欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

最低限の日常 考えうるしこり

実家に居る。やることに迷って記している。本を読むか、ブログを書くか、Twitterをやっていればそこでセルフフィードバックが出来るのか。あるいはスクリーンタイムにしてしまおうか。頭の新鮮さをどこに割こうかと思い、まずこう記している。

これはセルフフィードバックのためだ。個人的な仕事の作業。これをどのように展開していくかを考えたい。本格的にやっていくのか、あるいは内的な作業に意味などないのか。

 

ギフティッドの著作を読了した。ただ、一回通読したのみだ。知識にするには再読をし、頭に定着させたい。でも、それをするにも時間や体力が要る。もう次のインプットに手を伸ばしたい。

ここでじっくり再読をすれば良いのだろうか。次は多重知能について知りたい。

 

雪が降っている。歩く日和ではない。でも、歩きたくはない。だから問題はないのか。いや、歩くことを日常の中心にしたい。そうする必要はある。せめてそうしなければならない。誰にも会えないのならば、そう割りきって生活を構築したい。

散歩をして体調を整え、後は内的に費やす。それが現実的な限度だと思う。都会であれば、散歩が出来る体力だけで生きていけるはず。狭い生活圏で公共交通機関を使えば良い。そのためには、最低限の体力さえあれば良い。

人とは会わず、一人で作業をしていく。体調は散歩で整え、内的に費やしてこつこつ積み上げる。そうやって価値を生み、出来る範囲で自活が出来たら良い。多少は不幸せであっても、自立さえ出来れば十分だろう。

安全の満足によって身体が豊かになれば、高次欲求が湧くだろう。それは体力の証となる。その時にも問題は発生するけれど、それはその時だ。

それを容易く失ってしまったのだ。今はそれに届いていない。

 

夕べの状態は良好だった。ご飯を一膳、おかずは肉が数枚、味噌汁は一杯弱を食べる。貧弱だけれど、個人的にはじわじわ食べられている。良かったと思う。

ここからご飯を数口、肉はもう一枚、味噌汁も一杯分を食べたい。そこまでには達すると思う。それが天井になるはず。それ以上を食べていくのは難しいと思う。

そこを突破するのには、明らかな食欲が必要だ。自然とたくさん食べられ、間食も食べられるような時。そのような状態でなければ難しい。努力による工夫だけでは、どうしようもない限度があるはず。ノイローゼの限度を超えるには、正の感情を得るしかない。

 

気掛かりなのは、いかんせん体重の水準だ。それが大台を回復しない限り、安心は出来ない。どうしてもそこまで達しない。それがネックだ。

良くなっていくような要素もないし、あまり高望みはしない方が良いだろう。ひとまずは通院日を迎え、診察にまつわるしこりを取り除きたい。

そしてまめに歩くこと。それくらいしか良くする切っ掛けが見つからない。それらが効果のあるものなら良いけれど。

昼食では少し無理をしたかもしれない。母に「それしか食べないのね」というようなことを言われた。それが意識に引っ掛かり、無理に繋がったと思う。実際に食べる量が少ないと実感していたため、母の心配と自分の心配が重なった。よりたくさん食べられるだろうと思い、数口を余計に食べたかもしれない。

母にも悪気はないだろうから、注意しても険悪になるだけだろうか。それが面倒だ。でも、伝えないと分からない。伝える意義はあるのだろう。

不定愁訴とは厄介だ。ノイローゼとは。コンプレックスとは。

 

また明日。

 

参考書籍: