欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

簡単な自己管理 真の治癒と幸福

今日も祖母宅に居る。とうとう里にも雪が降った。あさ起きてカーテンを開けると、近所の家の屋根が白くなっていた。水分を含んだ雪が降っていて、もう地肌は見えなくなっている。辺りはすっかり銀世界となった。降るだけではなく、既に積もっている。

寒い廊下を歩きながら、窓の向こうを見ていた。しんしんと降る雪と、白くなった辺り。窓には結露が付いている。その情景を感じて、何だか年末を思い出した。年の瀬の雰囲気を感じた。いつかの心象と重なったのだろう。

かつてはこの祖母宅に皆が集まっていた。年越しは特別な日常があった。その感じが楽しかったのだろうか。

今年は皆が集まるのだろうか。集まったとしても、自分は一人で食事を摂らざるをを得ない。今の自分には早いのだ。情けないけれど、こればかりは誰にも責められたくない。誰しも何かを抱えていると思ってほしい。

ここ数日の流れを経て、胃の状態はフラットになった。負債を返し終わり、最低限の快適な満腹に達している。この状態が通常だ。これが普通であり、ノイローゼであっても得られるものだ。

この満腹が最低限度となる。この状態を維持すれば、体重の推移は安定するだろう。それに加え、ここから胃の持久力を付けていくことが出来る。

些細な無理を繰り返していては、胃の状態が悪くなる。慢性的に推移していくのは、病的な頑張りすぎがあるからだ。それがなければ普通になれる。自分でもだ。

無理をしないことが一番。無理をしてしまったとしても、その負荷をすぐに返し終われば良い。次の食事を無難に終えれば良い。状態が傾いてしまっても、そこで焦らないことが大切。最短で元通りにすること。

無理に無理を重ねることはない。一度落ちてしまったら、そこから何食かを失っても仕方ない。それを覚悟すること。そうして徐々に元気になっていけば良い。胃がいきなり回復することはない。少ない食事量にし、胃に余計な負荷をかけないこと。それをすぐに決断すること。

 

ここ直近の数食では、意識による制御が効いていると思う。限界まで無理をしてはいない。今日は間食を食べられた。それは良い調子の証だろう。徐々に回復しているのが判る。日増しにだんだんと上向いている。

次の夕食で無理をしないことが大切。一度好調になってしまうと、調子を更に上向かせようとしがちだ。再び無理をしてしまい、また胃の状態が傾く。食事量も上向かなくなり、体重を維持するのが精一杯になる。そこですぐに回復しなければ、体重は減っていく。

 

以前からの捉え直しで解っているように、食事を一度に頑張らないことだ。大食をして肥えていくのは難しい。少なくとも今は無理だ。必要なのは、食事量を維持すること。ただ無理をせず、快適に満腹になれば良い。それだけのケアをすれば良い。

無理を制御するのは難しくても、理知ですべきケアは簡単だ。食べられなさそうな量は食べなければ良い。それだけを意識すること。その癖を付け、少しのあいだ維持していけば良い。それだけのことだ。

美味しく食事を摂れる人は、特別なことをしている訳ではないだろう。上述のことをしているだけだ。当たり前のセルフケアをしているに過ぎない。

自分もそれが出来たら良い。それだけを手に入れたい。それが真に手に入ったら、どれほど幸せになれるのだろう

明けてまた記している。夕べの食事も良好だった。間食が祟ることもなく、腹はすっきりしていた。

ご飯一膳の並盛りと、薄い肉を五枚弱、そして味噌汁を少々つまむ。記していて恥ずかしくなるけれど、個人的にはそれなりの量だ。ただ、良いといえば良いけれど、若干は量が足りない。大食をする必要はなくても、あともう少しは食べられたら良い。

それが最低限の及第点か。完璧主義には気を付けたいけれど、体重をもう少し底上げしておきたい。その理想がある。内的には十分費やせるけれど、そこに達して安定させたい。

 

好調だった春頃も、大体はこれくらいの水準だったと思う。なかなか思い出せないけれど、食べているものは変わっていない。

ただ、胃の強度はもっとあったか。一膳を多めに盛っていた時もあり、味噌汁もまともな量を食べていた。おかずも一品弱を食べられていただろう。

冷蔵庫の食料の減り方が違う。それは感じられる。今はご飯一膳を食べきるのに精一杯だ。その後にも箸が延びることは少ない。

それに加え、運動量も多かった。ストレスの軽減があっただろう。それによって食欲が湧いていたと思う。その状態であれば、安全の満足も強かったはずだ。ある程度の胃の持久力はあり、無理をしても支障は少なかったはず。そして運動による効果も生まれる。良い要素はたくさんあった。

 

自然とたくさん食べられたら良い。心掛けて強度を増そうとしては、瞬く間に無理と化してしまう。胃のフラットな状態を維持し、だんだんとよく食べていくこと。それが大切だ。

目標を課すのではなく、心の内なる声を聴くこと。上昇軌道に乗った後、何の凹凸もない歩みが出来るわけではない。時にはたくさん食べられない状態もある。ただ無理をしないでいること。そのなかでたくさん食べられる時が来た時、慎重に食べていく。これらを意識すれば、いつか状態が上向くはず。

 

でも、いつかは本質的な治療をしないといけない。そうしないとまともに生きていけない。同じ失敗の轍を回り続け、身体をすり減らして時を失うのみ。明確な捉え直しは出来ても、いつかは誤りをしてしまう。それはもう判っていることだ。

ギフテッドの著作いわく、かなりの時間を一人で過ごしたがる傾向は、多くのギフテッドに見られる特性だそう。そしてそれは、成人期後期に偉業を成し遂げる人々の基本的な特性でもある。

そういった時間は、才能を伸ばす上では必要なのだろう。そうなると、その時間こそ必要なものに思えてくる。

 

でも、その代償はある。仲間からのサポートは得られなくなるし、何せ自分は元気がない。その支障は大きい。いくら意味のある作業をしていても、リラックスして遊んだり、人と豊かな関係を育む時間が必要だ。

それを渇望しているだろう。そのためにこう記しているのもある。現実的な限度は確かにあれど、病みから上がることは欠かせない。

いつまでも苦しみながら生きていくのか、本当の幸せを得るのか。その選択を真剣に考えなければならない。正の感情を得ずに生きていくとなれば、必ず支障が生まれる。それは基本的なことでつまずかせるものだ。

ゆっくり大人になっていこう。それで良い。それが良い。人生は一度きりだと気負うと、余計な焦りが出てしまう。早くに死んでしまう可能性もあるけれど、長く生きる可能性だって高い。長く生きることを想定しても良い。そう考えれば、いつか失った時間を取り戻せるだろう。

「人生の最初の二十年でカリキュラムを与えられ、その後の二十年でそれを学んでいく」

簡単に成功することなんてないだろう。適当に作業をして大成している人などいない。才能がある人であっても、それを磨かなければならないのだ。

それをしている人ばかりだと知ること。立派になるのには、二十年か三十年はかかる。ギフテッドの著作でもそうだし、アーロン博士の著作からでもそう思える。

 

諦めるのはまだ早い。人生の下積みが長いほど、大きな経験となる。それを形にするための段階を迎え、それを越えてようやく何かが形になる。そのための貴重な時間だと考えても良い。

大いに回り道をしても良い。その間に生きていたら良い。いつか親愛なる人に出会えたら良いのだ。

それはいつ出会っても良い。その暁を迎えたのなら、全てが報われる。過去に意味が生まれるからだ。失った時間は喪失でなくなる。財産だ。その時から存分に幸せになれる。その時さえ迎えられたら良い。

時間は取り戻せる。そう信じていよう。

 

また明日。

 

引用元:

『ささいなことにもすぐに「動揺」してしまうあなたへ』339ページ

ギフティッド その誤診と重複診断 心理・医療・教育の現場から  139ページ

参考書籍: