欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

尊重を欠いた接し方 存続に関わる痛手

今日も祖母宅に居る。午前から曇っていて、午後になって雨が降りだした。今は小康状態となっていて、雨音は聞こえない。でも、またぐずつきそうな雰囲気だ。どこからか、かえるの合唱が聞こえる。

 

ワクチンの接種から一週間近く経った。そして、次の通院日も一週間後にある。この頃の身体はどうだろうか。良くもあるし、悪くもある。

最近では、変わらずたくさん食事を摂れない。かといって、明らかに食べられない訳ではない。そうなってしまえば、明確に衰弱していく。数値もとたんに傾いてしまう。そう考えれば、最低限の食欲や満腹はあるのだろう。

 

体調には波がある。腹を下したりもするし、無理をしたりもする。特に何もない時であっても、食欲が湧かない場合もある。散歩の有無が関わってくることもあるだろう。

適切な身体のケアは難しい。正解が解らない。それがあるのかも分からないし、それを選び取るのも至難だと思う。

 

ワクチンの接種日の前後では、何かと神経が高ぶっていた。安全に関わる事柄では、大きく存続に関わってくる。そのため、無理をしがちだった。その日にかけて弱っていたのだった。

体重も大台を割っていた。体力の低下もあっただろう。腹を触った時、また肉がえぐれているのを感じた。とても恐ろしくなり、体重を測定するのを止めていたのだった。安心できるようになるまでは、負の情報を取り入れなくても良いと判断した。

 

その後、今になってペースが戻りつつある。直近の日々では、最低限の食事を摂ることができている。体重は数百グラム増えている。散歩へも一回出た。その時は、さほど体力の低下は感じなかった。

大きな問題はない。ただ、依然として余裕はない。今の生活においては、体力の問題は少ない。でも、活動的にいるには頼りない。体重に余裕はなく、いつ揺らいでしまうか分からない。

大食は出来ないと理解しつつあるけれど、もう少しは肥えていたい。やはりその願望がある。

春頃の体重が理想だ。その頃は、まさに最低限の体力があった。余裕も少々あり、欠乏を満たすために活動できた。その原資はあり、余裕も体力も十分にあった。

 

食事の摂取量は、一般的な量の六割に達しているか否かだ。そうなっていれば良い方で、調子の良い時でそれくらいだ。やはり、一人前の量を食べられはしない。そうなれば、体力も付かないだろう。一般的な活動をするには及ばない。

外胚葉型であり、少食であるのは分かっている。それはそれで受け入れつつあるけれど、体力がなければ困る。栄養失調に陥れば、ただの痩身ではなくなる。

 

春頃に身体が上向いたのは、"無理をすることがなかったから"なのかもしれない。それまでの冬の間は、全く運動をしていなかった。それを回避していたのだった。体力が付くことはなかったけれど、安全の十分な満足にはなっていた。

体調が上向くことは少ないけれど、落ちることもない。それなりの満足によって満ちた身体を、暖かくなった時に発散させた。歩いて運動するように務め、そこからエネルギーが回り始めた。

今年の夏場は不安感が強かった。暑さもあり、慢性的に体重が落ちていた。散歩へも出られず、不安感が続いてしまった。開放的な安全は失われていたのだと思う。

 

無理は万病の元だ。それに尽きるのかもしれない。少しずつ体力を蓄えれば、いつかは外へ出たくなる。それをじっくり待てば良い。

無理をせず、身体が落ち着くのを待つ。やがてエネルギーが満ちた時、それを快く発散させる。そうすれば、身体の益となる。

睡眠、食事、休息、安全、それらで心身を満たし、エネルギーを蓄える。そうしていけば、自ずと意欲が湧いてくる。

 

それは食事においても同じだろう。そう思いつつある。食事量の停滞を生むのは、無理のしすぎがある。それがなければ、ある程度は身体の調子が落ち着くと思う。

身体の状態に打撃を与えないこと。それが出来るようになれば、食欲のむらもなくなっていくと思う。

 

それでも、無理のしすぎや食欲不振は、欠乏があることによって生まれている。欲求の満足があれば、そのどちらも収まるだろう。身体のストレスはなくなり、食欲が湧く。体調にまつわる自尊心コンプレックスも影を潜め、無理をする必要もなくなる。

食欲が湧かないのは、日々を鬱屈と過ごしているから。在りたい日々は根強くあり、それを叶えられないのはフラストレーションとなる。

刺激を得られない日々であれば、刺激追求性がネックとなる。最適な刺激のバランスを整える必要がある。

無理をしてしまうのは、体調を整え、安全に存続を保ちたいからだ。かつて体調が悪かったことにより、周囲から好ましくない扱いをされた。

 

なぜ好ましくない扱いだったかと言えば、自分に対して安全と尊敬と欠いて接したからだろう。詳細は省略するものの、体調が悪ければ生死に関わると学んだ。それは肉体と精神のどちらでもだ。どちらにおいても大きな打撃となっていた。

自分が身体を通して求めているのは、正の感情。つまり、愛、所属、肯定、尊厳だ。それらを得るために、身体に無理をさせてしまう。

それを得て生存を確かにしなければ、また生死に関わる。そう身体は記憶した。安全、愛、尊厳を得ること。そうして在りたい日々も手にすること。

周囲の誤った接し方を、今の自分にも繰り返してしまう。センシティブパーソンは、周囲からとても影響を受ける。

 

欠乏欲求を満たし、快く活動すること。刺激の折り合いが上手くいけば、ストレスがなくなる。幼児のように、安全や肯定などを求めることもなくなる。

今の自分は、身体に無理をさせ、正の感情を得ようとしている。周囲の人は、誤ったやり方で自分を助けられると思っていた。それに悪意はなくとも、不出来を知っていなくとも、愛や尊厳を欠いていたのだった。

奇しくもそれは、周囲の人を助けるものでもあった。その方法で自分が助かれば、周囲も同じく助かる。周囲が誤って干渉してこなくなれば、自分の存続も保てる。

身体はそう学んでしまった。だから大人になっても繰り返してしまう。狂ったように、子供のように。

先月の通院日は、それなりに体調が良かった。行き帰りの行程で辛くなっていなかった。体力的に問題がなく、帰宅後に気を遣っていた。それは十分な好調の証だろう。先月はそれがあった。

今月はどうなのだろう。体重は戻るのだろうか。ドクターとの面談では、体重を訊かれることはなくなっている。少し体調コンプレックスについて話したのもある。厳密に申告する必要はなくなったと思う。

先月のような体力があるのであれば、後は欠乏を満たせば良い。親しい人と定期的に会い、満足を得る。後は内的に過ごし、文を記す。

それで良いのではないかと思う。それに収まっても良いと言う保証は、まもなく公的に授けられる。

ワクチン後の日々では、何も予定がない。人は、自由時間が多すぎても幸せにならないそう。やることがなければ辛くなる。適度な興奮が必要だし、成長に費やした方が健康になる。

親しい間柄と、成長のための仕事。これらが必要だ。それさえあれば欠乏は満たされ、可能性は発展する。人は、自分の本性に忠実である必要がある。そうしていけば、健康になる。

カリキュラムとマニュアルの最終仕上げに入っている。捉え直しを再び始めている。

 

また明日。