欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

社交の痛手と不調 慢性的な調子

昨日は通院日だった。明けた翌日になって記している。昨日も祖母宅へやって来ていて、今日も来ている。

昨日は少し疲労感があって、少し眠気があった。頭も活動態勢とはいかず、ゆっくり過ごしていた。それでも日記を記したり、本を読んでいた。

通院では何事もなく、無事に帰宅した。次回の診察の頃は、雪が降る前の辺りだろう。

通院日の前日の調子は、とても良かったと思う。無理のしすぎもなく、それでいてたくさん食べられていた。最良の調子で通院を迎えられると安堵していた。

でも、当日の朝の調子は良くなかった。胃のむかつきはほとんどないのに、食欲がない。食前の漢方を飲んでも全くだ。物を美味しく食べられる感じがしなかった。それは不調の一番の指標となる。

それでも食事を摂り始める。それなりに食べられそうな感じもしたけれど、好ましくないような悪心もした。やはり、いつものようには食べられなかった。結果として、用意していた量の一口を残す。

いや、もっと残しても良かっただろうか。二口ほど残しても良かったと思う。食べ終わった時点でそう思った。腹に気持ちの悪い感じがし、状態の悪さと無理のしすぎを思った。

覆水盆に返らずだ。もう後戻りは出来ない。久し振りに状態の悪い朝を迎えた。ここ数ヵ月間は、良い調子で迎えていた時が多かった。

それなりに朝食を食べ、行程を乗り越えたいと思っていた。それを課していたのだった。その事をその時に知る。

 

親の運転する車に乗り、病院へと向かう。その時の辛さは凄かった。出発までの悪心は強くなかったけれど、いざ車に乗ると苦しくなった。体調が乱れているという実感があり、それが現実となってしまったことを恐ろしく思った。

直近の捉え直しでは、「社交や見慣れぬ場面では、体調の悪さが神経の高ぶりを増幅させる」と認識していた。それを避けようと考えていたのに、ちょうどそうなってしまう皮肉。

二度ほど嘔吐しかけた。水を飲んでもリラックス出来ず、それどころか気持ち悪く腹に残った。それを戻してしまうのではないかと思い、ますます高ぶって吐気が増した。危ない時がたくさんあった。

やはり、身体の状態が悪ければ、社交における不調コンプレックスが湧く。それは高ぶった際の吐気を増幅させる。

 

でも、病院の中では多少和らいだ。人が多くなかったのはあると思う。具体的に説明は出来ないけれど、いざ予期不安を思っている場所に行くと、そこまで高ぶらない時がある。

見知らぬ人に緊張したのではなく、かえって車中での方が緊張した。それは親と狭い箱に居たからか。その方が辛かった。

そして診察が終わると、丸々不安感が消えた。ワクチンの接種後でもそうだった。予定の大半を終えると、綺麗さっぱり不安がなくなる。まさに胸を撫で下ろした。胸のしこりや澱は、まるごと霧散していった。まだ人は近くに居るものの、吐気はなくなっていた。

 

不安による吐気の増大が大きかった。実のところ、帰宅後の昼食はよく摂れた。つまり、そこまで胃に負債があった訳ではない。許容範囲内の無理ではあった。

そう考えれば、一口残しただけでも良かったのだろう。多少の状態不良は確かでも、吐気をもたらしたのは不安だ。

「状態の悪さが神経を高ぶらせる」

その認識がより吐気を増幅させた。直近の捉え直しでそう理解していたため、ますます不安が増した。とにかく避けたい状態を、偶然にも招いてしまった。それを思ったら一巻の終わりだ。

 

かつて神経が高ぶった時、身体が辛くなって痛手を負った。高ぶって吐気に見舞われた場合、周囲は誰も助けてはくれない。いや、かつては助けてくれた人が居たけれど、周囲に迷惑をかけてしまったと思っていた。

皆の前でいきなり空えずきをし、驚かせて不快にさせた。その個人的な心象が、大きな外傷になってしまった。

神経が高ぶった際、自分は吐気を催す。そういうタイプだ。それが胃袋の不調と重なってしまえば、ますます吐気が増大される。

胃がきつい時に社交へ出れば、吐気の限界を超えれるかもしれない。過去の経験はそうだったのだ。

 

同じような状況になれば、かつての経験を繰り返すかもしれない。周囲から負の感情を受け取ってしまえば、対人関係にとてつもない痛手を被る。

不安の絶頂を迎えてしまうのは、肉体的な辛さがある時。胃袋の状態が悪い時だ。そういった経験を繰り返してきた。かつての強い吐気に見舞われた時は、同じような条件があった。

それらの原体験や、解明された痛手の認識がある。それがかえってネックとなってしまった。少しでも調子が悪ければ、個人的な大惨事になりかねない。今回の通院では、そんな不安の種を持っていた。

 

とにかく無理をしないことだ。それさえしなければ、時間の経過で何とかなる。

何かの予定がある時は、いつも調子や体力を求めてしまう。ワクチン接種でもそうで、それを求めて無理をしてしまっていた。自尊心を保とうとしたり、安全を得ようとしてしまう。それはコンプレックスが優位に立つためだ。

診察は滞りなく終わった。問いの内容も変わらず、それなりの状態を伝える。調子はワクチン接種後に復調していた。

ドクターからは、まずワクチン接種のことを訊かれる。無事に終わったものの、接種日にかけて調子が乱れたこと、その後には回復したことを伝える。ドクターの反応はよく覚えていないものの、細かな挙動が思い出される。それを見た気がする。

「接種後ではなく、接種前に色々あったんですね」と仰った。

笑われた訳ではなかったけれど、どこか皮肉られていたような気もした。初めてそんな例外を知ったのだろう。そんな感じがしたし、それ以外の心理もあった気がする。おぼろ気な記憶を思い出すと、そのような感じがした。

いや、ドクターに不満がある訳ではない。関係性も悪く思ってはいない。どこか気になったというだけだ。詳細は覚えていないのだから、もうやめておこう。

 

体調についての問いは、簡潔なものが多い。その方が有り難く、今後もそうなっていけば良い。

前述のように、通院の際は調子を上向けたくなる。なるべく良い調子を報告しておきたい。とやかく干渉されたくない。それが精神の危害となった原体験もまたある。

変わりなく過ごし、集中力もあることを伝える。それで調子の確認は終わった。それなりに食べていることは事実だし、マズローの伝記も読んでいる。その事実による立脚はあった。

体重への問いがないのが良い。以前に「病院コンプレックスのようなものがある」という旨の事を話していた気がする。病院にかけて体重を気にしてしまう心理のこと。その経緯もあったのか、体重への言及はなくなったと思う。

それは重要な指標ではあれど、本人がそれなりに元気ならば良いだろう。問題なのは、衰弱してしまった場合のことだ。その容態でなければ、医療に求めるものはほとんどない。だとすれば、良い時は良いと言えば良い。

毎回確認されない方が良い。コンプレックスを事前に伝えておけば、その影響を減らす工夫が出来る。理知的な意識の認識を用い、ドクターは過干渉ではないと理解すること。

通院における体調コンプレックスは、好不調コンプレックスでもある。どんな調子であれ、とにかく身体を上向かせようとしてしまう。それを沈静させるには、表層の自我が優位にならなければならない。

 

それ以外には何もなく、帰路に就いた。地元へは直帰せず、少し大型のスーパーへ寄った。ワクチンの接種は一回目の時点だけれど、ウイルスの蔓延は収まりつつあった。賑やかな店へと寄り、昼食を買う。それは二ヶ月振りだっただろうか、少し刺激を感じられたと思う。

通院は無事に終わったと強調したけれど、やはり負の要素はある。体重という問題は大きい。通院日の前日には、またもや大台の数字を割っていた。そんな事実が現れてしまう。この状態が久しく変わらない。

運動をしたとしても、果たして効果があるのだろうか。調子が上向いた時はあっても、それがかえって好調コンプレックスを生むこともある。無理のしすぎはいつでも顔を出す。

積極的な運動は、身体の益になるのだろうか。消耗に繋がるような気もしてくる。

春などの頃を思い出せば、積極的に身体を動かしていた。それが功を奏したと振り返ったけれど、果たしてそうだろうか。

それ以外の要因があったのか、何だか思い出せない。運動の効果か、それとも安全の過剰満足によるものか。

 

単に食事が少ないせいもある。ご飯一膳を食べるのが精一杯で、味噌汁とおかずは少々だ。それ以外には食べられない。客観的に見れば、明らかに貧弱なのだろう。

でも、客観視したくない。どうにも目を背けてしまう。いつも主観でばかり感じていて、それなりに食べていると思っている。

 

それ以外では、捉え直しが鮮明になったせいか。今回の通院では、社交不安の極まりの原因が解っていた。それを認識することが出来ていたため、かえって不安が増大してしまった。

それと同じように、体調が悪化していく過程も分かるようになった。それを回避させようと無理をしたり、身体を上向かせて安心しようとしてしまう。簡単に言えば、呑気でいられなくなったと思う。

 

他には内的な仕事のせいもありそうだ。実際は無意味なものであれ、内的な作業は色々とある。それにより、常に頭を動かしている。一日の可処分エネルギーは、毎日作業に費やしている。

栄養不良の身体にとっては、脳のエネルギー消費が打撃なのだと思う。それが栄養収支を負に傾かせる。昨年から今年の春にかけては、やることを詰めていなかった。暇を感じる時間が長かったと思う。

そうなれば、安全の過剰満足となる。誰かと会いたくなり、集まりに属したくなる。それが満たされなければ、強い暇を思う。その呑気さが、かえって体調の安定をもたらしたのかもしれない。

 

今はやることもあるし、在りたい日々への願望も強い。それが身体を消耗させ、無理のしすぎを招いているのかもしれない。

より詳細な原因を知るには、これから捉え直していくしかない。

調子は短期的に変動したり、中期的に固定されたりする。今は変動が多い時だろうか、あまり調子は落ち着かない。現状維持が手一杯で、するすると身体が上向かない。その感触がなく、久しくそれを忘れている。

 

社交不安や無理のしすぎの原因は解ってきた。それらの骨格は見えつつある。でも、肝心なそれを癒す手段が見つからない。理屈は見えていても、それを現実生活に落とし込めない。そうした場合、何も手掛かりがない。

一言で言えば、会う人が居ないし、行く場所もない。やはり、それらはどうしようもない。

 

内的に費やすのが問題なのだろうか。そうだとすれば、一刻も早くやめた方が良いのだろう。義務的に費やす意義もない。それは既に解っている。

はてなブログで記すのならば、ここで直接の利は得られない。あるのは無報酬の資産形成のみ。ただ無欲に記すしかないのだ。だとすれば、好きに積み上げるしかない。それが出来ないのであれば、務めて記していくのに何の価値がある?

 

問題は色々とある。理想を一言で集約すれば、ただ食事を美味しく頂けたら良い。それに尽きる。それが幸福の鏡となる。食事が美味しければ、良い生活が出来ている証だ。

その時の心理を味わってみたい。気分から何まで変わるのだろう。体力も生まれていて、意欲も湧く。活動も出来、刺激を味わうことが出来る。

景色の見方も変わるのだろう。実はそれを一番味わいたい。自分にとっては、食事の満足と自然への感度が鏡となる。

調子の良い暁を迎え、都会で季節の風情を感じていたい。自分には、自然と賑やかさが欠かせない。

今ある苦しみは、価値のあるものなのか?そう感じられたのなら、少しはましになるのだろう。偉大になるためには、誰しも下積みが必要だ。

 

また明日。

 

参考文献: