欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

公的な立場の確保 道のりの開拓

今日は晴れている。昨日までは台風が列島を通っていた。それでも、辺りは半日ほど雨が降った程度だった。そして台風一過の今日。すっかり青空が広がり、鮮やかな日が差している。

秋の陽光だ。光度や純度が夏とは違う。稲穂のような黄金色に見える。田んぼの辺りに行けば、風情があるのだろう。晴れの日にしか感じられない瞬間。まさに田園で、天国のように感じられる。

午前に強く日が差してからは、初夏のような心地がした。歩いた時がそうだった。分厚い見ごろもを放ちたくなる日和。家に帰り、夏の軽装に着替えた。

午前の八時台では、より爽やかな冷たい風を感じていた。その時は歩いた訳でもなく、部屋にふと風が入ってきた。母が洗濯物を乾かそうとした時、玄関から風が吹いた。

冷たい豊穣な風がした。得も言われぬような感触。新鮮な水分と光。至高だ。この風が感じられる時、両手を広げて田園を歩きたい。近所にそれがあれば良い。そう思った。

一昨日は不確定な変動で体調が乱れた。ノックアウトされていた。前回は好調を記していたけれど、一転して不調に傾きつつある。

一昨日に関して言えば、本を読みすぎていたのだった。長ければ午前で一時間半弱、午後も一時間ほど読んでいた。それにより、頭が重くなった。ぐらぐらと機能が急停止した。

そこから習慣の務めを頑張ったのもある。散歩へも行き、その後にきつくなっていた。更に言えば、読書をした後に気を遣っていた。頭も使い、身体のエネルギーも使っていた。そしてその後に運動もする。

大層な体力だと感心したくなるけれど、健康な人はもっと限度が高いのだろう。無理を重ねたのが響いた。

これは悪しき自尊心コンプレックスによるものだ。まともな日々を得ようと、限度を超えて無理をしてしまった。

 

詰めすぎ厳禁だ。集中力は長く持たない。いや、実はほぼ持っていないのだ。注意は常に散漫になっている。そこで無理に集中しようとすると、頭がエネルギーを消費する。二時間以上もそうやっていれば、それ以後に頭は働かなくなる。

そこから体調にも影響が出た。気分も悪くなり、夕食が停滞した。多少休めば楽になったけれど、内臓もダメージを受けていた。それで食事に支障が生じる。

夕食では、これまた自尊心にまつわるコンプレックスが働いしまった。好調が続いていたために、そのペースを鈍らせたくなかったのだ。多少の無理をしてしまい、数口を余計に食べる。それが大きく尾を引くとも知らず、許容されない量を食べてしまった。

 

身体がきついのであれば、そもそも諦めれば良いのだ。今になればそう思える。ご飯をよそう時も、少ないに盛れば良い。それを腹に収め、次の食事から持ち直せば良い。

それだけのことなのに、どうしてもそう考えられない。体調が落ち込むということは、重大な危険を意味する。そう身体は思っている。

 

食後には悪心がし、嫌な予感がした。それは的中することになる。

翌朝の調子も不良だった。明確な胃袋の消耗が解りつつも、取りあえず食事を摂ろうとする。そうやって一口食べてみると、明らかな違和感がした。明らかに吐気がする。食事を食べられるような状態ではない。そう思った。

何としても回避したい不調にはまってしまった。その皮肉を悟り、顔を青白くする。

 

最近は失策が多い。意識が誤った決断をしている。失敗ではない。ミスだ。何とか出来た問題を、自分が問題にしてしまった。

腹を下したりもするし、経験則を守れない時がある。スポーツドリンクよりもアイスクリームを食べたり、不調をかき消そうと無理をしたりする。どれも時々あるようなことだ。

以前は慎重になることが出来ていた。それは、ミスを直近にしていたからだろう。その直後の日々では、表層の意識によってコントロールが出来る。それはある程度続き、中期的な良い経過を辿っていく。

 

でも、それは長続きしない。今度は好調コンプレックスが発動する。調子を更に上向かせたい気が優位になる。

すると、同じように不調を繰り返してしまう。食べ過ぎるし、頑張りすぎる。きつくなったりもするし、疲れたりもする。

これもいつものことだ。中期的に良くなれば、中期的に悪くもなる。

 

不調という内的な刺激が続けば、神経が高ぶりかねない。やがてはホルモンに支配された神経の高ぶりに繋がる。そうアーロン博士の著作に記されていた。

その産物として、コルチゾールという物質が生まれるそう。長期的な神経の高ぶりにいる時、普段よりも興奮しやすくなったり、より敏感になる。

そのコルチゾールの作用は、時に数日後に現れることがあるそう。これが中期的な不調の原因だろうか。そのサイクルが続くのは、ホルモンレベルの切っ掛けがあるように思える。

それがなくとも、ある程度の調子を取り戻さない限り、神経が落ち着くことはない。慢性的に腹が整わなければ、それがまた原因で無理をしたりする。そうなれば迷宮入りだ。今までの自分の歴史は、これを凝縮したものだ。

 

また腰骨の露出が多くなった気がする。つい最近まで良かったのが、あっさりと覆った。ワクチンの接種までは、難なく過ごしていたかった。そうしていく予定だったのだ。

でも、歴史は繰り返す。気を抜けば、すぐに変動してしまう。

それでも、また気を取り直して行こう。一喜一憂はある。それが自然だ。今の状態であればそうだ。それに倣うこと。ノイローゼに陥っている内は、そうして過ごしておけば良い。いつかは一時の喜が来るのだ。それに甘んじていれば良い。

最近の日々では、やはり暇を思う。内的な作業はあっても、それに熱中はしていない。それが本当に価値のあるものと思えない。出来ることとしての務めでしかない。遊びではなく、義務の色合いが強い。

ある著作にはこう記されていた。

「心か動いた瞬間のみ、生きている」

その言葉を思い出した。今の日々は記憶にも残らないだろうし、思い出すこともないのだろう。

 

ブログの成果は何もない。いや、最初からそれが得られるものはないだろう。どんなものでもそうだ。遊びだってそうだろう。遊びに報酬などない。

遊びでそうならば、何かの成功を得たい場合でもそうだ。初めから報酬など得られない。その気でやり続けることだ。そうでなければ始まらない。

 

読者も離れていきそうだし、もうどうしたものか。いや、そもそもそういったことを意識するのが好ましくない。読者はありがたい存在でも、まずは利己的な切っ掛けから始めるべきだろう。そうでなければ続かない。それに読者のためにもならない。一生の自分らしさなどにならない。

始めから成果など得られない。だとすれば、楽しんでやっていくことだ。やること自体が報酬になれば良い。いわば遊びだろう。そうすれば、何も意識せずに続けられる。

ひたすら失敗を繰り返しながら、ひたすら向上を目指していく。そうすれば、外的なものに振り回されることはない。

 

自分でも、自分の方向性が解らない。文筆でまともに生きていきたいのであれば、本気で取り組めば良い。その気はあるのか?

いや、ない。どこか怖い。本気で取り組めば、もっと建設的な活動をすることが出来る。でも、それをするのが怖い。恥ずかしいし、神経が高ぶりそうで仕方がない。

芸術家として生きるのであれば、市場で目立たないといけない。いや、本物であれば、いつか目立つようになる。いずれにせよ、市場から評価されないといけない。それをしてもらう必要がある。自分から積極的にだ。

そうなれば神経が高ぶる。今の自分は、まともに精神を保てない。

本気で取り組むのであれば、そういったことを考える必要がある。自分からそう取り組まなければならない。今の状況で考えると、プラットフォームを変えたり、SNSでも利用すれば良い。

 

自分は一体何を目指しているのだろう。何のために取り組んでいる?何のために気を揉んでいる?そんなことを思う。

すぐに報酬がもらえる訳ではない。だとすれば、個人の楽しみとしてやるしかない。

いや、そのための土台はある。生活には何の切迫もないのだ。だから尚更だ。好きに取り組めば良い。好きに積み上げていけば良いのだ。

それなのに、どうしようもなく苦悶するのみ。

 

現実を生きなければならないのだろう。その道から目を背いてはいけない。好ましく可能性を用いない限り、由々しきことが起こり続ける。人間性が萎縮し、病魔に蝕まれる。

現実で欠乏を満たし、何かの献身先を見つける。それしかないのだろうか。そんなことを思いつつある。

 

自分は福祉に掬われるような人間だ。今はその新たな申請をしている。それが通った暁では、固定の給付金を頂ける。皆さんの血肉を分けて頂くことになる。そうなれば、ある種の身分を獲得することにもなる。個人的にはそう思っている。

それは良くも悪くもだ。病人としての公的な立場。宙ぶらりんだった状態から、立ち位置が与えられる。廃人としての没落でもあるけれど、病人として認められる。

つまり、もう無理をしなくても良い。その保証を公的に授けられると思う。そうやって受け止めても良い。まともな生活は難しいけれど、それをする必要はない。そんな認定のように思える。

この町で鬱屈と過ごすしかないかもしれないけれど、後はそれを受容すれば良い。自立のための一時金は頂ける。日々治療を続けながら、出来ることをすることだ。無理をする必要はなくなる。

不自由な身体と、不自由な活動。何に費やし、何に務めれば良いのだろう。いや、解ってはいるけれど、その道が現実にはない。

どこかにあるのかもしれないけれど、探しだすことが辛い。それは自分で開拓をしなければならない。

この世のどこかにはあるのだろう。それは手探りで見つけること。

 

近くに落ちこぼれた同類が居れば良いのに。そんなことを思ってしまう。相憐れんでいようよ。

 

また明日。

 

参考文献: