欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

気付きと選択の変化 コンプレックスの鎮静化

今日も祖母宅に居る。秋晴れの空が広がっていて、午前に一面の青空の下を歩いた。あまり暑さは感じず、心地よい体感がした。ぽかぽか陽気といったところ。それでも、午後に歩けば暑さを感じた。春と夏の混じったような日和。秋らしい感じがした。

調子も良い方ではある。でも、昼食で少し食べ過ぎた。これは失策ではなく、失敗だった。どうしようもない不可避の失敗だ。かえって珍しい事例だったと思う。早期膨満感がほぼなく、するすると箸が進んでいた。胃が伸縮して、一人前の量に近いくらい食べられた。それはまともな量だった。

でも、最近の胃袋の許容範囲内ではなかった。祖母宅へ移動する際、悪心を感じていた。

それでも、好調の証ではあると思う。調子が落ち込んでいれば、こういったことにはならない。胃袋の持久力が付いているからこそ、それがこの失敗を生んだ。そう思っている。

夕べはそれなりの眠りだった。夜中に隣人の車の音で起こされるも、再び眠りに落ちる。

そして、いつもと同じくらいの時刻に目覚める。六時過ぎだっただろう。この時刻もまた、別の隣人の車の音で解る。いつもその前後には目が覚める。

そこから動くための体勢を整える。ゆっくり身体を馴染ませていった。無理をせず、身体が動き出すまで休んでいる。そのことは、目覚めてからすぐに思った。「いましばらく寝ていよう」と。

 

つい最近、それについての失敗を繰り返していた。通院日の前日に、無理をして起きたことで不調になってしまっていた。

寝起きが悪ければ、何もかもが狂っていく。自分においてはそうだ。栄養不良の身体が原因なのか、外胚葉型が原因なのかはよく解らない。それでも、身体を無理に起こすといけない。

ありのままの内部信号を無視し、自尊心を得ようと習慣を強いてしまう癖。それを意識して変えていかなければならない。活動的にいようとしていたり、親を喜ばせようと務めてしまっている。それに身体は苦しめられてしまう。

無理をしても、大概は後で後悔をする。無理をして起きるのは、健康的で活動的な日々を得ようとしているから。早く起きることが出来れば、時間軸に余裕が生まれる。それにより、食事のやりくりをしやすくなる。

身体のケアがしやすくなれば、良い調子を得られる。体調が良くなれば、それは自尊心に繋がる。その好ましくない思考を、目覚めた時に思ってしまう。

それに拘りすぎて本末転倒になることがある。仮に遅くに起きたとしても、遅くに食事をすれば良い。時間をずらしていけば良いのだ。寝るのも遅くにすれば良い。

でも、どうにもそれを柔軟に出来ない。病的な気がある。厄介だ。

無理をして務めても、逆効果でリズムが狂う。空腹の時間が長くなってしまったりする。

 

今日はゆっくり寝ておいた。それにより、朝食はそれなりの量を食べられた。悪くなかったと思う。体力的にもきつくなかった。

朝のルーティーンの後にマズローを読み、十時前に散歩をする。これは最近の時間軸で、以前は早くに散歩へ出掛けていた。これも習慣による務めだった。胃が楽ではない時に歩いていた。

最近は、身体がきつい時に歩いていない。今日もそうだった。楽に歩き、そして丁度お腹が空く。それが失敗した昼食に繋がるけれど、悪くない流れだった。午後もいつものルーティーンで過ごすことが出来る。

今日はつまらない感じはしなかった。退屈な感じはあれど、「内的に費やすことで良いだろう」という気もした。

それでも、やはり活動的でありたいと思った。朝と昼の食事を終えた後、何もすることがなかった。どこかに虚しさを感じ、退屈だった。日々の意味を感じなかった。何のために生まれて、何のために喜ぶか説明が出来ない。空虚で無為に費やしている。

誰かに会いたい気はした。少し所属と愛の欲求が湧いていた。それらを満たすための体力はある。安全が満ちれば、それなりの体力が湧く。それを用いて欠乏を満たしたいと思った。

 

でも、やはり内的に費やすことが主軸ではある。自分には、表現することくらいしかない。聖職的なものが性に合っていたとしても、今はそれに費やすことが出来ない。それはこれからも続くかもしれない。いずれにせよ、可能性の限度はある。

出来ることと言えば、表現することだ。心を捉え、まとめること。それは性の中に眠っていると思う。時間が経てば、何らかを吐きたくなる。

となると、人と会うことよりも、創作する上での習慣を守らなければならないだろう。それは好ましくないかもしれないけれど、そういった必要性はあると思う。少なくとも、自由であることは欠かせないはずだ。全ての時間を操作できること。それが大切。

表現のための日常とするか、あるいは欠乏を満たし、成長欲求が導く献身に捧げるか、そのどちらかだ。

後者は聖職的なものなのかもしれない。誰かの心に触れ、捉え、育むこと。それに喜びを感じ、幸福を得ること。その可能性もある。

 

一体どうなのだろう。欠乏を現実で満たすか、出来ることとして表現をするか。それらの道がある。

今は前者の道を歩めないために、後者を選んでいる。それをするしかなく、それに甘んじている。自己実現をもたらすものだと思いつつ、意味のない代償に過ぎないとも思っている。

人を干渉者として捉えるか、解放をもたらすものとして捉えるか、その二つだ。それらは正反対の性質をはらんでいる。どちらが相応しく、どちらが相応しくないか。

どうなのだろう。それは明白に思えるけれど、そうでないような気もする。

 

一番の理想は、時々人に会うことだ。内的に費やす基盤を維持し、たまに命の洗濯をする。そうやってノイローゼを解消し、活動的な日々を送る。コンプレックスを鎮静化させ、建設的にエネルギーを用いること。それが成長欲求に費やすことだ。

やはり、春頃と同じような思考に行き着く。誰かと会わなければならない。欠乏を満たすこと。

でも、やはり行く場所がない。会う人の見当もない。これが大きな問題だ。どうすれば良いものか。積極性が必要であっても、誰も居ないし場所もない。だとすれば、一体何の努力をすれば良い?インターネット空間か?それとも運動をし、最低限の体力を得れば良い?

 

夏の風が吹くと、麦わら帽を被ったマドンナが浮かぶ。すらりとした黒髪で、優しく品がある人。アニメで見たイメージのような、テレビで見たイメージのような、そんなかつての印象で像が作られている。

そんな人が居てくれたのなら良い。ユングで言うところのアニマが必要だ。それでこそ心身が満ちる。劣等機能を用いることが出来るし、欠乏も満ちる。全てのつじつまが合う。

誰か優しくしておくれ。

体調のセルフフィードバックをすると、少し変化していることが解る。内部信号の気付きを得てから、だんだんと変わっているのかもしれない。これが認知行動療法だろうか。気付きを何らかで得れば、それによって行動も変わっていく。

起床時の無理、食事での無理、それらが減っている時がある。主に後者はそうだ。適切な食事量を管理しつつある。盲目的に頑張ることがなくなっている。胃が苦しくなる日も少ない。当たり前のことが出来るようになったかもしれない。

後は起床時の無理や、習慣に縛られていることだ。それから解放されたのならば、かなり楽に生きることが出来るのだろう。病的な意識が変わりつつある。

根底から変わってはいないかもしれないけれど、表層の意識が強く働いている。最近では、コンプレックスを記すことも少ない。これは一時的なものか、継続するものだろか。それはこれからの日々で判明するだろう。

 

ただ、昼食で少しのミスをした。自然な働きではあっても、制御しておくべきだったか。

気になるのは、ワクチンの接種をする日だ。社交不安を増幅させるのは、体調不良感。過去に体調が悪かったことにより、自尊心が傷付く体験をした。それによって生まれたコンプレックスは、神経が高ぶった時に顕在化する。

その場面の典型が社交の時だ。そうなってしまえば、一時的に極度の緊張に陥るかもしれない。

 

でも、腸の働きは左右できないけれど、胃は変えられる。何を口にするかを気にすれば良い。当日は無理をしないこと。これを意識しよう。

今日で気付きは得られたのだ。通院日の朝のように、念入りに気を付けること。

あるいは、これから毎日気を付けることだ。そうやって体調を整え、それを当日まで継続させていけば良い。

 

着々と生きている。

 

また明日。

 

参考文献: