欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

認識の繰り返し 万全な下準備

自宅に居る。快晴だ。秋晴れといった感じで、小春日和。秋か春かといったところ。

今日も図書館を中心に歩いた。ただ、少し力が足りなかったというか、もっと身体の強度があるべきだと思った。まだ体力は万全でない。駄目駄目だった訳ではないけれど、それなりの水準には達していない。

食事量でも現実が分かる。まだまだたくさん食べられない。よく食べられるようになれば、今の摂取量を乏しく振り返るのだろう。まだまともな量ではない。もう一段は底上げしたいところ。それが最低水準だ。

夕べはあまり食べられなかった。昼食で少し食べすぎたのだろう。個人的な感覚により、その自覚があった。きっとそれが事実だ。負荷になるほどの無理ではなかったけれど、腹の動きが止まってしまった。夕食の時間までに腹が空かなかった。

それを定時に思っていて、食前の漢方に望みを託したけれど、腹は動かなかった。

運もあるだろうけれど、食べすぎたのが原因だ。それに胃の持久力も付いていない。それがあれば、ある程度は食べられたのだろう。

 

食べ始めたもの、腹は受け付けてくれなかった。雲行きが完全に悪く、用意した量を全て食べられないと悟った。

ある程度でのどが渇き、そこで手を合わせて薬を飲めば良かったものの、食べられていた量が少なかった。完全な失速は受け入れたくなかった。

そこで抑えれられたのなら、間食でも食べられたのだろう。でも、何とか許容範囲まで食べてしまい、少し気分が悪くなった。

 

翌朝の胃はフラットだったものの、今度は寝坊をしてしまう。夜明けが六時台なのは困る。夕食から時間が空いているため、早く食事を摂ろうと身体を起こした。

漢方を飲むとたくさん食べられそうな気がしたものの、寝坊を考えるとあまり食べられなかった。起き抜けの内臓に負荷をかけられない。

それなりには食べられた。ルーティーンをこなし、内的に費やして散歩へ出た。

やはり、些細な無理が調子を狂わせる。それは食事であっても、生活のリズムでもだ。それを改めて思った。それがなければ元通りになる。普通になれる。

普通の人は、目一杯の無理などをしない。それが当たり前だから普通なのだ。だから普通に健康でいられる。

無理をなくすには、表面的な工夫では無理だ。本質からの治癒が必要。つまり欠乏状態から脱しないといけない。

コンプレックスの沈静化が必要。それが発現してしまう時は、過去のトラウマが再現される可能性がある時。その状況を変えない限り、どうしても無理をしてしまう。

 

朝は無理に起きないこと。そして空腹で食事を摂り始めても、早期膨満があれば無理をしないこと。その賢明な判断が出来たら良い。

食欲を湧かせるにも欠乏の満足が必要だ。全ては一つの歯車で繋がっている。ノイローゼでなくなれば食欲が湧き、無理もなくなる。

体重によって安全の満足が得られたら、心身を保つために無理をしなくて済む。運動をして食欲を湧かせ、胃の持久力によって安全を得る。

その先で所属と愛を満たし、在りたい日々に近付くこと。そこまで達すれば、豊かさを得るために頑張らなくても良い。もう豊かになっているだろう。

認識を改めて記した。ここまで来れば、やるべきことの下準備は済んでいるだろう。あとは現実で行動に移すこと。それをするしかない。

そのためにはまず、安全の満足を満たさなければならない。

 

また明日。

 

参考書籍: