欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

不可侵の立脚 冒険の糧

自宅に居る。今日も雨模様だ。中程度の雨が降っている。午前もそれなりに降っていたため、今日は歩かなかった。

それでも、昼食はよく食べられた。胃が軋むような良い感触は、どの状態で発生するか分からない。それはまちまちで、今日はそれがあった。何が食欲を左右するのか分かりにくい。前の食事の収まりか、運動か、それとも疲労度なのか。

そう考えると、確かに腹八分で食べられた気がする。朝食がそうだったかもしれない。そこで運動をすればなお良かったか。

昨日と比べて胃が軽い。僅かに間食を食べられそうな気がした。でも、そこで無理はしない。まだ調子は戻っていない。調子は悪くないものの、胃炎の時に胃の持久力が落ちたのだろう。状態はフラットでも、強度は戻っていない。

少し貧弱でも継続して満腹になり、それを持続させること。そうやって胃の持久力を付ける。そうする必要がある。その段階を越えなければ、腹九部に達しただけで駄目になる。

焦りは禁物。徐々に状態を底上げすること。そうすれば体重も少し増え、そこで安定しだすだろう。そのケアが出来れば、一週ほどでたくさん食べられるようになるはず。

夕べはそれなりに食べらた。昼食できつくなったけれど、水分を少し摂ったのが効いたかもしれない。定時に近付くと胃は落ち着き、そこで漢方を飲むと良い感じになった。それは食べる前に分かった。一昨日よりはましに食べられると感じた。

ご飯はそれなりの一膳と、薄い肉を五枚、味噌汁を数口食べる。少ないのだけれど、一膳を食べきるのに辛くはなかった。それが良い兆しだった。多少は一膳を食べた後にも食べられた。

そこからもう少し食べるのが理想でも、今はそこに達しなくて良い。それはこれからだ。悪くない結果だった。

入浴をした後、間食を食べられそうな気もした。でも、そこで食べなかった。強く食欲があった訳でもないし、焦りによる意欲だと感じられた。食べた直後でも楽だった訳ではない。その少し微妙な状態を感じられた。

 

今朝は起きてほとんど負債がなかった。それは夕べの寝る時にも分かった。良い摂取が出来た時は、その直後に次の食事を待ち望める。それくらいでないといけないだろう。胃の状態は地続きだ。

食前の漢方を飲むと、状態が落ち着いてよく食べられそうだった。食べ始めるとするする食べられる。食べても気持ち悪く腹に溜まらない。いつもは食欲が減退するところで、今日はそれを感じなかった。

以前の最良量を食べられそうだった。そう感じられ、それを食べても良いかと思ったものの、直感で避けるべきだろうと感じた。いつもそうやって無理の範囲に収まる。その事を浮かべられた。朝は理知の強さがある。

 

その摂取が今日の昼に効いたと思う。運動をせずとも少しは腹が空いた。ここで爽快に食欲が湧けば良いけれど、そうならないのは仕方ないか。早期膨満感はなく、食後の収まりも良い。念のために水を飲んでおいた。

これがまた効けば良い。夕食はどうなるのだろう。ここで好不調コンプレックスを湧かせないようにしたい。腹が空かなかったとしても、次の食事に繋がれば良いのだ。翌日によく食べられたのなら、それだけで上向いていくだろう。一食で打開をしないこと。

午前に内的に費やしていると、少し気分が悪くなりかけた。本を一時間ほど読んでいて、その前にもスクリーンで文を読んでいた。多少の疲れを感じていたのに、そこで踏ん張って読み進めてしまった。

晴れていたら散歩が出来なくなるくらいだった。詰めすぎは良くない。それでも、少し休むと楽になった。そこでこうやって記している。酷く消耗はしていない。

これは体力の証に思える。以前は作業だけで参った時があった。明らかに食べられなくなれば、内的に費やすだけのことも出来なくなる。読むのも書くのも出来ない。その状態を思えば、十分な力はあるだろう。

頭のそれと同じくらい体を動かしても、そこまで応えないはず。昨日も散歩をしたし、そこまで辛くはならなかつ た。

胃の負債や早期膨満が少なければ、ある程度は食べられる。そうなれば体力もそれなりになる。一日内的に費やせたり、十五分ほど歩けるような水準に達する。そこまでに持ち込めたなら、暫定的な安全圏に入るだろう。

そこから無理や早食いを減らし、負債や膨満感をなくしていく。そのようにして摂取していけたら、少しずつ上向くと思う。調子が傾くのは、やはり細かな無理があるからだと思う。

 

理知の力で十分な胃の持久力を得たい。そこまで達すれば、体重が増えて安全が得られる。そうなれば真の安全圏に入るだろう。多少の無理で応えることはなくなる。

あるいはコンプレックスを鎮めてしまうかだ。そのためには暫定的な安全圏に入り、誰かと会ったりして満足を得ること。そんな日常が得られたのなら、身体に立脚してトラウマを打ち払う必要はない。

 

でも、会う人は居ないし、出会うための居場所は遠い。居場所にはるばる行くのならば、胃の持久力によって安全を得たい。そうならないと、社交の際の心の資源が得られない。

だから身近に誰かが居ないかと記している。今の環境では安全の満足が遠いし、所属と愛を得るにも遠い。

 

誰か会う人が居れば良い。一人でも居てくれたら良い。生活の満足も得られるし、健康に近付く。公的な不自由の認定に加えて、ただ籠っているという判定をも覆せる。ゆっくり大人になっていると叫べる。

労働は出来ないと認めてもらい、かつ個人的に内的な仕事をしていく。そのなかで友達と会っていれば、社会と断絶されている訳ではなくなる。

この状況が理想だろう。あるいは居場所へ出掛けても良い。それが社会との繋がりとなる。健康や自立、自活へ向けて何かをしていること。建設的な日々を積み重ねているならば、誰かから責められる余地などない。

記していて思いがけず目標が定まった。アーロン博士いわく、大人になる時期は、試行錯誤の時期であるそう。冒険を繰り返して道を見つけていく。

「失敗しても後悔することはない。でも、冒険しないと後悔することになる」

そう記されていた。それは実感をもって共感できる。冒険をして大きな傷を負った記憶はない。仮に傷や後悔を負ったとしても、いずれ大きな糧に変えられる。それは大きな財産となるし、何もしなかった時には得られなかったものだ。

 

問題の解決とは、考えることが全てではない。行動をすることだ。何をすれば良いか分からない時は、手当たり次第に可能性を試せば良い。

下準備は着々と積み上がっている。

 

また明日。

 

参考書籍: