HSP/INFJセルフフィードバック

日々の気付きと過程の記録

些細な安心感 日々の糧

今日も祖母宅に居る。天気は少しぐずつきそうだ。ただ、午前は晴れていて、そこで少し歩いた。歩くまでの強度はないと思っていたけれど、朝の作業を終えても体力があった。それだけでも十分な事だったけれど、気持ちが軽かった。歩いても良いと思えた。

長くは歩かず、家の回りを一周した程度だった。それで参った訳ではなかったけれど、少し身体の違和感はあった。行程の半分を過ぎる頃、身体が溶け落ちていくような感触がした。体調が悪くなってはいないけれど、状態の程度を知らされた。

それは体力を示すものであり、嘘偽りなく受け止めるべきだった。良い感触ではない。この状態が今の限度であり、無理は出来ない。それを示していた。

ただ、そうなることを見越していたため、無理をすることなく帰宅した。行く前に行程を見定めていた。それが良かったと思う。場合によれば、無理をしてしまうところだろう。状態に少しの変化を与えるだけが目的だった。体力を誇示するための意識は要らない。

食事は上々だ。今のところ、安定して食べられている。少しは胃袋の持久力が付いている。散歩へも行こうと思えたし、少しずつ着実に上向いている。

一食の量は増えている。多めの一膳を食べることが出来ている。それによって間食を食べられない時が多いけれど、胃の負債にはなっていない。次の食事では、同じように食べることが出来る。だとすれば、問題はないと思う。

これが今の状態でのやり方だろう。胃袋を膨らませていく行程だ。状態が良い時にどんどん放り込むのではなく、可能な範囲でよりよく食べていく。間食を務めて食べていれば、今ごろ停滞していたと思う。そうならなかったのは、失敗を経て得た気付きによるものか。

 

ここからも同じように上向かせたい。食事が安定して摂れ、それに運動も少し出来ている。この状態であれば、突然死してしまう可能性は低くなっただろう。水分も摂っているし、糖分や塩分も摂れている。誰しもいつ果てるかわからないものの、可能性としては低くなっただろう。

これで大方は安心だ。焦らずに食事を摂り続けること。無理をせず、次の食事も安定して摂ることを心掛ける。それが大切だ。無理さえしなければ良い。そうすれば、次第に身体は上向いていく。

 

母との雰囲気が和らいだことも大きい。父を含めた居間は温かくなりつつある。これも大事だ。

数日前、母と前回の通院の話をした。過去の話を引き合いに出しながらだった。身体が落ちてドクターに詰められ、それによって嫌な思いをしたこと。そのトラウマによる病院コンプレックスがあり、ドクターの前で正直になれないこと。電解質異常の認知や、その時の万が一に備えること。それらの要点を話した。

母も思うことがあったのか、自分の不調に対する接し方を謝られた。自分はそこまで責めたくはならず、理解してもらえて良かったと思った。

ギフテッドの書籍にも記されているように、適切な正しい知識は不可欠だ。それを改めて知った。内向直観を主に使う身としては、外側の事実を知ることが重要。それを書籍から得る。外から好ましい認知を得ること。

 

一つの転換点になったのかもしれない。これからの生活でだったり、今の生活でもだろうか。

欠乏症の悪化は、安全の阻害から生まれる。精神的に参ってしまえば、その状況を脱しようとしてしまう。それは自我の力では難しく、潜在しているコンプレックスに委ねられる。過去のトラウマを回避しようと、誤った方法で務めてしまう。

自分にとっては無理のしすぎだ。食事を頑張って摂ってしまう。それによって状態が悪化してしまえば、更に状況が悪くなる。より無理が加速し、がんじがらめになってしまう。

必要なのは、家庭での安心。それはどんな欠乏症にとっても重要だろう。それだけでメンタルの不調は癒されるのかもしれない。それくらい魅力のあるものだ。

でも、人によってはそれが手の届かないものになってしまう。それがどうにかなってほしい。

直近では、少し心身に余裕がある気がする。それを示す状態の指標もあるし、好調だったころと似たような感覚を感じることがある。

日常がつまらなく思えたり、書くことが浮かばなかったりする。それは好ましくないものかもしれないけれど、低次欲求の満足によるものかもしれない。

安全の満足があれば、所属や愛情を求めたくなる。安全で快適な日常であっても、それを十分に享受していると辛くなってくる。春頃はそれが強かった。

 

最近では、朝のルーティーンの後にやることがない。それを思う。それが辛い。スクリーンを見たくはなるけれど、それが本当に刺激的なものではない。ただのごまかしだ。日常が充実していない限り、画面からは何も得られない。ただの暇潰しに過ぎない。

そんな風に費やす日々が続いている。毎日の繰り返しだ。読書は有益な作業であっても、それだけでは日々が腐る。生きる糧にしてこそ読書なのだ。日常を良くするためのものでなければ意味がない。外へ出て人と会い、何かを生み出してこそのものだ。

内的な作業で得たいのは、病を癒すための認知やお金だ。病を癒すための努力であり、お金を稼いで存続を保ちたいと思っている。人と会うためだったり、社会的な評価を得るための下準備をしている。

 

理想としては、読書などでインプットをし、ブログでアウトプットをして、SNSで多くの人にリーチしていく。現実では時々人と会い、心の養生をしていく。そうやって好きなように積み上げていき、いつか健康や自活力が得られるように励んでいたい。

今はそう思う。あるいはペットにでも居てもらおうか。脳からホルモンを出し、インプットやアウトプットを重ねる。そんな日々でも十分に刺激的かもしれない。トライアンドエラーを楽しみ、自分が持っている価値を見つけていく。健康も損なわせず、生活スキルも身に付けていく。

 

アウトプットに精を出せば良いのだろうか。それによって刺激を得られたら、日々の糧になるのかもしれない。何かに勤しむことで適度に興奮し、日常に活気をもたらされたら良い。それが健康の足しになり、いつかの自活へも繋がっていく―。

トライアンドエラーの注力。それも面白そう。

 

でも、やれば良いのにやっていない。それは市場が怖いからだ。そこは刺激が多そう。評価にさらされるのが怖い。誰かから馬鹿にされそうだし、誰にも見られなかったら恥ずかしい。

ああ、この発言こそが恥ずかしいのだろう。そのどちらにもならないはずだ。そんな考えを持っているのなら、今にでも始めてみれば良い。ただそれだけのことだろう。市場の評価にさらされながら、いつか価値を見つけていけば良い。それなのに、どうにも腰が引けている。自分の言っていることを客観的に見たくない。恥知らずで抹消したくなる。

 

いつかは変わるのだろうか。これも基本的欲求の満足で変わるのだろうか。そうなのかもしれない。親しい人が居れば、打たれ強くなる。神経過敏になることも減るだろう。そうやっていけば、出来ることが増えるはずだ。

でも、それが出来ないから別を試そうとしている。それが不意に得られるなんてないだろう。それはもう解っている。自分から動かないと何も得られない。

通院日から一週間が経った。とても早い。この一週で大分上向いたと思う。

やることは変わらない。前述の認識で歩むこと。焦らずに進んでいけば良い。

 

また明日。

 

参考書籍: