祖母宅に居る。ストーブやエアコンが不調で、家のがたが出始めている。家は造るものなのだろうか。都会のアパートにでも住んでいたかった。車がなければ生活できない地域では、弱者はどうしようもない。
現役世代もいつかは弱者になるのに、それを解っているのだろうか。不便な地域に生まれついた。
都会に住むことになれば、いくらかの利点があるように思える。狭い生活圏で完結すれば、後は最低限の体力さえあれば良い。それだけで自立が完了するかもしれない。
ただ、お金のことだけは置いておく。お金があったとしても、動けなければ生きていけない。
何かの外的な切っ掛けがあれば良い。それによって生活が変わってしまえば良い。窮ずれば通ずるしかない。
福祉の充実とリーチ、適切なラベリングの確立。それが強固になってほしい。技術や学問の集積は、弱者にとって救いになるはず。全ての人にとっても、地球にとっても優しいものとなる。それらが早く精錬されてほしい。
早くロボットが食い扶持を賄ってほしい。実際のところでは、江戸の世のように大方が百姓をしている訳ではない。だとすれば、いつどうなるのだろう。
どうなのだろう。ロボットが食い扶持やお金を生み、それで生活は保障される。そんな世が来れば革新だ。最低限の生活の保障があり、安全は皆一様に満たされる。
食うために人が働く社会では、どうにも酷なことがあると思う。それではどこかに歪みが出る。仕事における素質の分配がなされない。適材適所が阻まれるのは、生活のために働かなければならないから。
皆が安全の満足を得たならば、働きたい人が存在価値を求めて働けば良い。これはまさに自己実現の社会だ。生活水準を上げたい人が働く。
働ける人も居れば、働けない人も居る。働ける人は働き、働けない人は働かない。働ける人は、自分の成長のために働く。成長のためのニーズに従うことは、健全な技能の活用に繋がる。素質による役割の分担が必要。それが社会のためになる。
地方の都会に住み、部分的BIの年金を貰う。そうなれば、ある程度は生活が確かになる。そうやって好きに生きる。好きに学ぶことが出来る。
交通機関で移動が出来たら良い。そうなれば、後は挑むのみ。必要に迫られたのなら、社会に出て慣れていくしかない。
窮ずればそうするしかない。そうやって最低限の自立が出来たら良い。それで良い。
―
食事がどうにも摂れていない。それを示す結果があるけれど、その現実の認識をあまり持てない。認知の歪みがあり、それなりに食べていると思ってしまう。食べる量を皿に移してみても、「これで栄養失調になるのか」と感じてしまう。
買い物へ行ける体力があれば、今の生活でも受け入れられるのだろう。でも、そうはいかない。体力がない。
精神的なネックがある。コンプレックスのせいだ。その過去の遺物が今もある。
過去に自我の制御を超えた問題があった。それに何とか対応したのは、原始的な意識、つまりコンプレックスだ。それが今の自分にも生きている。
それを潜在化させることが出来ない。その方策は解っていても、現実の生活では何とも出来ない。
でも、その状態を自責的に思っても仕方ない。とにかくコンプレックスを静めなければならない。つまり、行動が第一だ。それまでの下準備は出来ている。
「親を安心させ、自分も精神的な安全を得たい心理」
「基本的欲求の満たされるような、豊かな日々を送りたい心理」
「肉体における存続を保ちたい心理」
これらが無理をしてしまう原因だ。それはコンプレックスがもたらしたもの。過去の問題が自我の制御を超えたのは、こういった要素を失ってしまったから。そして自我の力で取り戻せなかったからだ。
すべきことは、基本的欲求を満たすこと。でも、今の日々ではそれが出来ていない。今もまた、自我の力では何も出来ていないのだ。それがあり、未だコンプレックスが発現している。だから無理をしたりしてしまう。まともな歩みが滞る。
食欲もそうだ。ノイローゼになれば病に見舞われる。人間性や可能性の萎縮があれば、人は早晩病に苦しむ。
基本的欲求の満足により、人間性を取り戻すこと。可能性の展開により、積極的な健康を得ること。それが大切だ。
食欲という問題も、ストレスがなくなれば解決する。そのストレスは、基本的欲求の欠乏によるものだ。正の感情が得られなければ、不確かな内的心象が写ってしまう。刺激が少なければ、退屈して神経が高ぶる。そうなると、豊かな日々を送りたいという心理が強く表れる。
これらのストレスに対し、自我は何も対応が出来ない。その状態に陥ると、コンプレックスが現れる。誤った方法で豊かな日々を得ようとしてしまう。その歪みは身体が受け止めてしまう。
自我による些細な工夫には限界がある。工夫ではなく、根本から解決させなければならない。
でも、多少は必要なのか。手に入れたいものは、ノイローゼの範囲内で最低限の体力を得ること。そのためには、自我による工夫が必要なのだと思う。
いや、それが難しいのだろうか。コンプレックスが発現している以上、全ての変動は時の運。あるいは中期的な停滞と安定だ。自分の欠乏症においてはそう。
悩む必要は何もないのかもしれない。ただ一喜一憂の流れに倣うこと。今の不調もそうなのかもしれない。何も心配は要らないのか。
―
今日は雨が降っている。体調は良い感じだけれど、歩くほどの天候ではない。
窓から身を乗り出してみると、外の空気を感じた。冷気が新鮮で、爽やかだった。その感触を幾日も感じていないと思った。
ワクチンの接種前に歩いて以来だ。それ以降は歩いていない。その時は強い風を浴びてダウンしていた。体力の低下があった。
今はどうなのだろうか。食事量は上向いている気がするけれど、腹に肉が付いている気はしない。
消化力はあると思う。いや、それは食事量が少ないからなのだろうか。だからすぐに腹が凹むのか。どちらにせよ、空腹時間はある。
そこで重要になるのは、無理をしないこと。状態を停滞させず、少しずつ食べていくことだ。
無理をすることは減りつつある。表層の自我が優位に立つ時が多い。内的な感覚をしっかり感じ、それに忠実になっている。
恐らくは、無理をしてしまう病理を認知したからだろう。それは大きいと思う。食べすぎてしまう原因は解っている。自我による意識の癖が身に付いている。それが最近だと思う。
ただ、不適切な動機を根底から拭うのは難しい。今は自我が優位に立つ時が多いということだ。
―
無理をせずに食べ、状態を整える。そうして腹九部を意識したり、間食をしたりする。そうやって少しずつ上向けば良い。
それで変われば良い。良いのだけれど。
また明日。
参考書籍: