自宅に居る。机から見る窓には結露があり、辺りがよく見えない。外は厳しい寒さなのだろう。でも、部屋の中は問題なく暖かい。辺りは一面が雪化粧をしていて、午後になって白いものが降っている。それは速く地面に落ちていった。
午前は雲間から青空が覗けたため、歩きに出た。でも、荒天の予報がされていたため、怖くなって途中で帰った。風は強く、路面は本格的に凍っていた。いつもより五分は短い行程だった。
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今日のやることは多くない。昨日にブログは書いた。ただ、今もこうやって記している。常に考えていることはあり、何らかのフィードバックをしている。病める間なだけに、この場所に記す種は生まれる。その間はそれを全て記したい。
変わらず刺激のない日々。それは家に居る母も同じだけれど、母には不定愁訴がない。何故だろう。それが羨ましい。何の違いがあるのだろうか。それがよく分からない。
生活は家族に確かにしてもらっているし、食事を束縛する人はいない。だから好きに過ごせば良い。でも、自分は何かに縛られている。
才能の差か?才能を活かさなければいけないのか?マズローはノイローゼの事を「人格成長の失敗」と記した。完全な人間性からの脱落、人間性の十分な開花からの転落であり、人間の可能性の喪失でもあるそう。
つまりはこうか。まず才能は用いなければなない。そのためには欠乏欲求の満足が必要で、その土台の上に成長欲求がある。その前提が崩れてしまえば、人の心身には由々しきことが起こる。完全な人間性からの脱落となり、それは人間の可能性の喪失にもなる。
才能がある人ほど初歩につまずきやすく、それがない人ほど普通の健康はある。そのように思える。これは自分と母親を参照している。全く根拠はないし、偏見や蔑視ですらあるのだろう。
才能というのは、主機能を使うエネルギーが多くあるということか?主機能を日頃からよく使いこなしていて、それは普通の人よりも強い。そうなると、同じように劣等機能も好ましく用いなければならない。
それが出来なければ主機能が暴走し、エネルギーの空回りが起こる。すると失われた資源を取り戻そうと、劣等機能を誤って用いてしまう。それによって歪みが病的に現れる。
その過程が病的さを生むのか。才能すなわち主機能によるエネルギーが強くあるため、劣等機能を上手く使わないと強く疲弊する。右手を使うには左手が必要なように、それらを適切に配分しない限り、初歩的なことにつまずいてしまう。
よくは分からない。ただ思い浮かぶのは、ユングの書籍やマズローの原典には、才能を用いることで平気になった事例があったはず。それを思い出した。
マズローの概念が本質を突いているとすれば、きっとそうなのだろう。自分の引き合いはMBTIのことしかない。劣等機能と重なるものは、刺激追求性と欠乏欲求について。劣等機能を用いることは、自己実現にも重なる。
才能を活かせるような暁は、欠乏欲求の満足が欠かせない。十分な健康がないと才能は活かせない。それくらいにならなければ、まともには生きられないということか。
才子多病や佳人薄命の本質を解明できたら面白い。聡明で創造的な芸術家の運命を知りたい。ギフティッドやセンシティブさについての認知も一役買いそうだ。
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夕べもまた腹が空かなかった。これも昼食に原因があったのだろう。たくさん食べようとしてしまう。それは数口であっても、爽快に腹が空いていなかったり、早期膨満があれば無理になってしまう。
良い腹でいられるのは、腹八分目で食べ終えた時。そのくらいであれば、頭は回るし腹が空く。その時の気分も良い。
でも、今の状態での腹八分では、摂取量が少ないと思ってしまう。それでは痩せてしまうと感じ、低体重で推移するのみと鞭を打ってしまう。
でも、ノイローゼであればたくさん食べられない。腹八分で食べ終えるしかない。
その事実はあれど、どうにも無理をしてしまう。それはノイローゼによってコンプレックスが顕在化するから。第二の支障がある。
腹が空いていないのに満腹になると、そちらの方が多くを失う。長い目で見ればそうで、小さな無理は大きな代償をもたらす。その負債を返し終わっても、多くの時間を失ったことに気づく。
気楽に食べ進めていけば、次第に食べられるようになる。その方が結果的には良い。羨望を向けている普通の人は、その状態が当たり前なのだ。その当たり前のケアをしている。辛いのに頑張りすぎないこと。
夕べはあまり食べられなかったものの、入浴後に胃が楽になった気がした。そこで間食を食べてしまう。
振り返ると、そこまで胃は爽快ではなかった。口で消化すれば甘い液体になるようなものを摂る。そこで辛くはならなかったものの、明確に食べたくて堪らなかった訳ではなかった。だから液体であるのに負荷となった。
朝食は夕べを踏まえ、食べられる量を食べようとしていた。でも、それでは少ないと思ってしまい、一口か二口を余分に食べてしまった。それが昼に影響し、腹が空かなかった。昼も食べられないのをごまかそうとし、また食べすぎてしまう。
明らかな胃の重さと不快感。夕食が入っていく余地がない。全くもって感じられない。食べすぎに気付いたのはつい先程で、遅れて昼の胃薬を飲んだ。それは前回の診察で処方されたもので、食べすぎの時に頓服で飲むためのもの。それを渋々飲んだ。
自分の状態が不完全であるのを証明してしまった。そう感じた。調子が良ければここまでには陥らない。
ノイローゼの胃と無理のたたり。無理がなければ上向いていくのか?それが分からなくなった。運動の効果も薄いし、安全感があるのかも分からない。
食べすぎはよくあり、その度に「この感じにはもうならない」と誓ったりする。でも、またその感じになってやるせなくなる。その繰り返しだ。一向に変わっていかない。
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通院日から一週間。その後には上向くことが多いけれど、今回はそれがない。多少は食べられていても、そこから上向いていかなかった。多少の好調コンプレックスもあっただろう。余裕を持ちたいという気持ちは、正にも負にも混ざっていた。
これから数食に渡って負債を返さなければならない。摂取量も減ってしまうのだろう。こうやって時と摂取量を失ってしまう。
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胃薬が効いてほしい。そのための診察だった。これが効くのなら、他に良い効用もありそうだ。
大台に戻るような軽快な摂取をしたい。そうなって体力と余裕を取り戻したい。
また明日。
参考書籍