欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

繋がる認知 喪失までの猶予

自宅に居る。曇りだ。歩きたい気持ちはあるけれど、胃炎につき控えよう。少し食べられる量も減ったし、無理は禁物だ。それに晴れてもいない。

 

夕べの状態は悪かったけれど、極端に食べられなかった訳ではなかった。痩せるような量ではあっても、思ったよりは食べられた。

今朝の胃はフラットだったけれど、どこかむかつきや悪心があった。いつもと違う独特な感じで、やはり荒れていたのを感じた。フラットではあったものの、負荷は蓄積していた。無理をしない方が良いと悟った。

それでも、朝食は食べられた方だった。ただ、すぐに消化はされたものの、やはりむかつきや悪心があった。それはいつもなら無いものだ。それで昼食のことが心配になった。

昼の食前には状態が少し治まっていた。朝食では無理をしていなかったはず。どれくらい食べられるか心配だったものの、ご飯を一膳食べられた。おかずもそれなりに食べる。

 

そこで後追いをしない意識があれば良かった。それがどうしてもなかった。やはり、調子をすぐに戻したいと思ってしまった。食べられないことを受容していなかった。味噌汁もなるべく摂ろうとしてしまった。

それもほんの数口だったものの、また食べすぎの腹がある。これで夕食が思いやられる。たくさんは食べられなさそうだし、間食には到底届かない。これはもう定められただろう。

また停滞してしまう。あと一段は上向かせたいのにだ。そこに達しても際低水準なのに。

 

母の影がちらついたのはある。いや、それは言い訳なのか。復調の途中では、たくさんは食べられない。それを認識すべきであっても、はやる気持ちが出てしまった。

ご飯一膳とおかずだけでは、どうにも心細い。それに加え、母に少ない摂取を察せられたくなかった。用意した食事が減っていなければ、病的な状態であると知られる。それをどうしても避けたかった。

直近で何か指摘されたことはないものの、以前はあった。それは何気ない言葉であっても、いつか思い出してしまう。今回も時を隔てて浮かんだ。

普通に食べられたのなら、用意してある食事は数食で減っていく。そうならないのであれば、全然食べられていないと思われる。その心理を考えるだけでも堪らない。だから無理をした面もある。

 

一人暮らしでもすべきだろうか。それが実は効果があるのか?以前のエントリーでは、「緩衝地帯を設ければ、それだけで大方は楽になるだろう」と記していた。それも事実なのかもしれない。

でも、春頃の好調時は、今とほぼ変わらない生活をしていた。そう考えると辻褄が合わない。

無理は養育者の目が大きいのか?それをこれからで考えたい。それが実は強力なのか。

不調に陥った時は、つい数日前の調子を思い出す。「その時でも十分な体力があったではないか」と、羨ましく思う。

それはいつもの繰り返しだ。ここでも何回も記している。それに加えて思うのは、「食事くらい気楽に摂れば良い」ということ。これもつい最近に思っていて、ここに記した。

不自由を抱えているのだし、それは認められるだろう。生活に束縛もないのだから、気楽にのうのうと過ごせば良い。「そこまで食事のケアに圧力をかけなくても良いだろう」と思った。

それらの認識を再構築したはずなのに、どうしても無理をしてしまった。身体が少しでも上向けば、途端にこれらは消え去ってしまう。ありのままの内部信号は霞み、コンプレックスによる意識にとって変わる。

 

生活にストレスはないはずなのに、常にトラウマの再現を阻もうとしている。体重を底上げして保ちたいし、下手な養育者に干渉されたくない。そして不自由を抱えていても、惨めな生活からは脱却したい。自立をしてまともに生き、誰からも責められたくない。

それらの気持ちが強くあり、意識に上がって無理をしてしまう。体重、小言、惨めさ、それらと不調コンプレックス、トラウマ、好調コンプレックス。

欠乏欲求の不満足により、ノイローゼで身体の水準は下がってしまう。そしてコンプレックスが頭を支配し、繰り返し無理をしてしまう。

一人暮らしでもすれば幸せになれるのか。どうなのだろう。その分、生活の全てを自分で抱えないといけない。それが出来るとでもいうのか。

内的に費やし、運動をして身体を保つ。そしてペットにでも居てもらう。そんなわがままな理想がある。それだけで生きていけたら良い。生き延びるために生き、迫られたら自分で生活していく。その術を学んでいく。

そしてどこかに属す場所があれば良い。そこで人と会って親密になれたら至高だ。病を介せばそれが出来そうだけれど、どうなのだろう。

 

このままこうやって格闘し続け、ただただ時が経っていきそうだ。この町でまともに生きていく術がない。歩いて物を買うには力が足りず、車がないと生活は完結しない。いや、この狭い町だけで生活は完結しない。

田舎を潰そうとする政治があれば、移住せざるを得なくなるかもしれない。それは実現しないだろうけれど、それくらいのことをしてほしい。そんな馬鹿げた期待がある。それくらいしか切っ掛けがない。

 

お金を稼げたとしても、それだけで生きてはいけない。ノイローゼを治し、体力を得る必要がある。安全の満足を得て身体を維持し、所属と愛によって真の治癒をもたらすこと。

刺激追求性によるフラストレーションと、内向直観の暴走によるエネルギー喪失が問題。それは基本的欲求の満足で改善される。求めたい刺激は対人的なものが強く、欠乏の満足と劣等機能によるエネルギーの確保は繋がっている。

安全の満足は不調コンプレックスを鎮め、所属と愛は好調コンプレックスを鎮める。刺激追求も可能となるだろうし、外向感覚・感情の使用によって、内向直観を健全に用いるための資源も得られる。そして社交不安の種もなくなり、こちらも資源を得られる。

能力は最大限発揮され、自己の回復と実現、個性の磐石化が可能になる。

いつかは予測可能な要素によって生活を変えられる。それは家族との別れだ。その喪失による代償は大きい。生活を大きく変えてくれるかもしれないけれど、そこで何も出来なければ自分も消える。だから、そうならない内に何とかしたいところだ。

 

この町でも出来ることはないのか。誰か居ないのか?出戻りの同窓生とか、居残りの奴は居ないのか?

嗚呼、どうしたら良い。人と関係を築くとしても、全てゼロからだ。いざ誰かと会うことが出来ても、緊張して思い通りにはならないのだろう。もう十年も世の中や同年代と隔絶されている。

ではペットなのか?それともインターネットの擬似社交?それで満足できる?あとは運動すれば良い?それだけで前述のコンプレックスが消える?嗚呼。

もうすぐ年の瀬だ。早く幸せになりたい。フィードバックをすることがなくなれば良い。

 

また明日。

 

参考書籍: