欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

欠乏の代償 自在な表出

今日も祖母宅に居る。辺りは雨が降っていて、すっかり冷え込んでいる。真冬の服装をして、暖房を焚いた部屋にこもっている。出掛けるにはジャンパーが必要だ。風が体温を奪うようになった。

寝床も冬仕様でなければ冷える。いきなり冬の色合いが濃くなった。これが晩秋なのだろうか。

来週の天候はどうなのだろうか。ワクチンの接種では、腕を出しやすい服装にすべきだろう。いや、もはや肩を出さなければならない。何枚も肌着を着込んでいれば、終いには半裸にならなくてはいけないかもしれない。かといって、半袖でも間に合うのだろうか。

体調はそれなりだ。上向いている訳ではないけれど、悪くはない。それは言えるのだろう。中期的に安定していて、直近では無理をして食べ過ぎることがない。それが大きい。僅かに調子は上向いているといったところか。

昨日の体重の計測では、ほんの少し上向いていた。大台を回復していた。ただ、それは百グラムの余裕だった。

色々なことを加味しつつ、尿量の範囲内だと思いつつも、一応は増加しているのだろう。少なくとも減ってはいない。

無理をしていない分、効果が現れてほしいところだ。便も快く出るし、それは無理をしていない証だと思う。無理を数口してしまえば、そのぶん下ってしまうのではないのだろうか。

 

自我の制御が効いている内に、少しは上向いてほしい。でも、そう思ってしまうと駄目になる。制御をしていきたい気持ちと、コンプレックスの支配は紙一重だ。

真っ当な意識の決断に見えても、コンプレックスは正常な意識の陰にある。気を抜けば意識に憑依し、やがてすぐに居なくなる。

それが顕在化しても、顕在化されたことを認知できない。正常な意識の仮面をし、何の不自然さもなく発現される。そうして食べ過ぎてしまう。その事に気付くのは、無理の負債が祟った時。振り返った時でしか解らない。

 

食事の絶対量が上がらない。それがやはり大きいのだろうか。供給が消費を上回らない限り、肥えることはない。それは単純だ。その理屈がずっとあるのだろうか。

ご飯一膳を食べるのが精一杯で、おかずは数切れの薄い肉。あとは一杯弱の味噌汁だけだ。それらを器に盛って置いてみると、その貧弱さを思う。ふと客観的に見ることが出来た。

少ない食事量が当たり前になると、それがそれなりの量に思えてくる。認知が歪んでしまう。そうなれば、少ない食事量を直視せずに済む。それを意識してかいないのか、都合よく思ってしまう。

その歪みは直さなければならないのだろう。それがあると、数字の悪化の原因を理解できない。良くするための方策は少なくても、現実を直視しておいた方が良い時はある。

特に良くしていきたい時はそうだろう。今は悪化することがないのだ。極端に無理をしすぎることはない。不調コンプレックスよりも、好調コンプレックスの方が強い。そうなのであれば、客観的な視点が必要なのかもしれない。

 

摂取量は少なく、おまけに頭を使っている。このエネルギーバランスでは、大台割りになるのが自然か。少なくとも、体力が余ることはない。活動的にいるのには、まだまだ余力が足りない。

単純に考えて、よく頭を使っているのが大きいのかもしれない。それがあり、暇が少なくなっている。

去年や今年の春頃までは、ほとんどが暇だった。運動をせず、読書やブログにもさほど費やしていない。大半は動画を見ることに吸い取られていた。そういった生活の違いが大きいのだろうか。

頭でエネルギーを使わず、暇を思っていた。それが十分な安全の満足に繋がっていたのかだ。それがあれば、高次のフラストレーションが湧く。それは安全感が十分に満たされているからのもの。

生活の圧迫や焦燥がなければ、多少の体力で生きていける。大半を動画の視聴に費やすのならばだ。だとすれば、安全感はしっかり生まれる。それが体調の安定をもたらしたのかもしれない。

 

何だかよく思い出せない。調子の良かった頃の記憶は薄れる。何が好調を生んだのかが解らない。

春は最低限の体力を用い、積極的に散歩へ出ていた。それにより、徐々に体力が満ちていった。安全の満足は病気の悪化を防ぐ。次の段階に進んでいて、新たに生まれた高次の欲求を満たそうとしていた。

春はその局面だったと思う。少し進展して、今度は高次の満足が出来くなっていた。それが内的な刺激となり、好転したリズムを鈍化させた。

 

あとは捉え直しが悪く働いているかだ。良くするための経過が解るようになったけれど、その逆もまた解る。悪くなっていく経過も解り、それを回避しようとしてしまったりする。

作業、暇、捉え直し、どれも後戻り出来そうには思えない。作業をなくしても、新たな認知がなくなることはない。

散歩も行く気がなくなりつつある。多少義務的に励むことは、果たして意味があるのだろうか。そんな気がしてくる。天候もぐずついているし、条件が悪くなっている。あまり打つ手がない。

朝のルーティーンを終えると、いつも手持ち無沙汰になる。やることがなく、とりあえず本を読もうとする。とりあえずと言っても、これも義務的に務めてしまっている。

やることがないのであれば、将来のためのインプットをするしかない。その思考は好ましいはずだけれど、そう思えなくなってきた。

習慣の縛りから解放されたい。これは神経症的な欲求によるものか。内部信号を感じ取れなくなっている。生活に束縛や切迫はないのに、時計や習慣に忠実になってしまう。これが辛く、どうしようもない。

 

単純に考えれば、やることがあれば病は癒えるだろう。刺激的な環境があれば、それは大きな治療の場になる。そこで好ましく刺激を感じ、基本的欲求を満たせば良い。そうすれば、ノイローゼは癒されるのだ。それは明白だ。

擬似的な習慣に費やしても仕方がない。それに効果などない。読書は自分のペースですれば良いし、はてなブログも好きに積み上げれば良い。

ブログに関して言えば、それは無報酬の資産形成だろう。それに費やしたとしても、正の感情は得られない。

スクリーンタイム以外の時間が必要だ。そうやって基本欲求を満たし、ノイローゼを癒すこと。そうしない限り、歪みはなくならない。全ての無理のしすぎ、社交不安、内部信号の弱力化、いずれにも効くのはそれだ。画面を見たとしても、何も始まらない。

 

内的な時間で得ようとしているのは、社会的な存続だ。インプットとアウトプットを課すのは、豊かな日々を得たいという、欠乏動機の昇華にすぎない。それが擬似的な無理のしすぎの正体だ。

在りたい日々を送りたいという欠乏が、昨今の不調をもたらしている。自尊心によって建設的に生きたいし、心身の存続も保ちたいと思っている。

 

やはり必要なのは、外的な対人関係の時間だ。人が生きるのはこのためだろう。それが全てだ。それ以外に何があるのだろう。それが欠けているのであれば、何に費やしても気休めにしかならない。

生身の人間と触れ合うことこそ、生きる栄養になる。そのために生きるしかない。

 

時間の縛りから解放されたい。ひたすら己の歩調に忠実になること。好きなことを好きな時にする。本、文章、インターネット、これらを好きにする。好きに読み、好きに書き、好きに見る。その方が吸収も良い。効率も良いだろう。

それらを人生の基軸にする。自在に時間を操れるようにし、好きに内的に費やす。それと同じように、外的な時間も取る。

そうやってバランスを整え、主体的にアウトプットをする。それを能動的で創造的にすること。

身の回りの雑事にもそうする。それらの時間の無駄はあっても、外的な時間としては有効だったりする。家事や雑事などは、習慣の時間を奪うと嫌悪してしまいがちだ。でも、その時間くらいあっても良い。そう思うためには、務めの縛りをなくすことが必要。

 

基本的欲求を満たし、趣味を趣味としてやる。そして自己を好きに表出させる。可能性を活かして成長し、その喜びを得る。そんな日々を生きることだ。

基本的欲求の満足と、天職との邂逅。それが人生の全て。

身近に刺激的な環境がないのが痛い。田舎がどうにも恨めしい。皆も都会へ出てしまったし、近くには誰も居ない。

誰とも連絡を取っていない。そうすれば、近くから居なくなるのだった。今になって気付いた。もう遅い。もう取り戻せないものが多い。

 

今年も晩秋になってしまったよ。来年は二十一歳。中身は小学生のままだ。ドロップアウトから何も成長していない。何も人生が始まっていないよ。

時だけが過ぎていく。ただ一切は過ぎていくのみ。

 

また明日。