欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

完璧主義の存在 不自由がある人生

祖母宅に居る。2日振りにやって来た。雨がしとしと降っている。これからは雨模様が続くよう。

そこまで消耗はしていない。でも、ばりばり元気がある訳でもない。もう少しは安静にすべきなのだろう。ただ、そうなると診察での返答が嘘になる。

「秋ばてでお腹が痛いとか、寝込んだりはしてないですよね?」

そう尋ねられ、自分は首を縦に振った。これが稚拙だった。もう大人の歳なのに、ここまでまともに対応できないのか。その恥ずかしさを思う。自立にはほど遠い。いや、せめて悪しき病院コンプレックスのせいだと思いたい。せめてだ。

 

夕べは食事での一口が余計だった。それが重く響いた訳ではなかったけれど、その後に何かを摂れるような感じがしなかった。そのため、スポーツドリンクで腹を収めた。

その判断は良かったと思う。翌朝の調子は最良で、胃の負債はなかった。それでよく食べることが出来た。

「こういうことだな」と思った。小さな無理が祟っているのだ。それが蓄積すると負債となる。無理して詰め込んだ分は、次の食事で差し引かれる。小さな許容範囲超えがよくある。

それによって食欲の波が生まれる。ノイローゼだと食欲は低空飛行なのに、それに加えて状態の悪さが重なってしまう。すぐに食欲が滞り、胃袋の持久力を付けられない。

食欲は根本から湧かせる必要があれど、無理の頻度を減らすことは大切だ。それだけでも十分な効果がある。それがノイローゼなりの基礎的な体力の安定に繋がる。

 

でも、無理のしすぎの原因はノイローゼにある。それを何とかしなければならない。自我による制御が効かなくなる時はある。

こういった捉え直しは何度目だろうか。食欲が湧かないと駄目なのだ。自我がそう思っている。体調が上向かない限り、心身の存続は保てない。そう思ってしまっている。そうしなければ、肉体や精神の安全が得られない。

その危機的な問題に対し、自我は何も出来ていない。すると、それを見かねたコンプレックスが表に現れる。それは無理に誤って対応し、身体が歪みを受け止める。

明けてまた記している。朝になってまたリズムが崩れてしまった。不意に頑張って間食を摂ろうとし、それが失敗に終わった。全く胃が働かなくなり、駄目になってしまった。

空腹時間を長引かせれば良かったのだろうか。ああ、また報われなかった。

母が出掛けているため、祖母宅には行かない。雨も降っている。いや、調子が悪いからそもそも行けない。またリズムが狂ってしまった。

また痩せる。ああ、どうにも脱け出せない。診察の返答が完全に嘘になってしまった。散歩へも行けないし、安静にしていないといけない。実質上は寝込んでいる。何日も外へ出ていない。

安全感の阻害が大きい。これがあれば、欠乏症は悪化する。更にコンプレックスも優位に立つのだろう。

自然に治していくしかないけれど、嘘が響いている。ドクターに虚偽の受け答えをしたことと、それなりの調子とは反対の状態になっていくこと。この心理的な重石が大きい。

プロのフィードバックを受けるべき時に、それどころか誤解を生んでしまった。来月まで調子が戻らなかったらどうなる?

来月は必ず正直に申告するしかない。今回は見立てが甘かった。

 

改めて状態の重さを思う。女性なら生理がこない水準だろう。男でいうそのような生理現象は、気を遣れるかだろうか。これはいつ以来か分からない。そのまずさがある。その力がない。

とにかく死ぬのが怖い。死の願望がある人もいるかもしれないけれど、自分はそうなっていない。死の怖さを感じたことがあるし、最近もそれを感じている。だからそれを回避したいと思っている。

 

ここらどう過ごすかだ。いま思うのは、自責はしたくないということ。どうしようもならないことは仕方なく、全てはコンプレックスの仕業だ。だから、責めなくても良い。

身体のケアが難しいのは、人生を通して抱えるしかない。それは生易しいものではないのだ。

 

直近では認識が変わってきたかもしれない。月並みな人生を送りたいと思っていたけれど、それは難しいのだろう。その現実に打ちのめされつつ、諦めの境地にも入りつつある。

自分にはトラウマがあり、それとサバイブするしかない。重めの精神的な不自由を抱えているのだ。しばらくは幸せになれないし、福祉に頼るしかない。それに掬われてようやく人生が始まるのだ。無理をしても仕方ないし、普通には届かない。

その現実を今は知るべきだ。そうやって壁を乗り越えることに専心すること。

 

ギフテッドの誤診や重複診断にまつわる本いわく、ギフテッド者のトラウマ・サバイバーが人生を何とかする姿勢の一部として完璧主義を示す場合、フラストレーションによる失望の混乱は深刻だそう。

概してギフテッド者は、特に新たな経験には開放的で、社会のルールや慣習を鵜呑みにしたがらない。そして、その多くが高い刺激希求性を示す。完璧主義で、人生だけでなく世界をコントロールしようとしてしまう。その激しさや、堪えがたい状況に耐えたり適応できるように、性分を変えようとする試みによって薬物やアルコールなどを乱用してしまうことがあるそう。

加えて物質使用者は、児童期や青年期にトラウマを経験している傾向がある。そのトラウマへの反応が長期化すると、依存症の発症や持続の誘因となることが多い。

激しさやトラウマに対する過度に強い反応は、ギフテッドネス分野の専門家によって示されている認知能力の高い者の特性ときわめて似ている。

 

更に別の項から加えれば、ギフテッド者にもハイパーセンシティブな人がいるそう。化学物質に非常に敏感な人もおり、彼らは炭鉱のカナリヤとなる。ハイパーセンシティブな人々は自分の症状を敏感に察知し、それにとらわれ気を病み、苦しむということも十分に考えられる。

 

有益な知見を得られた。完璧主義になりすぎず、自責を回避すること。そのための認知は得た。

トラウマ・サバイバーとして、大きな不自由を抱えて生きていくこと。その良し悪しを除いた認識を得ることだ。それが大切。つまり、日々を大きく望まなくても良い。望めないものは仕方ない。その諦めも大切なのだ。

状態を整え、来月の診察で澱をすっきり発散させたい。

最低限の体力さえ得られたら良い。その日々を得るために積み重ねよう。

 

また明日。

 

参考書籍: