欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

刺激的な環境 発展の権利

今日も変わらず祖母宅に居る。午後から雨が降る予報だったけれど、午前にぱらぱらと降りだした。急いで洗濯物を取り込んでいると、母が外出から帰ってくる。服はそこまで濡れずに済んだ。

雨は今になって止んでいる。でも、これからまた降るのだろう。日の光は白く鋭い。辺りは無機質な色合いだ。一時の静穏がある。秋虫の鳴く音が聞こえる。

 

それを捉える体調と心情。今日はあまりよろしくない。次の食事で安心を得られない限り、この感じは拭えないのだろう。

身体にまとわりついている感覚。痩せたことを示すような身体と、理知的に振り返る直近の調子。だぶついた腰回りのズボンと、夕べの計測。最新の調子とその感覚。

やはりこういう時はやってくる。最近では、「いつかすぐに良くなる」と楽観できたりもする。それでも、そうならなかった場合を考えてしまう。

 

この状態では、最低限の体力と言うには物足りない。外出して買い物をしたり、遊びに行ったりするには頼りない。そこまでの元気を持ってはいない。

やはり自分は病人だ。そんなことを思う。いや、本当にそう思っていられたら良い。そういられたのなら、気楽に日々を過ごすことが出来る。体調コンプレックスも湧かないだろうし、真の最低限の体力を得られる。仕事だって、学業にだって費やせる。

 

でも、そうはならない。どうにもノイローゼに陥ってしまう。人間は、可能性を活かさなければならない。さもなければ由々しきことが起こり続ける。人間性の本性に逆らってはいけない。少なくとも自分はそうだ。

どんな状況に置かれても、何の焦燥も感じない人は居るかもしれない。でも、自分はそう思わずにはいられない。人間性は萎縮し、身体の機能がとことん落ちている。

それは公的な不自由の認定にも繋がる。でも、それがないに越したことはない。その分働かなければならないだろうけれど、そういう苦しみなら味わってみたい。その時は、創造的に生きてみたい。病人は、ひたすら健康を望む。

朝食はよく食べられたけれど、朝に寝坊をしていた。いや、いつもより二十分ほど寝過ごしただけだった。時間で言えばそうだ。でも、ノイローゼの人間として見れば、生活の根幹が揺れるようなことだった。ルーティーンのリズムが崩れる。身体への独自のケアが出来なくなる。

身支度を整え、七時のアラームと同時に漢方を飲む。その後に腰を上げ、居間に向かう。父は出勤の日で、母も起きて支度をしていた。自分が二人に「寝坊した」と言う。すると父は、「これで寝坊?」と呟いた。

それは正常な思考なのだろう。父は休みの日に、八時頃まで寝ていることがある。食事はもっと遅い時間になる。一般的で健康な人もそうなるだろう。好きに生きて良いとなれば、自在に時間を操れば良い。それは画面の向こうの人でもそうだ。

これもノイローゼの病態なのだろう。内的な声を聞き取ることが出来ない。自己の同一化がなされていない。真の自我、真の自分を失っている。誰かの声を聞いたり、時間などの信号に基づいて行動してしまう。

それは身体の声を圧し殺す程にだ。真の本性がつぶれる程に。

 

朝食は本調子に近かったけれど、その後に力が満ちるような感じはしなかった。夕べの体重のことや、すかすかな腹回りのことが気になる。その違和感を感じ、どこか気持ちも晴れなかった。

散歩へ出たけれど、体力に不安があった。残暑を感じ、すこしの暑さに不安が増大していた。「結構暑いけれど、今の身体は耐えられるのか」と、怖くなった。いつもの道を引き返し、途中で家へと帰った。

帰宅後には、そこまで疲労を感じなかった。でも、余裕がある程ではなかった。余裕があったのならば、のんびりと散策できるのだろう。あるいは遠くまで足が延びる。それは自然に行われる。それがなかったのであれば、調子はいまいちなのだろう。

それに加え、あまり腹が動かなかった。独特な胃がきしむ感じもない。何かを食べたいという気になっていなかった。食事を思い浮かべても、美味しく感じられるように思えない。それはあまり良くない指標となる。

胃の調子が悪くても、何かを食べて美味を感じたい時はある。でも、それがない場合、胃袋はなかなか受け付けてくれない。

 

昼食がそうだった。どうにもたくさん食べられる気がしない。その予想通り、食べ始めると雲行きの怪しさを思う。そして胃の状態の悪さを確信する。「全部は食べきれないぞ」と、葛藤が始まる。全て食べたい病的な気と、諦めが大事だと学んでいる自我。そのせめぎあいが起こる。

今回に関して言えば、無理をしすぎることはなかった。それでも、一口か二口は食べすぎてしまった。それを今になって後悔している。

全く無理をしなければ、すこし間を置けば胃が楽になる。すると甘いものでも食べたくなる。そうやって食べてみれば、腹が快く収まったりする。

その流れに持っていけば良かった。今もある程度は収まっているものの、これ以上食べてはいけないだろう。スポーツドリンクで腹を収めるしかない。

次の食事へ繋がるのは、賢明に食事を管理した場合だ。そうした方が良かった。でも、それが出来ない病的な気。それを持っている。それは欠乏と可能性の萎縮の結果だ。

 

食事を残すと母に気付かれてしまう。それが頭に強くあった。やはり、親に不調を感付かれたくない気持ちがある。それは親を安心させるためではなく、自分の存続を守ろうとしているためだろう。体調が悪かったことにより、過去に辛い出来事に見舞われた。それを繰り返さないよう、無理をして務めてしまう。

これもノイローゼの病態と重なる。真の自我が薄まっているのだ。諸々のコンプレックスが顕現し、ありのままの声を搔き消してしまう。

 

不調の感触と、客観的な事実。腹には肉がない。そこには骨がないのだから、肉がなければ線がくびれる。健康な人にあるはずのものがない。それは異常を思わせる。誰かが見たらそう思うだろうし、自分でもそう思ってしまった。

内臓がどこに収まっているのかと思う。昨日、祖母宅の姿見を見ていた。まじまじと自分の全身を見る。上下黒の服を着ていると、身体の頼りなさが強調されていた。細々としていて、生気が弱そうだった。脇腹の辺りが寂しく、シャツがただ垂直に下がっていた。そこはすかすかだった。

 

最近の食事では、抜本から上向いてはいない。運動量が減っているからなのか、満腹の回数もまちまちだ。腹九部の快い満腹が続けば、自然に胃袋が伸縮していく。すると胃の持久力が付く。そうなれば、自然とたくさん食べられるようになる。

最近では、徐々にその持久力が落ちているのだろうか。ご飯一膳と少しのおかずしか食べられない。少し大袈裟に言えばそうで、平均すればそのようになる。

控えめな盛りの一膳と、薄い焼いた肉が五枚ほど、それと鍋の味噌汁をいくらか食べる。最近の一番の調子でその水準だ。

 

それでは太らないだろう。ふと客観的な見方が出来るようになる。快く満腹になる回数はあっても、それが継続していない。まさに、ご飯一膳とおかずしか食べられない時がある。

それが少しでもあれば、太ることはない。ストレスがある時というのは、個人的には太らない。不安が少しでも強ければ、とたんに痩せていく。気を抜けば痩せる。代謝が良いようなのだけれど、内臓は強くない。それに神経胃弱が加われば、栄養失調に陥る。

深刻に痩せない程度の補給にしかならない。以前はまとまった一膳を食べていた。それに耐えられ、腹に収まる。おかずは少々でも、味噌汁一杯をそれなりに食べていた。

今よりも一・五kg体重があった時のこと。それが春の頃だ。しっかりと炭水化物を摂り、それ以外にも食べられていた。

スマホ脳』という本を読めば、生物学的な人間性の認知が得られる。その本は、著者独自の「人間の進化の見地」に基づいた説明がなされている。

特に気になった部分は、やはり刺激が大切といったところだ。その事は、マズローの理論や、自分のフィードバックの結果と重なる。やるべきことが精密に判明しつつある。

タブレット端末を週に十時間以上使う十代は、もっとも「幸せではない」と感じているそう。自分もつい最近まで十代で、まさにそのように思っていた。

一方で、スクリーン以外の時間を過ごせば違う結果になったそう。つまり、誰かと会う、スポーツをする、楽器を演奏したりすると、精神的に元気になる傾向があったそう。

 

ストレスを低減するには、やはり運動が効果的だそうだ。それは万能薬。これも自分のフィードバックと重なる。まずは運動からことを始めること。それが歯車を回していく。

それに加え、よく運動をする人たちは、それほど不安障害が見られないそう。運動やトレーニングをすることで、不安から身を守ることが出来る。

更に、身体がよく鍛えられている人は、ストレスに強くなる。ストレスを感じた時、人の身体は原始的に対応しようとする。"逃走"か"闘争"をしようとするのだ。言い換えれば、身体をパニックにさせる。脅威を相手に何とかするためだ。

ただ、身体が鍛えられている人は、脅威から切り抜けられる確率が上がっている。逃げるにも闘うにも、身体のコンディションが良い場合、急激に身体のギアを上げる必要がない。

それにより、強い不安を感じる必要がなくなる。いざとなれば、体力を用いて逃亡すれば良い。身体のコンディションは、ストレスに対応する際の資源となる。

 

何か病的な不安があれば、それを取り除くのが第一だ。それによって安全が得られたら、今度は運動をする。安心が強くなれば、少しずつ活動をしたくなるはずだ。

そうして徐々に体力が付けば、後は欠乏欲求を満足させれば良い。精神の不調の特効薬はそれだ。生物学的な気付きによって、これらのカリキュラムは仕上がっている。

 

現実の生身の人間と触れ合い、刺激を得ること。マズローの著作にもそう記されていた。健康な有機体の発展には、刺激的な環境が必要だそう。

基本的な欲求の満足があれば、それが神経の高ぶりをなくす。コンプレックスも沈静化されるだろう。そこからよりエネルギーが満ち、活動もはかどっていく。更に建設的な日々に繋がっていく。

 

何かの献身先や仕事を見つけ、それに費やして成長していく。そして親しい人と過ごし、健康に生きる。基本欲求を満たし、その土台の上で可能性を発揮していく。

それが豊かな日々をもたらす。いや、そうしなければならない。そういった星の元に生まれてきた。

 

ノイローゼとは、人間性の発展を放棄することから始まる。最高の能力や、最大限にまで成長を遂げる権利をも放棄してはいけない。

それを生まれつき持っている人間が居る。そのように人間の可能性が放棄された場合、神経の高ぶりが起こってしまう。

自己の構造的特質が適している仕事、そのために自分が生まれてきたと思える仕事を回避してはならない。自己の運命から目を背けてはならない。そのためには、まずは運命を学ぶことだ。

 

最後にマズローの言葉を引いてみよう。

神経症は、恐れや不安の保護のもとに自己実現する過程であると思われる。それは、妨げられ、阻害され、拘束されていることを除けば、同じく健康で普遍的過程と考えられてよいのである。このような神経症的人間は、たとえ、走るよりはよたよたし、前方へ真っ直ぐ進むよりはジグザグをとるとしても、確かに自己実現へと動くものと見られるのである。

マスローの人間論   未来に贈る人間主義心理学者のエッセイ  74P

気を取り直して頑張ろう。すぐに事態は変わっている。悪くなるのが早くても、良くなるのも早い。

特異な体験は積み上がっている。それを活かすための技術も上向いている。後は時期が来るのを待つだけだ。そのために、少しの能動性と、切っ掛けにしがみつく意思が大切だ。

 

日々こつこつとやるしかない。諦めるのはまだ早い。

 

また明日。

 

参考文献: