欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

優位な表層の自我 失った時間の回収

最近の体調は、少しマイナスに傾いていた。前回のブログを記した頃からだろうか、その辺りから少しきつくなっていた。内的な作業を詰め込んだり、散歩を負荷に思いつつあった。そのなかで、だんだんとワクチンの接種日が近づいてくる。そうしている内に、コンプレックスが顕在化してしまった。

痩せている感触が強くなったのもある。残暑の日は薄着をしていて、その姿を姿見で見た。その事は前回に記している。身体の頼りなさを強く感じた。そこで焦りと不安に見舞われる。早くこの苦境を脱したいと思った。それが体調不良コンプレックスを刺激する。無理をして食事を摂ってしまった。

そこからも不調は続く。容易には連鎖を絶ちきれない。今度は傾いた調子を元通りにしようとしてしまう。連続する無理のしすぎ。

そうこうしていると、胃袋の強度は落ちていく。でも、ケアのミスで強い後悔を感じれば、表層の自我が優位に立つ。そうすれば、食事のコントロールはしやすくなる。それでも、復調までの道のりは遠い。

 

本来であれば、すぐに楽をしようと思えば良い。無理をしてしまったのなら、そこで即座にケアをすれば良い。重ねて無理をする必要はない。楽に過ごせば良いのだ。それをするのが自然だろう。

でも、それは病的な気によって塞がれる。そのような思考が出来るのであれば、そもそも食べすぎることなどなくなる。ケアの仕方は最初から弁えられる。いや、弁えるという思考にすらならないだろう。

 

食事はだんだんと摂れるようになった。過去のブログを見返したりもし、冷静な判断を取り戻しつつある。

でも、やはり胃袋の強度は落ちている。少し前のエントリーでは、「体調が傾けば余裕が解る」と記していた。その事を思い出したし、確かによく解った。余裕に満ちていた訳ではないけれど、それなりに余裕はあった。

少し前の体調を羨ましく思う。その頃は、その時の状態に焦りを思っていたのに。

散歩へ行くことが出来たり、内的に費やせたりもすれば十分だ。そう思った。焦る必要などない。多少の肉も付いていたし、体力も維持できていた。それで良いだろうと思った。

それでも、変わらず焦燥を持ち続けるのだろう。まるで無垢な子供のように、ひたすら安全を求め続ける。自分のニーズを満たしてもらおうと、周囲にサインを出し続ける。いつか成長や学習に伴って消えるものを、神経が高ぶる人間は持ち続けている。欠乏症者は、満たされて資源となるものを得られなかった。

 

夕べは空腹で食事を迎えたものの、すぐに満腹になった。これは早期膨満というより、苦のない満腹だった。

つまり、それが胃袋の限界だった。食事前の状態は悪くなかったのだ。胃袋の活動が後退している。

 

それでも、これからの流れ次第だ。これから良くしていくしかない。何とか気持ちを立て直すこと。

無理を極端にしすぎなければ良い。コンプレックスの暴走を止められるのは、表層の自我しかないのだろう。それが優位に立てば、適切なケアをすることが出来る。

近年ではその時がやってくる。だから一喜一憂に倣える。以前はそれがなかった。過度に無理をしすぎていた。

行うべきケアの仕方を知ること。それを知っていれば、身体を好ましく扱える。まずは意識が学ぶこと。そこからが始まりだ。

 

ワクチンの接種前で不安があったのか、あるいは散歩に行き渋っていたのか、そのどちらもありそうだ。

子供のように神経を高ぶらせ、ひたすら安全を求め続けること。それが収まるのはまだ先だ。

でも、それを異常に思わない方が良い。そういう人も居るのだ。センシティブパーソンというものは、良くも悪くも周囲からの影響を受けやすい。周囲のニーズを察知し、それに応えてしまいがちだ。

周囲の誤った接し方を再現し続けてしまう。それは半ば強引にでもだ。周囲のニーズが満たされたのなら、自分も安全を得られる。それが自己を保つ方法だと学んだ。そうやって過去の人を喜ばせ、愛や自尊を得ようとしてしまう。

自責はまともな歩みを滞らせる。それを回避できるようにしたい。状態が異常であったとしても、人格までもが無価値なのではない。好ましくない過程があっただけなのだ。それらは切り離して考えるべきだ。

そのためには、やはり表層の意識が原因を突き止めること。それをしてこそ、深層の原始的な反応に接触できる。それは現在にも、過去にもだ。

 

今は病事だ。自分は年金を貰おうとしている。それくらいの不自由を負っているのだ。だとすれば、無理をしても仕方ない。気丈に受容するしかないのだ。

食事のやりくりをすることもそうだ。表面的な工夫をしても、変わるものは変わらない。一喜一憂の流れに倣っていれば良い。体力も落ちておらず、極端に無理をし続けている訳でもない。

そうなれば、落ち着いて喜を待つことだ。それはいつかやって来る。それをするしかない。それ以外にはない。他に何がある。

あるとすれば、体調を落ち着かせ、欠乏を満たすことだ。それが出来ないのであれば、一喜一憂に流されていれば良い。

やはり生活を変えなければならない。抜本から変えることだ。主に内的に費やしているけれど、それが好ましくないのだろう。

今の生活は、「こもりすぎ」か「無理のしすぎ」かで言えば、完全にこもりすぎだ。それが悪しき病を生んでいる。それは明確なことだ。

内的に費やしたとしても、それに報酬などない。だとすれば、何の意味があるのだろう。成果がなくとも、やること自体を報酬のように感じられたら良い。そうでなければ身体に害となる。何の益にもならない。

ブログの成果もすぐには表れない。やるとすれば、遊びとして積み上げることだ。

家の中で長時間過ごしても、人生は豊かにならない。在宅時間を中心にするのは危険だ。

 

まずは外的な時間を設けたい。その方が良い気がする。その前提として、全体の時間を操作できること。それがあれば、内的な時間を確保しつつ、心身を整える時間も確保できる。

文筆そのものを仕事にしても仕方ない。それが救いにはならない。現実を生きなければならないのだ。そうして日々を過ごし、その過程をまとめる。それくらいでなければ苦しくなる。ブログに懸けるよりも、他に大切なものがあるのだろう。

勉強や文筆は、いつでも出来る。当分は時間を操作できる。それは変わらない可能性が高い。だとすれば、まずは心身の栄養を得ることだ。それをし、空いた時間で学べば良い。記すこともだ。

それが出来る身分はある。不自由は公的に認められる見込みだ。そうして生活が確かになれば、自活を急がなくても良い。何の束縛なく、一から積み上げることが出来る。その金銭も、時間も、社会が保証してくれる。

 

生涯の献身先や、仕事を見つけること。それに費やしながら、成長をし続ける。そして親しい人と過ごし、健康を保つ。

それを第一にすることだ。その土台がない限り、生活は脆くなる。

ブログはたまに記すくらいで良い。常に学び、考えることは出来る。それも大切だけれど、豊かさも同じなのだ。健康な日々の先には、新たな価値がある。それを見つけて作っていくことも出来る。

日々の生活と、欠乏症について学ぶこと。フィードバックと考察を記す。時代の病を解明し、それを世に啓発すること。それは健康になってもすることが出来る。その考えになりつつある。

少しずつでも、自己実現へと近づいている気がする。静的な変化は起こりつつある。そのペースが遅くても、責める必要はない。時を取り戻すには、失った時間と同じ分が必要だ。そのために時間がかかっている。今はその作業をしている。

周囲と比べても仕方ない。それをしてしまう時はあっても、いつかは前を向こう。自分は周囲とは違う。それに打ちのめされる時があっても、その良さを回収していかなければならない。

記憶や痛手の意味を知ること。その過去に意味を持たせること。唯一の特異な体験は、いつか唯一の日々をもたらす。

そうしていけば、向かうべき唯一の場所が見えてくる。そこへ向かう道のりも見える。その時に真下を見れば、前後に繋がっている道が見えるだろう。それは過去や未来と繋がっている。既に繋がっているのだ。後はその道を辿ること。全てを回収することだ。

いかに日々を変えるような刺激の触れるか。それが鍵だ。それをしない限り、日々は変わらない。自分からそうしないといけない。

いかに愛と尊厳を得るか。その集約に尽きる。

 

学びは尽きない。だんだんと日々も変化している。それがいつかに繋がるのだろう。

 

また明日。