような気がする。

 

また明日。

 

参考文献: