欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

真の最低限度 個人の限界

祖母宅に居る。今は小雨が降っている。小康状態だ。午前も薄暗かったため、歩くことはなかった。時間はあったものの、無理をしないようにした。

いや、そもそも歩けなかったか。雨の方が都合が良かった。胃袋の負債があったなかで、朝食で無理をしてしまった。それに気付かずに無理をしていた。

胃がフラットな状態が続いていたのに、それがまたも乱れてしまった。何度目のこんな気持ちだろう。朝食を減らせば、それだけで負債を返すことが出来た。その代償さえ払っていれば、すぐに回復することが出来ていた。

そのつけは何食に渡っていくのだろうか。それが悔やまれる。当たり前のケアが出来ない病的さ。セルフ・ネグレクトでも言うのだろうか。無理をせずに過ごすということが出来ない。

 

今は病時。昼食が腹に溜まっているのか、胃袋の輪郭を感じる。胃酸のような気もするし、どろどろの何かにも思える。とにかく気持ちが悪いのは確か。軽快には動けないし、これを繰り返してしまうのかと落胆している。

そして夕食がどうなるかだ。体重が減ってしまわないか、それが気掛かりだ。

一膳を多めに盛ってしまったのが響いた。自分で摂取量の最低限度を決めてしまった。それが好ましくなかった。失敗ではなく失策だ。好調コンプレックスによるもの。それがまた顔を出していた。

多く盛りすぎたとは思っていた。でも、良い塩梅で食べていけば良いと思ってしまった。それが甘かった。状態はそこまで良くなかったのに、それなりの量を食べようとしてしまう。初めから少なく盛っていれば、大きく限度を誤ることもなかっただろう。

食べられる量の錯覚。限度量はいつもより下がっていたのに、たくさん食べてしまう。それは務めて励んでだ。気付いたら気分が悪くなる瀬戸際だった。

いや、気分は悪くなっていた。到底食後に間食は摂れない。それどころか、スポーツドリンクを飲んだだけでもきつくなった。

 

その負債を翌日に返しておけば、すぐに回復していたのだろう。それを判断できれば多少はまともだった。その次善の思考があれば助かったものの、それがなかった。そこまで負荷が祟っていないと感じ、朝食をそれなりに食べてしまう。

いつもの最良水準を食べられてしまった。食後に薬を飲むと、腹がきつい感じがした。

完全に夕べの食事のせいだ。それを悟った。そう感じざるを得ない。明確に腹が辛かったら良かったものの、何故かそれなりに食べられてしまった。それが悪く働いた。どうしようもなかった。

ノイローゼとしては、やはり大食は出来ない。それを認識した。そう思い続けられたら良い。それなりに食べるとしても、ゆっくり着実に積み上げることだ。よく食べ続けるだけで良い。頑張りは要らない。それだけで自然と上向いていくだろう。健康な人は、無理をしようとはしない。だから健康なのだ。―正しい認識は、すぐに消えてしまう。

まずノイローゼであれば、身体は病的な状態にある。それが変わらず有り続ける。個人的には、真に胃がスッキリすることはない。食欲が湧く時もあれど、それはまちまちだ。

そんな状態が慢性的に続くため、たくさん食べて満腹になることは難しい。それが出来ないのだと認識しよう。それが大切だ。少なくとも理知の上では。

まずは安定して食べ続けること。それだけを考えれば良い。一食で詰め込みすぎない。数時間後には間食が待っている。食べすぎなければ、その時はお腹が空いているはずだ。空かなければ何かの異常がある。主に食べすぎてしまうとそうなってしまう。

ご飯は一膳をまともに盛れば良い。それは自分における最低限の量で良い。単純に考えれば、食べられる量だけを盛れば良いのだ。その量を見て、直感的に判断すれば良い。それは一見すればいつでも判るはずだ。

最近は歩く日もあるし、気を遣れる日も出てきている。内的な作業も元通りだ。そんな日々を慈しめたら良い。それだけだ。それだけで無理をする必要はなくなる。日々の細やかな満足があれば、無理をしてトラウマの再現を防がなくても良い。理屈の上ではそうなる。

でも、今の日々では満足がないのだろう。心身の安全感も少ないし、基本的欲求や高次欲求を満たせていない。

死の危機も遠くなったはずなのに、それを感じることが出来ない。それはプロのフィードバックが必要なのか。知性による説明があれば、それでようやく解放されるのか?電解質異常は回避できているはず。それでも、肉体の余裕を持とうと無理を重ねてしまう。

どうしたものか。在りたい日々の欲求と、心身の安全の欲求。これらが満たされていない。その状況によって不満が募り、自我による制御不能と見なされてしまう。そしてコンプレックスの発現が起こる。

 

あともう少しだけ肥えたら良い。それを望んでいる。いや、そう思ってはいけないのか。それだけはどうしても手に入れたい。

ほんの少しの脂肪と体力。それさえあれば安心して過ごせる。ストレスも和らぎ、胃の持久力も付く。そこから安定期に入るのだろう。そこまでの壁を突破したい。

 

盛り盛りの一膳と、おかずも一品をはしっかりと食べる。そして味噌汁も一般的な一杯を注ぐ。この最低限の水準に達したいと思ってしまう。この理想に達すれば、最低限の体力を得られる。

その願望がネックだ。でも、それが得られたら何も求めなくても良い。そんな日々を取り戻したい。それだけがほしい。そのためには、それなりに食べられる状態の天井を保ちたい。その意識が無理を生んでしまう。

でも、ただの少食になるのは難しいのだろう。病的な状態にあるのは逃れられない。その認識を持つことからだ。それがあれば、真の最低限の体力に甘んじられる。今の日々ではそれを求めるのが良い。

細やかな日々に感謝を。完璧主義からの解放を。後者に関して言えば、個人で出来る努力は限られている。

どうにか誰かが現れてほしい。それはインターネットでか、現実の世界でか。それらのどちらにせよ、自分から働きかけなければならないのだろう。嗚呼、難しい。

 

日々が少しずつ変わっていると信じたい。魂が成長していれば良い。その修練がいつかの日々に繋がれば良い。そのための下積み期間であれば、多少は楽に居られるか。そのためには、その事を誰かに教えてほしい。それは無理なのか?

 

また明日。

 

参考書籍: