欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

本質的な対処 次善の策

直近の状態は落ち着いている。ただ、それはまさに直近のこと。数日前までは、絶望に近いような気持ちになっていた。身体に強度がなく、散歩が出来ない。満腹になっても痩せていく。腹や腰の線がくびれ、えぐれてしまう。そんな日が続いていた。

直近では、ほんの少し体重が増えたりもする。それは食事の手応えに呼応していて、ようやく回復軌道に乗ったかと思っている。

ただ、空腹時や腹を下したときなど、不意にきつくなってしまう時がある。それがなくなるような強度はない。それはまだだ。それをこれから得ていきたいところ。

 

ここ数日は、散歩へ出られている。それが効果をもたらせば良いけれど、どうなのだろう。帰宅してきつくなる時もあるし、平気な時もある。好調時の捉え直しで判明しているように、ストレスの低減がもたらされたら良い。そうなれば、食欲も湧くだろう。

そうやって胃袋を整え、継続して食事を摂っていきたい。快く満腹になり、無理をしないこと。そうしていけば、だんだんと調子は上向くはず。

ストレスがなくなれば、無理や食欲不振がなくなる。その効果で身体が上向けば、好不調コンプレックスが発現することも少なくなる。

 

好調だった春頃は、コンプレックスの発現が少なかったのだろう。そうなった理由としては、前述の流れがあったからだと思う。運動によってストレスが軽減され、そこから好循環への歯車が噛み合っていった。

食欲の回復により、胃袋の持久力が付き始めた。食事の摂取と消化に弾みが付き、継続して食事が摂れるようになった。無理をしたとしても、そこまで調子のリズムが鈍ることもない。

そうやって体重が上向いていけば、不安感がなくなる。安全の満足があったのだろう。安全感の阻害は、欠乏症の悪化をもたらす。

 

自分が抱えている不安は、肉体的な存続に関わるもの。栄養失調の脱却という喫緊の課題がある。

体重の増加という安全が生まれたら、心身は落ち着くだろう。そうやって自我や意識の力で制御ができれば、根底にあるコンプレックスが発現することもない。そうなれば、無理をする必要はなくなる。無理をしたとしても、胃袋には持久力が付いている。すぐに負債になることはない。

 

今は運動をしていることで落ち着いているのだろうか。ここ数日の話だ。一週間前であれば、体力の無さと消耗感が強かった。今もそれはあるけれど、食事が安定しだすと変わってくる。今はその変化を感じている。

少しは胃の強度が付いている。以前と比べるとそうだ。ごはん一膳の量がまともになってきた。おかずの量は少なくなってしまうけれど、多めに盛ったご飯を食べられるようになった。

ただ、おかずの量は少ないため、それも食べていく必要がある。体重もぐんと増えている訳ではない。あと10%ほどは多く食べたい。その最低水準に達すれば、いくらかは状態が落ち着くだろう。

ここから腹九部を意識していけば、少しずつ上向いていくはず。何も無理をしなければ、右肩上がりで進んでいくのだろう。

 

無理をしてしまうのは、意気込んでしまうから。そうなれば空回りする。自我による食事の取り方の工夫は、あまり効果がない。お腹を空かせることも、無理をしすぎないことも難しい。

かつての体調不良に見舞われた時がそうだった。ストレスでお腹は空かないし、そのストレスを晴らすことも出来ない。楽になるためには、無理をするしかないと思っていた。

そういったトラウマがある。今も自我の力では何とも出来ないことが多い。そのため、トラウマの再現を回避しようとコンプレックスが発現してしまう。

でも、それがストレスの解消にはならず、食欲は湧かない。それどころか無理をして参ってしまう。

数日前に胃が負債を抱えたのは、好調コンプレックスが発現したから。状態が落ち着くようになり、そこから上向かせようと思い始めた頃だ。勢いを持って苦境を脱しようとしていた。今と全く同じ状況だ。

 

本質的な回復をもたらすのは、基本的欲求のの満足を得た時。それを自我の力では得られていない。そうしてストレスが生まれてしまえば、コンプレックスが対処してしまう。過去のトラウマを再現させないようにだ。

「気を抜けば痩せていく」

今はそうだ。でも、いつかは気を抜くしかない。食事とは、気を張ってすることではない。健康な人は、そのような精神があるから健康なのだ。その精神を得ること。そのためのことをしなければならない。それを知ること。それを実行すること。

基本的欲求の満足を得る。体力の確保という安全を得て、豊かな日々を得る。そうすれば、気楽にいることが出来る。

それは刺激があり、正の感情を得られる日々。所属、愛情、他尊と自尊。これらの満足があれば、ストレスの元凶はなくなる。食欲も湧くし、無理をすることもなくなる。

 

それが出来ない今は、どうすれば良いのか。考えられるのは、やはり運動くらいだ。「身体は動けば動くほど楽になる」と、その言葉を信じて外に出たのが春だ。だとすれば、今もそれをするしかない。

運動不足と不安感。それが原因であれば良い。他にあるとすれば、捉え直しによる経過の鮮明化と、作業によるエネルギーの消費だろう。

最近も同じような日常が過ぎていく。内的にしか費やしていない。それ以外では、純な趣味か暇潰しのみ。習慣による務めはあっても、何の成果もない。

本を読み、知識を増やして資源にする。それを時々、経験と織り混ぜて形にする。

時々外へ出て歩いたり、インターネットで世界を見渡す。音楽を聴いたり、テレビを見たりする。終始貫徹だ。これで良いのか悪いのか、よく分からない。

 

一つ言えるとすれば、内的な習慣は意味がないということ。インプットとアウトプットを課しても意味がない。それは習慣によって基本的欲求の欠乏を満たそうとしているだけ。欠乏の代償行為だ。在りたい日々を得ようと奮闘しても、インターネット空間からは何も得られない。その現実がある。

知的生産をしたい意欲はあっても、今の動機では不純だ。すべきことは、生身の人間と触れあうこと。内的な作業が天職かは分からない。欠乏を動機としたとしても、結局は潰れてしまうだろう。遊びの延長くらいで励むのが良い。

たまに人と会い、心の洗濯をして内的に費やすか、あるいは心の洗濯をし、その後で成長へ費やせる作業を見つけるかだ。

いずれにせよ、とにかく欠乏を満たさなければならない。元気もまだ足りないのだし、仕事をする段階に至っていない。

最低限の食事さえ摂れたら良い。それでエネルギーが満ちれば何でも出来る。内的な作業もいくらでも出来る。消耗して参ることはなくなる。

買い物にも行けたら万々歳だ。体力の最低限の原資を維持しつつ、内的に費やす。そこでインプットを重ね、アウトプットもしてみる。それが何かに繋がるかもしれないし、それなりの生活感も得られるかもしれない。

病人としての公的な認定が下れば、無理をする必要はない。そのなかで、最低限の体力さえあれば良い。そこで人と会えたらなお良し。

そうやってノイローゼを癒せたら、健康であり、自由に過ごすことが出来る。幸福感もあり、自在なインプットやアウトプットが出来る。

 

自分が該当する年金の受給要件は、「自力で軽食を作るなどは出来るものの、就労するのは全く不可」という状態だそう。

確かに今の生活はそうだ。軽食くらいは作れるものの、就労は完全に出来ない。少し知能を計っているような部分が気になるけれど、とにかく大きい不自由があるのは確かだ。病歴を記した書類を見ると、よくここまで生きてきたと思った。

 

もう無理はしなくても良い。それくらいの人間だ。月並みに幸福にはなれなくとも、内的に費やせれば良い。その立場を保証してほしい。

最低限の体力さえあれば良い。それだけで良い。今はただ、それだけがほしい。

次の通院日が迫る。無理をせずに朝食を食べ、楽しく行程を乗り越えたい。

 

また明日。

 

参考書籍: