欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

理知的な安全の器 身体への再教育

今日は雨が降っている。心もトーンダウンしていて、安静にするにはちょうど良い。

昨日の夕方にワクチンの接種をした。間もなく二十四時間が経過する。今のところ生きている。熱はなく、不快感もない。食事も摂れていて、睡眠も滞りない。運動はせず、部屋から雨の降る辺りを見ている。雨垂れの音と弱い雨。

接種部位の痛みはかなりある。接種後の数時間は全く痛くなく、このまま経過しそうだと思っていた。でも、夜になると痛んできた。寝る頃にはかなりの痛さになっていた。筋肉痛というよりも、腫れによる痛みだ。

接種直後の方が筋肉痛がした。刺された時に針の痛みがあり、液が浸透して不快な感じがした。それが筋肉痛に近かった。不気味な感触がして、そこだけ青くなったような違和感があった。

 

インフルエンザワクチンの接種では、頭痛や吐き気があったと思う。今回のワクチンでは、それがなかった。あるのは少し強い痛みのみ。

今のところ、突然倒れるようなことはない。胸が苦しくなったりすることもない。なるべく血圧を上げないようにしている。栄養不良の際に胸を圧迫すると、頻脈になってしまうことがある。そうなると危ないと思う。きちんと食事を摂り、安静にすること。

今日は安静にしておく。雨がちょうど良い。歩かなくても調子は悪くなっていない。身体は反応を繰り返しているのだろう。

 

明日は晴れるのだろうか。今からそう考えてしまっている。晴れるのであれば、やはり散歩に務めたいと思っている。晴れの日に在宅で過ごすのは、好ましくないケアのように感じてしまう。

でも、いつも歩きたくて歩いている訳ではない。まさに務めだ。体調の維持のために、日頃から務めて励んでいる。無理はしないようにしているけれど、乗り気ではないことが多い。

そう考えると、果たして効果はあるのだろうか。今日は外に出ていないけれど、調子は悪くないのだ。

 

つい数日前に、身体にエネルギーが満ちた瞬間があった。その時は真に歩きたいと思った。そのためのエネルギーがあり、自然と出掛けようと思った。その時は、これまでとの差を感じていた。

一番身体に良いのは、やはり内なる声の赴くままにすることか。それが自然なのだろう。エネルギーが満ちていれば、それをすることでまたエネルギーが回る。それが好循環を生んでいく。

 

その逆もあるのだろう。好調時に動かないとなれば、身体に害になる。安全の過剰満足となり、フラストレーションが溜まってしまう。すると内的な神経の高ぶりが起こる。そうなるとケアのミスになる。

やはり、内部信号の赴くままにすることだ。食事も睡眠も運動も、真実の内なる声に基づくこと。それは欠乏を満たしたい時もだ。人に会いたい時には会う。

欲求は満たさなければならない。そうしない限り、病気に見舞われてしまう。

その反対として、無理をしないこと。それもあるのだろう。

 

明日は明日になってから。その当たり前のことを確認した。

接種日の昨日は、あまり体調が良くなかった。それを親には言わず、不安を抱えて接種に臨んだ。それが吉と出るか否かは、まだこれからの日々次第だ。

接種日の前日は、昼食で食べすぎていた。それまでの日々でも、どうにもそういう時が多かった。それを繰り返してしまっていた。

夕食では腹があまり膨らまず、胃の縮小を感じた。胃の収まりは良かったものの、そこから何か食べることは出来ない。多少の飢餓感のなか眠った。

体重の計測も駄目だった。詳細には記さないけれど、個人的な大台を切った。好調だった春頃と比べれば、二・五kgは痩せてしまっていた。そのショックを受けた。

痩せていることを受け止めきれず、それまで計測せずにいた。脱衣所で腹に手を当て、肉の具合を見る。主観からしても、好ましくない事実が浮かんだのだった。

数日は計測をせずにいた。でも、ふと事実を知りたくなった。それが接種時の前日だ。そうやって測ってみると、悲惨な事実を知った。

 

何故こうなったのかを考えていた。やはり、神経が高ぶるような予定があったからだろうか。それとも他に何かがあるのか。

ブログを読み返してみると、作業を詰めすぎて参った時があった。そこから停滞が始まっていた。それが尾を引いていたのか、やはりワクチン接種日が近付いていたからなのか。

いま思えば、恐らくはどちらもだろう。体調コンプレックスが発動してしまう条件が重なっていた。

よく食べられる時はあっても、それが続かない。胃袋は伸縮せず、持久力が付くまでに至らない。そして薄くなっていく腹の肉。その感触は意識に刻まれ、不安を生んでいく。

 

そんな思考が生まれると、身体の原始的な意識が優位に立つ。表層の意識が成す術なくしているからだ。

不安は自尊心を奪い、存続を危うくする。それが刻まれた身体は、コンプレックスによってケアをしようとする。

今の自分には、過去の傷が生きている。身体はそれを原始的に癒そうとするのだ。でも、その仕方も好ましいものではない。

 

ただ、今は予想よりも良い経過をしている。倒れてもいないし、食事も摂れている。不安もそれほど強くなかったし、想定ほど悲劇に見舞われることはなかった。今になって振り返れば、案ずるより打つが易しだった。

恐らくは、当日の昼食をよく食べられたのが良かった。そして接種の時間が夕方で、空腹になって迎えたのも良かった。それがある程度の安定を生んだと思う。

 

社交の場面で神経が高ぶりやすいのは、体調に不安がある時だ。かつて体調が悪かったことにより、自尊心を傷つけられた。その痛手があり、身体は結果から学んだ。「不調であるのがいけないのだ」と。

強引に不調をケアされた結果、自分はそうなった。そこで適切にケアをしようと学んだのではなく、無理をして身体を上向かせようと学んだのだ。あるいは、「不調であると悲劇に見舞われてしまう」とだ。身体は臨戦態勢をとり、周囲の刺激によって神経が高ぶる。

 

子供の頃の愛着関係は、大人になってからの世界との付き合い方を決める。自分は、養育者との愛着関係は悪くなかった。でも、自分の不調に対する周囲の扱い方は、あまり良いものではなかった。それがコンプレックスを生み、幼児が持つような安全の希求をしてしまう。

本来であれば、よく気の付く養育者の保護の元、成長するに従って不安はなくなっていく。安全と探索のニーズを感じ取ってもらい、バランスを整えてもらえるからだ。

養育者による安全の確保、そして探索をする際の後押し。それらの体験が積み重なり、それが自分の資源となっていく。だんだんと世界への恐怖は和らぐ。

 

でも、自分は不調時における不安が病的だ。不調に見舞われてしまえば、周囲が自分を敵視してくると思ってしまう。周囲を信頼することが出来ないのだ。

かつての不調時には、周囲が好ましく助けてくれなかった。恐らくはそれがある。そのため、不調の際には恐怖が増してしまう。

自分が外に出たくないのは、不調にならないようにしたいからだ。出先で苦しくなりたくない。そうなれば、誰も助けてくれない。もしかしたら死んでしまうかもしれない。その観念が未だに根強い。

社交において、自分は安全重視になってしまっている。それがこもりすぎを生む。

 

これからは、表層の意識を働かせることだ。両親や周囲が教えてくれなかったことを、自分が自分に教える。原始的な身体にだ。自分の身体に対し、理知的にケアを施すこと。自分の再教育を施す。

何が成されなかったのかを知り、今度はそれを自分に対して成す。自分が学んで習得する必要がある。

安全を自分に与え、挑戦を後押しする。そうやって成功体験を積み重ね、それを行動の資源とすること。

その行程をこなしてこそ、不条理で病的な意識を拭える。活動が叶い、健康になることが出来る。

 

神経が高ぶる場面においては、好ましいケアの仕方がある。それはアーロン博士の著作に記されている。自分の深層の反応に対し、あやすように接すること。自信を持って臨んだり、すぐに慣れると言い聞かせる。いざとなれば帰宅すると約束する。

そうやって安全の器を用意し、その中に居させること。その庇護の元、慣れてくれば散策をさせる。その時はその後押しをする。いつ戻って来ても良いようにする。そうしていけば、やがて恐怖に対する耐性が付いていく。

 

もっと外出をしたいとも思った。接種後に帰宅をして感じた。どこか刺激的で、良い体験をしたとも思った。心の澱が消えたような気がしたし、単純に元気になったのかもしれない。

内的に費やすのも大切だけれど、同じように欠かせないものもある。外の世界に出て、刺激を感じること。それをしてこそ、豊かな心身がもたらされる。その答えを知った気がする。

 

内的な仕事を基軸にしつつ、愛と尊厳を得ること。刺激を感じる時間を確保し、基本的欲求を満たすこと。仕事、パートナー、愛と尊厳、これらを満たすこと。そうすれば、神経が高ぶることはなくなる。すなわち健康になる。

それらを中心にして、空いた時間に内的な仕事をすれば良い。本を読み、考え、記す。忙しくなりすぎない程度に外へ出て、その分内的な時間も確保すること。そうしていけば、未来は変わっていくのだろう。

その先のことは、その時に考えれば良い。それまでの道のりが、人生で一番の壁となる。それを乗り越えてしまえば、後は何とでもなるだろう。そんな気がする。

 

また明日。

 

参考文献: