欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

擬似的な終焉 真価までの下積み

今日も祖母宅に居る。昨日の夕方にワクチンの接種をした。これで件の感染症リスクから解放されたい。あともう少しの辛抱だろう。

次の通院日までに調子を上向かせたい。今はその心境だ。

早いものできちんと終わる。未来の時は必ずやってくる。生きていればそうだろう。ただ、こういう思考を繰り返していれば、すぐに歳を重ねてしまうのだろうな。

山並みの木々は紅葉しつつ、手前にある緑は朽ちて枯れだした。命の終焉が近い。命の終わり、無機質な曇天、色を失った辺りとはげ山。

接種してからまもなく二十四時間だ。熱はなく、腕が痛いくらい。これは幸運なのだろう。ただ、午後になって何故か腰が筋肉痛だ。血栓が飛んだ訳ではないだろう。これも副反応か。何か色っぽいことをした訳ではない。

午前は身体のふわふわとした感触があった。身体が反応を繰り返しているような、安静にしなければならない感じ。独特な感じもありつつ、どこか胸の辺りの違和感があったかもしれない。天気も悪いため、散歩はしない。

安静にはしている。でも、内的な作業は詰めているか。マズローの伝記を再読し、音声配信を聴く。SNSをしつつ、時間になって食事を作る。

簡単なものだけれど、控えた方が良いか迷った。身体はふわふわしているし、頭も少し疲れていた。でも、そのまま始めてやり終えた。

午後も容態は変わらない。本を読み、間食を摂り、音楽を聴き、日記を書いた。

接種日前日の体調は災難だった。そう振り返りつつ、当日の昨日も不運だった。目覚めは良かったし、朝食もそれなりにたべられたものの、便通が二回あった。昼食前の微妙な時間に催した結果、腹の状態が少し変わった。

そこで漢方を飲んだけれど、状態が上向かない。昼食はあまり食べられず、食後の状態も良くなかった。

 

栄養不良で接種に臨み、一応は無事に帰宅する。接種の時間まで何も食べられなかったり、検温で高めの微熱が出てしまったりしたものの、何とか接種することが出来た。

そこからの夕食では、平常時より10%は食べられた。最近では一番の調子だった。食べてもあまり腹に溜まらず、苦しくもならない。満腹になっても平気だった。この調子があるのなら、ようやく肥えていくのだろうと思った。

恐らくは、やはりストレスからの解放が大きいだろう。自分は接種後ではなく、接種前に体調が悪くなる。検温で微熱が出た弁明で「緊張しています」とドクターに伝えたものの、「緊張しないで下さい」と、たしなめられた。それは穏やかで配慮があったものだけれど、次は社交不安も予診表に書いておこうか。

 

ここから調子が加速していくか、あるいは尻すぼんでいくか。どうなっていくのだろう。次の通院日もどう迎えるのか。痩せの説明をせざるを得ないのか。

三回目の接種は春頃だろう。その頃は今をどう振り返るのか。「そんな時もあったものだ」と思っていてくれたら良い。今の苦しみを哀れんでくれなくても良い。とにかく元気であれば良い。

接種日までの不調があり、体重はじり貧の様相だ。ご飯一膳とそのほかの数口では、そうなってしまうのも仕方ないか。夕べの食事を思い出すとそうなる。

一昨日は、かなりセンチメンタルになっていた。それは昨日を節目に変わっていくのか。あまり楽観的に記したとしても、どうなってしまうのか分からない。

 

どうしてこうも食事が摂れないのか。今もまだ解らない。ノイローゼは解っていても、実際の調子となれば解明できない。これが素人のフィードバックの限界か。あるいは切羽詰まれば認識が変わるのか。最近の日々では、無理をしないことに重点を置いていた。

自我の努力の限界はある。無理を恐れる食事が原因か、運動の有無か。それとも内的な仕事のせいだろうか。マニュアルとカリキュラムの完成は近いはずなのに、また初歩的なことでつまずいてしまった。

どうにも大変。解らない。解らない。いよいよ命の終わりが近づこうとしているのか。体重も、食事も、運動も、仕事も、どうすれば良いか知らない。過去に似たようなことを繰り返しているのかも、全く解らなくなった。

 

全てを流れに任せるか、それともどんどん悪化してしまうのか。どうにかなってしまうかもしれない。そうなってしまうかもしれない。そうなってしまうかもしれないものかもしれない。

どうにともならない事が多すぎる。どうでも良い事なら良いのに。本当にそうだ。大体そうだ。

 

本を読んで気付きがあった。真冬の冬山で遭難し、凍えて死んでしまう人には原因があるらしい。それは諦めてしまうことだそう。極限の状態であっても、「死にたくない」と強く思えば死なない。餓死の危機の際でもそうらしい。

いかに諦めないかだ。自分もそうだったのかもしれない。かつては極限まで痩せてはいなかったと思うけれど、かなりの栄養失調になっていた。つい一年半前くらいは、入浴するのもままならず、便通の際にはかなり苦しくなった。貧血だったのだろう。体力の消耗と吐気が強くあった。

その時に自分は、「こうやって人は病に打ち負けるのだな」と思っていた。そうしてそのうち死んでいく。若くして闘って亡くなると、こういった気持ちがあるのだと感じた。死は完全な消滅だ。絶叫しながらついえていく。その瞬間を思っていた。

 

その時に"生きよう"と思ったから、今もこうやって生きているのかもしれない。ずっと幸せになりたいと思っていたし、なれると思っていた。この状況が悔しくて堪らないと思っていた。

人が生まれ変わるには、擬似的に死を迎える必要がある。そんな記述を読んだことがある。それは肉体においてだったり、精神的なものだったりする。

一度死の淵に追いやられ、ある種の死を経験すること。そこに堕ちても尚、生きる力があるのか。そして這い上がって生きることが出来るのか。その時に人間の真価が問われるのだろう。

だとすれば、まだそれを試されているのだろうか。どうにも下積みが長い。知識と経験が必要なのだろう。人間が大成するのには、数十年はかかる。

いつ事切れるか解らない日々は、もう勘弁だ。早く解放されたい。それだけが唯一の思いなのに、どうにも変わらない。

 

真価なんて問われていないのか、それは人間の主観による物語か。あるいは、そう捉えて理解した方が容易いのだろうか。人間という存在は。

全ての結果には原因がある。自分を自らで助けなければ、何も変わらない。そうしなければ誰にも救われない。自分を救えるのは自分のみ。この状況があるのは、すべて自分のせい。

そう思って行動するには、たくさんの複雑な原因がある。それを理解して受容しなければならない。

次の診察では、プロの判断を仰いだ方が良いのか。セルフフィードバックには限界があるのだろう。そうしなければならないのであれば、そうするしかない。

すべきことは、空腹の時間を作らないこと。無理をしないようにし、なるべく食べておく。一食は進まなくても、間食は摂る。そうしていけば、良い結果が表れそうな気がする。

 

また会いましょう。また明日。

 

参考書籍: